2-5

 何が起きたかも分からぬうちに、背に強い衝撃を感じる。

 

「が……っ!」

 

 息が止まり、アシエルの意思とは無関係に苦悶の声が漏れた。

 空が見える。結界の揺らめく光が、夜空を美しく彩っている。地面に引き倒されたのだと理解したときには、相手はアシエルに跨り、全身の動きを封じていた。

 体重をかけられている足は動かせず、そのままねじ切られるのではないかと錯覚するほどの力で、肩を地面に押さえつけられる。極めつけに喉元に短剣を突きつけられているとなれば、もはや相手の手際の良さに舌を巻くことしかできない。

 けれど、不思議と恐怖は感じなかった。

 ぽたり、とぬるい液体が頬に落ちてくる。汗を幾筋も伝わせ、苦しげに肩で息をしているベイグラント准将を、アシエルは静かに見上げた。近づいたことで、乱れた気配を余計に強く、はっきりと感じる。アシエルには、己にのしかかっている男が上げる、声なき悲鳴が聞こえていた。

 そろりと手を持ち上げる。突きつけられた剣先が、喉に食い込み痛んだけれど、アシエルは手を止めなかった。

 追い詰められた動物は、得てして攻撃的になるものだ。目の焦点も合っていない体調不良の人間ひとり、その気になればどうとでもできる。短剣を握る男の手に、アシエルはそっと自分の手を重ねた。視線を合わせ、ゆっくりと語り掛ける。

 

「大丈夫」

 

 声を掛けながら、アシエルは静かに精神を集中させた。グローブ越しに触れ合った肌から、男の乱れた気をほんのわずかに受け入れて、自身の体に巡らせる。

 応急処置程度のつもりだった。ところが、互いの精神を軽く繋いだ途端に、濁流のような力がアシエルの中へと流れ込んでくる。

 

「ぐ……っ!」

 

 頭を殴られるような衝撃に、慌ててアシエルは息を詰め、男と自身の繋がりを浅く調整した。重苦しく乱れた気は、ほんのわずか表面に触れただけで、アシエルの全身を重くした。まだガイドとしての力も未熟だったころならいざ知らず、自分の力をある程度制御できるようになって以来、調律でこれほどの負担を感じたことはない。

 ベイグラント准将の精神は、例えるならば夜の海だ。覗き込んだ途端に、底も見えない真っ黒な濁流に飲み込まれてしまいそうになる。それくらい不安定で、強大で、不気味な海だった。とても生きている人間の精神状態だとは思えない。なぜこの状態で今まで動けていたのか、アシエルにはとても理解できなかった。

 目も耳も肌も、すべての感覚が邪魔だった。全身全霊を内に向けなければ、荒れ狂った力に道連れにされる。表面的な調律だけを施すつもりが、なんということをしてくれるのだ。勝手に調律を始めたのは自分だということは棚に上げて、アシエルはひとり毒づく。

 

「っ、の……信じらんね……」

 

 目を閉じ、骨がきしむほどの力を込めて手を握る。ぐるぐると渦巻く力に、体の内側を針で刺されているような気分だった。吹き出る汗がアシエルの額を濡らし、息が自然と上がっていく。

 自身の心身すべてが、ろ過のためのシステムにでもなった気分だった。ゆっくりと時間をかけて、どす黒く荒ぶった流れを、アシエルの中に巡らせながら、透明な流れへと変えていく。そうして無害に変わった流れがアシエル自身の器を破る前に、ベイグラント准将の中へと返してやる。これまで何度も繰り返してきたはずの作業なのに、相手があまりに特殊すぎるからなのか、こちらにかかる負担が桁違いに大きかった。

 

「……っ? 何、を」

「黙ってろ」

 

 正気が戻ってきたのか、ベイグラント准将は体を引こうとした。しかし、握りこんだ手を引き寄せて、アシエルはそれを妨げる。

 どうせ一度手を出してしまったのだ。ならばせめて、できるところまでは整えてしまいたい。

 取り込んでしまったベイグラント准将の力を調律し、無理やり相手の中へと押し返す。けれど、整えて返してやった端から、暗く黒い海に沈んでしまうのだから、とてつもない徒労感だけがアシエルの中に降り積もっていった。

 こんな化け物じみた力を、よくもここまで放っておいたものだ。自殺願望があるのか、それとも国に帰れば、よほど相性のいいガイドでもいるのか。それにしたって受け入れるガイドの負担をなんだと思っているのか。

