第四章 怨嗟に狂った研究者
4-1
敬愛する上司へ。かねてより世話になっている貴官の血圧が心配な今日このごろ、二階級特進を遂げようとしているこの不出来な部下をどうかお許しください。当官は現在、誘拐された挙句に手足を縛られる緊縛プレイを初体験しています。護衛対象は護り切ったはずですので、どうか叱責は勘弁してください――。
意識が浮上して、鈍く動き出した頭でアシエルが考えられたことといえば、そんなことくらいだった。攫われる直前に見たものが上司の顔だったせいだろう。
目隠しをされている今、ゼークラフト中尉のように透視ができるわけでもないアシエルに、場の情報を得る
今の今まで意識を失っていたせいで、時間感覚どころか、ここがどこなのかすら分からない。分かることといえば、アシエルが芋虫のように転がされている床がやたらと固くて冷たいことと、魔術を一切発動できないということくらいだ。
どうやらペンダントを奪われたらしい。
詰んだな、とアシエルは世を儚んだ。
(なんでこんなことになったんだかなあ……)
はじまりは、ごくごく一般的な貴族令嬢の護衛任務のはずだった。
* * *
「勇者! もう一度見せてちょうだい」
「これで十回目だよ。もうやめねえ? お付きの人、馬車に酔ってるぞ」
「あら、軟弱なこと。あなたは休んでいなさい、マーヤ。わたくしは勇者の魔法のタネを見抜くまでやるから!」
大人びた動作でツインテールをかき上げる少女の名は、クリスティーナ・ランカスター。今年で十歳になる、公爵家のご令嬢だ。のどかに街道を進む馬車の中、彼女はアシエルの手品に夢中になっていた。
「さあ、どうぞ。お姫様。一枚カードを選んでください」
一束に集めたカードを、裏返したまま扇状にばらけさせ、恭しく差し出す。大きな目を零れ落ちんばかりに開いたクリスティーナは、ぱっと一枚のカードを指さした。
「これにするわ。今度こそ騙されないから」
「人聞きが悪いなあ。さっきから何度も見てるだろ? タネも仕掛けもないっての」
「嘘。あなたが中尉さんみたいに優秀なセンチネルだっていうならともかく、普通の人間が見もせずにカードを当てられるはずないもの。絶対仕掛けがある」
自信満々に言い切ったクリスティーナは、己が選んだカードの数字を確認すると、さっと膝下に伏せてしまった。すでに十回は繰り返した手品を前に、ここまで気を張られてしまうと、どうにもこうにもやりにくい。クリスティーナの気を逸らそうと、アシエルは茶化すように口を開いた。
「中尉さんではないけど、俺も一応少尉さんだよ、お姫様」
「勇者の割にはぱっとしないのね。将軍にくらいなれないの」
「将軍って言ったら軍のトップだぜ? 俺みたいな平民じゃ二階級特進したって手が届かねえよ」
「あら、昇進の手段に命を落とすことをまず挙げるなんて、後ろ向きな考え方をするのね。制度のせいで昇進できないと言い訳するくらいなら、自分でそれを変える程度の気概は見せてほしいものだわ。あなた、勇者である前に、一人前の大人でしょう?」
「厳しいねえ」
「気を逸らそうとしたって、そうはいかないから」
きりりと目尻をつり上げたクリスティーナは、顎をつんと上げてアシエルを見据えてきた。悲しいかな、身長の関係で、クリスティーナがどう頑張ろうともアシエルを見上げる形にしかならないので、いまいち迫力はない。
「まあまあ、もっと気を抜いていこうぜ、お姫様。こういうのは純粋に楽しむもんだって」
「おかげさまで楽しんでいるわ。平民の遊びも悪くないものね。だからこそわたくし、仕掛けが気になるの」
「何度見たって、タネも仕掛けもございません。お姫様のカード、真ん中に入れるよ」
「いいわよ」
公爵令嬢とアシエルがテンポよく言葉を交わすたび、隣に座るゲークラフト中尉の顔はどんどんと青ざめていく。視線が会うたび、ゲークラフト中尉は口を指さしながら必死に目で訴えていた。
――
言われるまでもなく、アシエルとて理解している。しかし、上位の身分の者に対してあるまじきアシエルの軽い口調は、目の前で真剣な顔をしている当のクリスティーナ本人の命令によるものなのだ。どうしようもない。
『あなたがユリアお姉さまの言っていた勇者? 平民なんですってね。普段通りに話しなさい。下町言葉に興味があるの。馬車の中なら口うるさい者は誰もいないから。わたくしが許すわ』
小さな体で仁王立ちになり、それはそれは偉そうに言い放った娘は、今は真剣な顔でアシエルの手元を見つめている。苦笑しながら、アシエルはパチリと指を鳴らした。
「ほら、お姫様の選んだカード、これだろう?」
