3-4

 ガイドを使い潰してしまうとして、本人が望んでそうしているとは限らない。調律の受け入れ方さえ知らないまま、ぎりぎりのところで生きてきたのだとすれば、こんなにも乱れた力を、死にかけるまで放置しているのも説明がつく。

 根拠も何もない、ただの勘だ。他人の心も人生も、語られぬ限りは分かりやしない。

 けれどもアシエルには、その真偽を確かめる手段があった。

 

「なあ、名前は?」

 

 努めて軽く、アシエルは問いかける。

 

「……何?」

「あんたの名前。ああ、役職も家名も名乗るなよ。下町の店でたまたま行き会った隣国のセンチネルの軍人。それ以上は興味がないし、聞きたくない」

 

 聞かずとも家名と役職は知っていたけれど、あえてアシエルはそう言った。

 ふと思い立ち、一方的に掴んでいた手を一度放して、握り方を変えた。手のひらと手のひらを合わせて、握手の形にする。

 

「改めて、俺はアシエル。イーリスの兵士をやってる平民で、ガイドだよ。あんたは? テンペスタの兄さん」

 

 辛抱強く返事を待つ。伏せられていた男の目が、ゆるゆるとこちらを向いた。真っ赤な瞳と視線がかち合うと同時に、ベイグラント准将はようやく口を開く。

 

「……ディズジェーロ」

「ディ……ゼロ?」

 

 耳慣れぬ響きの音だった。舌を噛みそうになりながらアシエルが反復する。形容しがたい表情をしたディズジェーロは、子どもに言い聞かせるようにゆっくりと言い直した。

 

「ディ、ズ、ジェーロ」

「でぃず、ジェーロ。ディズジェーロか。テンペスタの名前は発音が難しいんだよな」

 

 ごまかすようにへらりと笑い、アシエルは握り合った手を一度振る。

 

「それじゃあディー」

「なんだそれは」

 

 勢いで押し切るつもりだったが、流してはもらえなかった。

 

「舌噛みそうなんだよ。許せ」

 

 からりと言い返せば、困惑したようにディズジェーロは眉間に皺を寄せた。先ほどよりは、多少強張りが解けただろうか。正面から目を合わせ、アシエルは言葉を続けた。

 

「死にそうな顔してるやつがいるとこっちが気になるんだ。やばそうならやめるし、調律試してみねえ? 俺、専属組むほどがっつり相性の合うセンチネルはいねえけど、代わりに誰とでもそれなりに合うのが売りなんだ」

「『誰とでも』……」

 

 言葉の一部を拾ったディズジェーロは、不機嫌そうに目を細めた。そういう顔をしていると、ごろつきたちを殺さないのかと当たり前のように尋ね、ごく自然に拷問染みた行為を行っていた姿も腑に落ちる。

 

「お前は軍付きのガイドなのか」

「俺? いんや。見ての通り、俺は単なる平民なんでね。軍部の下っ端だよ。たまに応急処置でガイドの真似事をすることはあるけど、大学校で勉強するような本物のガイドとは違うさ」

「下っ端? 『勇者』なのに?」

「それはな、上の都合のいいように使われる、命を落としても惜しくない戦闘要員の別名だ。まあ、おかげで平民にしては破格の昇進で、給料も上がったけど……。やれるもんなら誰かにやりたいね。そんな称号」

「……分からないでもない」

 

 苦虫を噛み潰したような声を聞き、アシエルは思い出す。ディズジェーロもまた『魔王』という呼び名を預かっているのだ。あんたにはよく似合ってると思うぜ、とは思っても言えなかった。

 短い会話が途切れる。人々の喧騒の声は遠く、目を焼く日の光も、路地の奥深くまでは届かない。

 

「少しだけ。後悔はさせない。試してみろよ、ディー」

 

 目を合わせたまま、アシエルは挑発するように視線に力を込めた。

 そろりとディズジェーロの指が動く。緩く合わさっていた手が、わずかに角度を変えた。より強く絡み合い、触れ合う面積を増した手のひらから、自分のものではない体温が伝わってくる。声に出さない合意のしるしを受け取ったアシエルは、小さく口角を上げ、目を閉じた。

