第三章 嘘つきたちの休暇
3-1
窓辺から覗く空は快晴。棚に置かれたガラス細工が陽光を受けて穏やかに煌めき、木枯らしが葉を揺らす様が、眠気を誘う。
神事の護衛任務を終えたアシエルには、三日間の休日が与えられていた。
「アシエル兄ちゃん、いつまで寝てるの?」
「ねてるのー?」
昼飯を求めてやってきた子供たちが、テーブルに突っ伏しているアシエルを見つけるなり、声を上げて纏わりつく。宿の近所に住む兄妹の、ウィルとクレアだ。
「もう昼だよ。起きなよ、アシエル兄ちゃん」
「起きてるよ。休んでるだけ」
「嘘だあ。どうせ
「お前意味分かってねえだろ、ウィル。次の日に残るような飲み方、大人はしねえの。父ちゃんに聞いてみな」
「分かった」
「わかったー!」
きゃらきゃらと笑った子供たちは、隅のテーブルに行儀よく腰を落ち着けた。
「あんたが大人だって?」
子供用の昼食をウィルとクレアの前に置きながら、からかうようにマリーはアシエルに目を向ける。
「俺はずっと前から大人だろ、マリーさん」
「大人がイカサマで小遣い稼ぎをするもんかい。あんた、
「人聞きの悪い。ポーカーがしたいっていうから、カードを貸してやっただけだよ」
「どうだか」
笑いながら、マリーは近くの棚から前掛けを取り出すと、アシエルに向かってひらひらと揺らして見せる。
「小遣いが欲しいなら、昼だけ店を手伝ってくれない? アシエル。肉詰めの日は混むんだよ」
季節の野菜の中に、甘辛く味付けされたクズ肉がたっぷり詰まった肉詰めは、大人から子供まで皆が好む人気のメニューだ。苦笑しながら、アシエルは前掛けを受け取った。
「小遣いなんてなくたって手伝いくらいするよ。いつも世話になってるんだから」
「あらそう? 助かるよ。お礼に、後で大盛りのまかないを出してあげる」
「ありがとう、マリーさん。愛してる」
「馬鹿言ってんじゃないよ。調子のいいこと」
腕まくりをしたアシエルは、いそいそと店員用のエプロンを身に着けると、即席の給仕姿を整えた。
昼の食堂は戦場だ。賑やかに笑う少女たちに本日のおすすめをいくつか告げて、笑顔で注文を取った後は、強面の男たちへと大盛りの昼食を運んで渡す。次から次へと入る客の相手で、足を止めている暇もない。
客足の波を乗り越え、ようやく一息ついたその時、ふとアシエルは首を傾げた。
――センチネルの気配がする。
それも、つい最近感じた覚えのある、首の後ろの毛が逆立つような気配。まさかな、とは思いつつ、扉に視線を向けると、見覚えのある黒い外套を纏った男が、ちょうど扉をくぐってくるところだった。深く被られたフードのせいで顔は見えないが、外套の下には、一度見たら忘れられない強烈な美貌が隠されていることを、悲しいかな、もうアシエルは知っている。
「なんで来るんだよ」
他国の軍人がなぜ堂々と下町に出入りしているのか。仕事中はまともな格好をしていたくせに、仕事が終わった途端に、なぜそうも怪しい装いになるのか。そもそも剣を交わした相手がいる店に来るんじゃない。
言いたいことが多すぎて言葉にならない。顔を引きつらせるアシエルをよそに、背後からはマリーの明るい声が聞こえてくる。
「いらっしゃい。お客さま、おひとり? 案内してちょうだいな、アシエル」
「……お席までどうぞ。お客さん」
本音としては今すぐ叩き出してやりたかったが、まさか一般人の前で暴力を行使するわけにもいかない。葛藤の末、アシエルは愛想笑いを顔面に張り付け、カウンターの隅の席にベイグラント准将を案内することにした。
「品書きはそっちな。食事が済んだら、お代は机に置いて行ってくれ」
ぶっきらぼうに言い捨てるアシエルの顔を、ベイグラント准将はまじまじと見つめた。
「この店で働くことにしたのか」
「まさか。転職が早すぎだろ……」
本気か冗談か分からない。頬を引きつらせて答えれば、カウンターの内側から聞いていたらしいマリーが茶化すように口を挟んでくる。
「あんたがクビになったってんなら、うちで雇ってやってもいいよ、アシエル」
「まだ出て行けとは言われてねえなあ」
「それは何より。……ごめんなさいね、お客さま。従業員じゃなくて、臨時のお手伝い。忙しい時間だけこの子に手伝ってもらってるのよ」
マリーがそう言うと、ベイグラント准将はアシエルとマリーを交互に見て、ごくごく真面目に問いかけた。
「親子なのか」
生真面目に的外れなことを言う男にツボをつかれたのか、マリーはけらけらと笑い出す。
「違う違う! アシエルは、長いこと宿に泊まってくれてるお得意さんなの。昔っから見てるから、あたしにとってはもう、甥っ子みたいなものですけどね」
「マ、マリーさん。後は俺がやっておくからさ」
親しみを隠さないマリーの言葉に嬉しさを感じると同時に、いつまでも抜けない子ども扱いが気恥ずかしくて、アシエルは目を泳がせた。ひとしきり笑ったマリーは、たくさん食べていってね、とベイグラント准将へ声をかけて、奥へと引っ込んでいく。