 必死で調律を終えたアシエルは、ベイグラント准将の手を握っていた手を下ろすと、荒い息をつきながら、赤い瞳をじとりと睨み上げた。

 

「少しは、マシに……なったかよ」

 

 状況が分かっていないのだろう。ベイグラント准将は硬直して目を見開いていた。あれだけ精神が乱れていれば、意識が混濁していてもおかしくはない。

 ややあって、ようやく現状を把握したのか、動揺を瞳に浮かべながらも、ベイグラント准将は掠れた声で言葉を紡いだ。

 

「お前……、なぜお前が、

「お喋りしたけりゃ、どいてくれるか? そろそろ痛ぇんだよ、背中がよ」

 

 呻きながら訴えれば、今気づいたとばかりに、ベイグラント准将はぎこちない動きでアシエルの上から立ち退いた。

 痛む肩を押さえて身を起こす。ベイグラント准将はじっとアシエルを見つめたまま、固まっていた。

 息が整うまで待って、アシエルはのろのろと立ち上がる。言葉に迷った末に口から出たのは、嫌味にも似た言葉だけだった。

 

「お偉いさんのくせして、専属ガイドのひとりもいないのか。死ぬぞ、それ」

「……合う者がいない。精神に触れられた途端、切り殺したくなる」

「へえ。ガイドの助けなしに、よくその年まで生きてこられたもんだ」

「助けがなかったわけではない」

「なら今、なんでガイドが近くにいない?」

「必要ない」

 

 ベイグラント准将は目を伏せながら、淡々と呟いた。ぴくりとアシエルは眉を顰める。

 センチネルである以上、ガイドの調律が必要ないはずがない。けれど、ガイドなど必要ないのだと、彼と同じように語った貴族を、アシエルは何度も見たことがある。


「ああ、そういうことか」

 

 じわりと湧き上がる怒りを感じながら、アシエルは皮肉げに唇の端をつり上げる。

 

「ガイドを雇う必要なんてない。必要になったら必要なときだけ使えばいいってか?」

「何を……言っている?」

 

 ベイグラント准将の顔には困惑が浮かんでいた。けれど、その時のアシエルは、疲労と怒りで目が眩んでいた。親しくもない相手の表情に気を配るほどの余裕を、持ち合わせてはいなかった。


「何って、ガイドの使い捨てだろうが。地位の高いセンチネルはよくやる手だよな」

 

 ガイドの行う調律は、センチネルと心を繋ぐことが必要不可欠だ。そこに合意があれば調律の効率が上がるが、必ずしも互いに合意する必要はない。たった今アシエルがしたように、ガイド側からセンチネルの精神に触れることもできるし、逆にセンチネル側から強引にガイドの力を使わせることだってできる。ガイドの安全を度外視すれば、センチネルはどんなガイド相手にでも無理やり調律させることができる。道具として、使い捨てることができるのだ。

 

「お貴族様とは分かり合えねえな」

 

 ぼそりと呟き、アシエルはベイグラント准将に背を向けた。調律というほどしっかりと整えたわけではないけれど、立って話せるならば、十分だろう。死にかけのひどい状態からは脱したはずだ。

 しかし、崖の上へと登ろうとしたアシエルは、しかし追いすがるように背の布を引っ張られ、たたらを踏んだ。

 

「……おい」

 

 転びかけたところで、背に他人の体温を感じた。何が悲しくて縁もゆかりもない人間の胸に抱き止められなければならないのかと、アシエルはうんざりと顔を歪める。

 

「離してくれねえかな。動けねえんだけど」

 

 脅しつけるアシエルの声に、背後の男は答えない。無理やり引き剥がそうとしたところで、アシエルは違和感に気がついた。

 重い。抱き留められているのではなく、こちらに体重がかかっているのだ。足元が危ういベイグラント准将の様子に気がついたアシエルは、慌てて両腕で彼の体を支えると、岩にもたれかからせるようにして座らせた。

 

「おい、大丈夫か? 意識はあるか。俺の声、聞こえてるか?」

「……いい。行け」

 

 いまだ汗が引かないらしいベイグラント准将は、力なく項垂れたまま、浅い息の合間に一言告げた。

 