 触れた精神の表面には、はじめ、強い抵抗があった。


「大丈夫」

 

 声を掛けながら強く手を握ると、ディズジェーロが小さく息を詰める気配がした。応えるように、ディズジェーロの手に力が籠る。ゆっくりと抵抗が消えていき――やがて、一気に繋がった。

 

「ぁ、く、……っ」

 

 崩れ落ちそうな膝を、気合いだけで押しとどめる。精神を繋いだ途端に流れ込むディズジェーロの力は、相も変わらず濁り切った鉄砲水のような勢いを持っていた。

 身構えてはいても、衝撃が強い。詰まりかけた息を吐き出しつつ、アシエルは荒れ狂う力を受け入れて、緩やかにディズジェーロの精神へ自らの精神を同調させていった。二度目ともなれば、ディズジェーロの中に満ちる底なしの力への恐怖は消えずとも、無意味に圧倒されることはない。負担があるとはいえ、互いの理性と合意の上で成り立つ調律は、前回と比べれば随分と楽なものだった。

 興味。欲。喜び。猜疑心。諦念。そして恐怖。

 繋いだディズジェーロの精神の中で、様々な感情が浮かんでは沈んでいく。血も涙もない人間とまではいかずとも、おそらくは他者に情をかける人間ではないのだろう。この男は、精神という無防備なものを他人に晒すことをひどく厭い、怖がっている。冷たい殻の内には、敏感すぎる感覚と同様の、ひどく繊細な心が押し込められているように思えた。

 濁った暗い海だろうとも、センチネルの感情は水を通じてアシエルの中に流れ込む。当人でさえ気づいていない人となりや、その人の本質というものは、調律すればある程度は分かるのだ。

 

「どうよ、気持ち悪くないか?」

「問題ない。気分はむしろ、良いくらいだ」

 

 調律にはそれなりの時間がかかる。意味もない会話を交わしている方が、センチネルの気が紛れて調律しやすい。思いつくままにアシエルは言葉を投げた。

 

「あんたの状態、相当ひどいからな。違和感がないなら何よりだ」

 

 濁った水を、自らの内に受け入れ、宥めて返す。水の濁りは一向に改善の兆しを見せないけれど、ディズジェーロにとってはそれでも調律の意味があるらしい。

 

「……あたたかい」


 息を震わせながら、ディズジェーロが囁く。その声を聞き取ると同時に、ぐっと胸が詰まり、泣きたくなるような感覚が体中を見たした。

 アシエルの感覚ではない。ディズジェーロの感じている感覚だ。

 切り崩された浅い崖の下で、今よりも年若いディズジェーロが背を丸める姿を幻視する。

 センチネルの感情が流れ込んでくることはあっても、記憶の断片までもが見えるのは初めてだ。不思議に思いながらも、アシエルは花弁のように舞い落ちてくる記憶のかけらに意識を向けた。

 

『化け物!』

『血筋も知れぬ混じり子の分際で』

『お前はただ、家の役に立てばいい』

 

 本のページを繰るように、ディズジェーロの記憶の断片たちが、次々と目の前に現れては消えていく。

 政敵を陥れるため、センチネルの力を求める者がいた。

 容姿に惹かれて手を伸ばしてくる者がいた。

 時に道具として、時に兵器として、時に飾り物として、その少年は他人の悪意と醜い欲に絶えず晒されているようだった。

 便利な道具には手入れが欠かせない。

 けれど、憐れむように彼に手を差し伸べたガイドたちは、次々と恐怖に目を見開き倒れていった。男も女も、老いも若きも、様々なガイドが彼の前に現れては、物言わぬ姿となって消えていく。

 合わぬ調律へのに身構えれば身構えるほど、記憶の中のディズジェーロが感じる苦しみは程度を増していく。ひとり、またひとりとガイドが倒れるたび、周囲は恐怖と奇異の眼差しを強めていった。調律を拒もうとする幼いディズジェーロを、時に衛兵が囲み、時に父親らしき貴族の男が腕を掴んで、ガイドの前へと引きずり出す。