なんとも言えない気まずさをごまかすように、アシエルは乱れてもいない前掛けを直すふりをした。
「ご注文は?」
「お前の時間を」
「は?」
さらりと発せられたわけの分からない言葉に、アシエルはぽかんと口を開けた。何言ってんだこいつ、と思いつつも、アシエルの優秀な口は「おすすめランチでいいよな? 今日の飯はボリュームがあるから、腹も膨れると思うぜ」と流れるように言葉を紡ぐ。
――これ以上付き合っていられるか。
背に視線を感じつつ、逃げるようにアシエルは厨房に足を向けた。けれども間の悪いことに、客足のピークを越えた今、給仕するべき料理は残っていない。せいぜいが食後の飲み物程度で、それも後ろから来た別の給仕がひょいと取り上げていってしまう。
せめてあの男が帰るまで内仕事をしようと洗い物に手をつけるも、ちょうど誰かが片付けた後だったのか、十分と経たずに終わってしまった。さてどうしたものかと厨房をうろうろ歩いていると、すれ違ったマリーが怪訝そうに声を掛けてくる。
「何やってるんだい、アシエル。あのお客さん、あんたの知り合いなんじゃないの」
「あー……知り合いといえば知り合いのような、そうでもないような……」
「一緒に食べてきたらどう? そろそろ客も減ってきたし、手伝いはもう十分だよ。あんたのお昼と、あのお客さんの追加の分、まとめて作るからさ」
「いや、メシを一緒に食うほどの仲ではないというか」
何のつもりだと店から追い出したい気持ちはあれど、仲良く談笑するような仲では決してない。けれど、アシエルが口ごもっている間に、手早く皿を片付けてしまったマリーは、アシエルを厨房から追い出しにかかった。
「ほら、すぐに用意するから、席で待ってな」
「へぇい……」
てきぱきと調理を始められてしまえば、アシエルに選択肢はないようなものだった。しぶしぶと厨房を出て、重い足取りで席へと向かう。客足がはけてきたというマリーの言葉どおり、カウンターを使っているひとり客は、ベイグラント准将ひとりだけになっていた。
ひとつ席を挟んで隣に腰を下ろすと、ベイグラント准将はじっとフードの奥からアシエルに視線を送ってきた。もの言いたげな視線に耐えかねて、仕方なしにアシエルは口を開く。
「あんた、仕事は?」
「休みだ」
嘘にしたって下手すぎる。アシエルはひくりと口元を引きつらせた。
「イーリスにいる時点で仕事じゃねえの。あんたの場合」
「さあ」
沈黙が落ちる。あれだけうるさい視線を送ってきていたというのに、ベイグラント准将はそれ以上の言葉を発しようとはしなかった。目的が理解できない苛立ちと、大して知りもしなければ友好的でもない相手と隣合って座る居心地の悪さに、アシエルは目を伏せる。
実際には数分だとしても、気まずい時間ほど長く感じられるものだ。マリーが料理を持って厨房から出てきたときには、感謝の祈りを捧げたくなった。
普段よりも多く盛られた賄いを口に運びつつ、アシエルはちらりとベイグラント准将の様子を伺った。優雅に食事を進める手つきには、下町の食堂には似つかわしくない品の良さがにじみ出ている。
見かけによらず健啖家らしく、机の上には、空いた皿が何枚も置かれていた。熱心に何を食べているのかと思えば、芋のシチューを味わっているらしい。体が温まる素朴なシチューは、アシエルも好んでよく食べる。肌寒いこの季節には特に、外せないメニューだ。
「それ、うまいよな」
言ってから、何を無防備に話しかけているのかとアシエルは自分自身に毒づいた。きっちりと咀嚼を終えた後で、ベイグラント准将は淡々と返答する。
「素朴な味だが、悪くはない」
「だろ? マリーさん……ここの女将は料理上手なんだ」
とろみのあるミルクシチューを一定の速度ですくっては、スプーンをゆっくりと口に運ぶ。ベイグラント准将の動作は機械的で、実際のところどう思っているのかは知れなかったが、みるみるうちに減っていく馴染みの料理を見れば、悪い気はしない。
食事を終えたくせに、ベイグラント准将は立ち去ろうとはせず、ひたすらにアシエルが食事を終えるのをじっと待っていた。お前の時間をくれという突飛な言葉は、どうやら本気だったらしい。
気づかぬふりを決め込んでも仕方がないなら、面倒事はさっさと済ませるに限る。手早く昼食を済ませたアシエルは、静かに食器を脇によけて、ベイグラント准将に向き直った。
「用件はなんだ、テンペスタの兄さん」
「用というほどの用ではない。ただ、話を――」
口を開きかけたベイグラント准将は、唐突に黙り込んだかと思えば、脈絡なく食堂の入り口を振り向いた。
「無法者」
「え?」
ベイグラント准将の言葉の意味を問いかける前に、入り口の外がにわかに騒がしくなる。何かがおかしいと気付いた時には、食堂の扉がけたたましい音を立てて蹴破られていた。
「全員動くな! 動けば殺すぞ!」
覆面を被った人間が五人。凶器の存在を誇示するかのように、天井に向けて魔力の銃弾が放たれた。
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