「行けって、あんたが引き留めたんだろうが」


 テンペスタの連中も部隊で行動していたはずなのに、仲間は誰もいないのか。しかし見渡しても、アシエルたち以外の人影は見当たらなかった。困り果てたアシエルは、座り込んだベイグラント准将を前に、ぐっと眉を寄せる。

 相手は仲の悪い隣国の、縁もゆかりもない軍人だ。しかもおそらくは、ガイドを使い捨てにするタイプの傲慢な貴族のセンチネル。休めば動ける程度には回復するはずだし、これ以上世話をしてやる義理もない。

 分かっているのに、アシエルの足は動かなかった。

 ぐしゃぐしゃと己の髪をかき乱す。わざと相手に聞かせるように派手に舌打ちしたアシエルは、勢いよくその場に座り込むと、乱暴な仕草で軍用グローブを抜き取った。むき出しの両手を、ベイグラント准将に向けて無造作に差し出す。

 

「グローブ外してとっとと握れ」

「……なぜ」

「目の前で死なれたら寝覚めが悪いんだよ。いいから早くしろ」

 

 聞いているのかいないのか、ベイグラント准将はついには目を閉じ、ぐったりと岩にもたれかかってしまった。顔を歪めたアシエルは、力の抜けた男の手から適当にグローブを抜き取ると、見もせずに後ろに投げ捨てる。もはや待つ方が面倒だった。

 

「聞こえてるな? さっきより深めに繋ぐぞ。面倒だから抵抗するなよ」

 

 冷え切った両手を乱暴に握ると、ベイグラント准将はびくりと手を強張らせる。

 

「大丈夫だから。あんたの害になることは何もしない。すぐに終わるから、力抜いてろ」

 

 あぐらをかいて座り込み、繋いだ両手を強く握る。目を閉じれば、一瞬で先ほどと同じ重々しい力が流れこんできた。反射的に逃げ出したくなる気持ちを抑え込み、濁流のような力に耐えながら、アシエルは深く精神を集中させる。

 ベイグラント准将の精神を象徴する海は、冷たく、暗く、荒れ狂っていて恐ろしい。乱れを少しでも宥めなければ、海の底どころか、本来の海の色さえ見えそうになかった。底の見えない暗い海の奥に潜り込み、全身で波を受け入れる。相手の苦痛に同調し、ゆっくりと時間をかけて宥めていく。

 どれほどの時間、集中していたのかは分からない。受け入れ、宥め、流れを返す。延々と続く作業の中で、ふとアシエルは美しい水色を目にした気がした。現実の目ではなく、同調した精神の中で、暗い海の中にきらめく儚い水色を見た。

 寂しい色だ。

 わけもなくそう感じて、アシエルは手を伸ばし、儚い色の塊に触れようとした。冷えて凍えたそれに体温をうつそうとしたけれど、アシエルが手に取る前に、それは暗い海に沈んで、また見えなくなってしまった。

 細く息を吐きながら、ゆっくりとアシエルは目を開ける。向かいに座っているベイグラント准将は、ぼんやりと手を見つめているようだった。暗い中なので定かではないが、少なくとも脂汗は引いている。ほっと息をついたところで、アシエルはベイグラント准将との同調を解いた。相手の力があまりに大きすぎて、これ以上はアシエルの身が持たない。

 

「終わり」

 

 手をほどき、ぼんやりとしている男に声をかける。ようやく顔を上げたベイグラント准将は、信じられないものでも見るような目で、アシエルを見つめていた。

 

「アシエル」

「……名乗ったか?」

 

 首を傾げつつ、グローブを付けなおしたアシエルは、すくりと立ち上がる。分不相応な二つ名を預かっているせいで、他人から一方的に名を知られていること自体は別に珍しくもない。首を振って気分を切り替えたアシエルは、今度こそベイグラント准将に背を向けた。

 

「じゃあな。動けるならあんたも帰れよ。儀式は終わったけど、見回りまで終わったわけじゃない。これ以上、俺たちの仕事を増やさないでくれ」

 

 ひらりと適当に手を振って、アシエルはきびすを返して歩き出す。

 疲れ切っていたアシエルは、気づかなかった。暗がりを進む背中を瞬きひとつせずに見つめていた視線も、ぼそりと呟かれた言葉の意味も。


「……また、お前に救われた。アシエル」

 

 知っているのは、崖下にうずくまる男ひとりだけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る