まばたきひとつしないクリスティーナの前で、アシエルはカードをめくって見せた。現れたカードを見て、クリスティーナは口をへの字に曲げる。
「……わたくしの選んだカードだわ」
「な、イカサマなんてしてないだろう?」
「もう一回よ、勇者。もう一回!」
「何回目だよ。そろそろ勘弁してくれ」
もう一度、もう一度とねだるクリスティーナに困り果てていると、おそるおそるといった様子でゼークラフト中尉が口を挟んできた。
「クリスティーナ様。恐れながら、プサイの街まではもう距離がありません。そろそろカード遊びはお控えになられた方がよろしいのではないでしょうか」
「あら、もうそんなに進んだの? 中尉さん」
「ええ。目視できる距離に入りました。日が落ちる前には街に入れるはずです」
「わたくしには街道が続いているようにしか見えないけれど、目のいいあなたが言うならそうなのでしょうね」
大人びた笑みを浮かべたクリスティーナは、急にいくつも歳を重ねたかのように冷静な口調で、「それで?」と話を促した。
「無理やりにでもわたくしに会いたくてたまらないという困ったお方は、どこかに見えて?」
ぴりりと空気が張り詰めた。
王都の中心に住まう公爵令嬢が、特務部隊に囲まれながら街道を進んでいるのは、ひとえにその身が危険に晒されているからだ。
事のはじまりは、王都から貴族の子女が消えているという報告だった。男爵家の五男、子爵家の双子の片割れ、伯爵家の妾腹の子――目立たぬ弱い立場の子どもから始まって、直近では、伯爵家の次女に、侯爵家の三男までもが姿を消した。被害者に共通するのは、いずれも高い魔力量を持っていたということだ。
王都の地下水路を利用した、なんらかの魔術が使われていることまでは魔術部隊が突き止めたものの、いまだ詳細な手口と犯人は分からずじまいだ。
護衛で周囲を固めても、気づかぬ間に子供たちは部屋から姿を消していく。唯一の例外が、目の前に座るクリスティーナだ。襲撃を受けた日、彼女は襲撃者に対して魔力を投げつけ、撃退することに成功した。
「警備は万全です。ご安心ください、クリスティーナ様」
宥めるようにゼークラフト中尉が声を掛けるが、クリスティーナの憂いは晴れない。安心したいものね、とぼやきながら、小さな淑女は天を仰いだ。
「『必ず君を手に入れる』なんて無礼な言葉を聞かされていなければ、楽しい旅ができたでしょうに」
「如何なる術式を用いているにせよ、王都さえ離れてしまえば効果範囲から脱するというのが専門家の見立てです。今しばらくご辛抱くださいませ」
「分かっているわ」
ゼークラフト中尉の言葉に頷いて、クリスティーナは深く席に座り直した。
公爵令嬢までもを
先ほどまでのはしゃぎっぷりが嘘のように静かになってしまったクリスティーナを見て、アシエルは苦笑しながら声を掛ける。
「大丈夫だよ、お姫様。この身に代えてもお守りしますって」
「ふん、少しは勇者らしいことも言えるのね」
明らかに虚勢ではあるが、クリスティーナはいかにも気の強そうな仕草で腕を組むと、つんと唇を尖らせた。
「あの不届きもの、勝手に人の影から出てきた挙句、わたくしに向かって『魔力に溢れた最適な検体』と
「ええ、ええ……。お嬢様に向かって、とんでもないことでございます」
侍女と話し始めたクリスティーナの声を聞き流しつつ、アシエルは締め切られた馬車の内装を再度確認した。
陰影が生まれぬよう周囲を閉め切ってしまえば、たとえ術式の詳細が分からずとも、影を媒介にする魔術は封じたも同然だ。都市圏さえ抜けてしまえば、あとは守りの固い屋敷まで、このご令嬢を送り届けるだけだ。
単純で簡単な、護衛任務のはずだった。けれど、想定外というものはどこであろうと起こり得る。相手が感情で動く子どもであれば、なおのこと。
「マーヤ、大丈夫? 気持ちが悪いの? 外の空気を吸いましょう。ほら」
アシエルが目を離したほんのわずかな間に、クリスティーナは目張りの中に指を差し入れ、窓を開けていた。ぎょっとしながら手を伸ばし、慌ててアシエルはクリスティーナを引き戻す。
「お姫様、何やってるんだ! 開けたら危ないって教えただろう」
「少しなら構わないでしょう。マーヤの気分が悪そうなの」
「申し訳……ございません」
真っ青な顔をした侍女が、口元に手を当てながら涙声で言う。開いた窓の隙間から、冷えた外の空気が流れ込んできた。同時に、一匹の黒い蝶がひらりと隙間から潜り込んでくる。
「あら、きれいな蝶!」
思わずといったようにクリスティーナが指を伸ばす。人差し指をくるりと旋回した黒い蝶は、次の瞬間、急激に体積を増していた。
「ぇ、きゃ……っ」
「扉を開けろ、ゲークラフト中尉!」