 ――もう、楽になりたい。

 声なき声が聞こえたと思った瞬間、アシエルの前に広がる記憶は、先ほどの岩山に戻っていた。

 記憶の中の視界は暗く、音は遠い。この記憶の中のディズジェーロは、どうやら死にかけているらしい。

 誰かがディズジェーロの手を握っていた。大丈夫、と囁く子供の声が遠くで響く。同時に、泣きたくなるような温かさがディズジェーロの全身に広がった。全身を湯に浸しているような心地よさとともに、記憶の中のディズジェーロを苛む苦痛が、ゆっくりと和らいでいく。

 あたたかいと呟いたディズジェーロの言葉の意味が、少し分かった気がした。

 そしてどうやら、アシエルの推測は間違ってはいなかったのだと、覗いた記憶の断片から、分かってしまう。

 大きすぎるディズジェーロの力は、ガイドを潰す。精神に触れられることへの恐怖心と、そこから生まれる抵抗の強さが、本人の力の凶悪さに拍車をかける。ガイドを使い潰してしまうのは事実のようだが、本人の意志というよりも、お国の事情か、生きようとする本能が暴走する結果と考えた方が良さそうだ。

 要するにディズジェーロは、アシエルが思い込んでいたような、傲慢な貴族のセンチネルではないらしかった。

 もの珍しく眺めているうちに、ディズジェーロの中に煌めく記憶の断片は、そっとアシエルの手から離れていった。意図せず記憶を覗き見てしまったことに罪悪感を覚えつつ、アシエルは再び静けさを取り戻した海に身を浸し、調律に専念する。

 気が遠くなるほどわずかな変化だが、根気強く調律を繰り返していると、次第に力の濁りが薄れていく。濁っていてさえ、こんなにも大きく、底を覗いてみたくなるほど静かな海なのだ。これが元の色を取り戻したら、どれほど美しいことだろう。

 

「アシエル」

 

 言葉も忘れて没頭していたその時、囁くように呼びかけられて、思わずアシエルは肩を揺らした。自分がどこにいるのか、一瞬分からなくなる。躊躇うように、ディズジェーロは繋いでない方の手をアシエルの体に伸ばしてきた。

 何をしているのだろうと思った瞬間、ディズジェーロが訝しげに口を開く。

 

「顔色が良くない」


 その言葉に、急激に頭が冷えた。

 腕に添えられたディズジェーロの手は、アシエルに触れているのではない。ふらついた体を支えているのだ。

 力の繋がりを断ち切ったアシエルは、ディズジェーロの肩を押して、そっと体を離した。

 汗が首裏を流れていく。身震いをして初めて、アシエルは自身の体が汗でびっしょりと濡れていることに気がついた。一度気づいてしまえば、今まで感じもしなかった重い疲労感が体にのしかかってくる。

 自分で自分の状態を認識できなくなるほど調律に没頭した経験など、初めてだった。自分で調律を申し出しておきながら、とんだ醜態だ。動揺を隠すように、アシエルはへらりと笑顔を浮かべた。

 

「昨日遅くまで遊んでたから、寝不足だな、多分。悪いな、途中で調律切って」

「構わない。――アシエル」

 

 ディズジェーロは、じっとアシエルの目を見た。目を逸らすことを許さないとでも言うように真っ直ぐに見つめられると、どうにも落ち着かない気分になる。

 

「何だよ」

「お前と繋がるのは、心地よかった」

「そりゃ何よりだ」

 

 真面目な顔をして何を言うのかと思えば、そんなことか。拍子抜けした気分でアシエルは苦笑する。半ば押し売りのような形にはなってしまったが、道案内の借りは返せたらしい。

 空瓶を拾い上げたアシエルは、「さて」と軽く伸びをする。

 

「俺、戻るわ。店の片付け、手伝ってくる」

 

 ディズジェーロの肩をひとつ叩き、空き瓶を片手でもてあそびながら、アシエルはディズジェーロの横を通り抜けようとした。通り過ぎざま、ぽつりと低い声がアシエルの背に掛けられる。

 

「また」

「ん? ああ、またな」

 

 また食堂に来る気なのだろうか。休みだと嘯いていたが、そもそもディズジェーロは何をしにイーリスに来ているのだろう。手慰みにヘッドバンドを直しながら考えてはみたけれど、答えは出ないままだった。

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