警告したときには遅かった。旋回しながら馬車の天井目掛けて羽を広げた蝶が、まばゆい光を放ち出す。光はアシエルたちの体に当たって影を生み、そうして生まれた影から、蛇によく似た触手が飛び出してきた。
アシエルは咄嗟にクリスティーナの首根っこを掴んで抱き寄せる。しかし、素早くクリスティーナの首元に絡みついた触手は、アシエルごと彼女を影へと引きずり込もうとした。
「助けて、勇者!」
「分かってる! くそ、切れねえ……!」
剣で切ろうにも、触手は刃を通さない。どうすれば、と歯噛みするアシエルへ、ゼークラフト中尉が焦ったように声を掛けた。
「光を作れ、少尉!」
「光? 分かった」
言われるがままに生み出した光は、黒い触手を消すことこそなかったものの、動きを鈍らせ、その輪郭を溶かすだけの効果はあった。
影を睨みつけたアシエルは、ふと気づく。クリスティーナを絡み取る黒い触手は、影の沼に入るや否や、溶けて形を崩しているように見える。
(あれなら千切れる)
逡巡は一瞬。影の沼へと飛び込んだアシエルは、クリスティーナを絡めとる触手を、力尽くで引きちぎった。
「アシエル少尉!」
「大丈夫だ!」
いささか粘度の高い液体ではあったが、思った通り、沼の中で溶けかけた触手ならば、ちぎることは難しくない。自身も半分影の沼に沈みながら、アシエルは腕の力だけで影の沼からクリスティーナと侍女の体を順々に持ち上げると、ゼークラフト中尉に押し付けた。
「あと頼むわ、ゼークラフト中尉!」
「頼むわって、そっちはどうする気だよ! 沈んでるぞ!」
「何とかするさ。この術は多分、魔力に反応してる。ついでに敵の情報……探って、くる……よ」
沼に沈む直前、視界の端に、しかめ面をしたゲオール大佐の姿が見えた気がした。頼りになる上司と同僚たちに任せれば、後のことはきっと心配ない。
怒声が聞こえた気がした。けれど、アシエルが耳を澄ませるよりも早く、ふわふわとした感覚とともに意識が遠ざかっていく。ごぽりと音を立てて自身の身が完全に影に沈んだ瞬間、アシエルの意識はぷつりと途切れた。
* * *
かくして、今に至る。
意識を失う直前の出来事を思い返しつつ、アシエルは仕方ないよな、とため息をついた。こうも易々と捕えられてしまったのは誤算だが、クリスティーナを守りきれただけ、良しとしよう。
ふと、絶えず響く水音に混じって、重々しい音が聞こえてきた。人の足音だ。規則正しい硬質な音は、軍靴の音によく似ていた。やや早足のはきはきとした歩調は、軍隊経験者に特有のものだ。
近づいてきた足音は、アシエルの近くでぴたりと止まる。このまま寝たふりをしていてもいいけれど、今は少しでも情報が欲しかった。意を決して、アシエルは口を開く。
「どうも」
今の今まで意識を失っていたせいか、アシエルが発した声は、寝起きのように掠れていた。
「どちらさまか知らないけど、目隠しと手かせと足かせと、できれば全部、解いてくんないかなぁ。床が固くて、全身痺れちまった」
言った己自身ですら緊張感がないと感じる口調は、別にアシエルが意図してそうしているわけではない。ろれつが回らないのだ。薬物でも打たれたか、と首の後ろに冷や汗が滲む。
「くふ」
笑い混じりの吐息が聞こえた。
「拘束を外してほしいかね、
聞き覚えのない男の声だった。興奮を無理やり押し殺したような上擦った声は、聞いているだけで鳥肌が立ってくる。勇者という呼び方からして、向こうはアシエルのことを知っているのだろうが、成人男性を拘束して興奮する性癖の持ち主に心当たりはない。
何はともあれ、今は生き延びることが先決だ。アシエルは媚びを込めて答えを返す。
「うん。外してほしい。頼むよ」
「お願いしますと言え」
「お願いします。サー。旦那様」
「ふ、ははは。プライドのない男だ。利口でよろしい」
ガチャリと鍵が外れる音がして、ごく近くで男がしゃがみ込む気配がした。首の筋が痛むほど乱暴に、男はアシエルの目隠しをはぎ取る。
目隠しが外れた途端、視界に飛び込んできた人工的な光に目が眩んだ。つんと鼻をつく消毒薬の香りに眉を顰めつつ、アシエルは目を細めながら男の顔を確認する。
「相変わらず下品で教養のない顔をしているねえ、君は」
「はあ?」
アシエルよりも一回りほど上の年代と思わしき男は、白衣をまとい、清潔感に欠ける長髪を後ろでひとつに束ねていた。見かけはいかにも研究者だが、分厚く鍛えられた肉体と、色濃い憎しみを映して濁った瞳が、形容しがたい違和感を醸し出している。
目が合った途端、男はアシエルの後頭部を掴み、容赦なく床に打ち付けた。
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