2-5
ひしめく影と、勢いを増した雨のせいで、ひどく視界が悪かった。魔獣か、人か、あるいは兵士か。たった今目の前を通り過ぎていったものが何なのかすら、アヤには判別がつかない。早く逃げなければ魔獣に殺される。分かっているのに、足が恐怖で動かない。
栄誉ある神事の祈り手に選ばれて以来、アヤは何か月も儀式の練習を重ねてきた。冬の神事には、高位の貴族や他国の王族も参列する。住人が総出で取り行う町の一大行事は、アヤたち町の子供にとっては憧れの儀式だ。
それがどうだろう。恐ろしい魔獣が儀式に乱入してきたかと思えば、数分としない間に広間を滅茶苦茶に荒らしてしまった。神事のためにとアヤに渡された白い儀式服も、今や血と泥でぐちゃぐちゃだ。上質な仕立ての特別な服を、両親の前で誇らしげに着て見せたことが、遠い昔のことのように思えた。
「ひっ! 嫌!」
鳥の魔物につつかれて、弾かれたようにアヤは走り出す。辺りに溢れる魔獣たちから無我夢中で逃げ回ってみたけれど、全力疾走は長くは続かない。ぬかるみに足を取られて、アヤは頬から地面に倒れ込む。
立とうと無様にもがいている間にも、猪型の魔獣が、恐ろしい速さでこちらに向かってきていた。
「やだよ、死にたくないよ……!」
助けを求めようにも、喉が引きつって声が出ない。呆然と魔獣を見つめながら、アヤは縋るように神に祈りを捧げた。
「お母さん、お父さん……! 神さま……!」
その時、眩い光の矢が、流れ星のようにアヤの目の前を駆け抜けた。
今にもアヤにぶつからんとしていた魔獣を射抜いた矢は、背後にいた魔獣たちまでをもまとめて貫き、静かに空気に溶けていく。矢が消えると同時に、誰かがアヤを庇うように、魔獣の前へと滑り込んできた。
剣線が煌めく。
あっという間に魔獣を屠ったその人は、アヤの前に膝をつくと、にかりと人好きする笑顔を浮かべた。
「怖かったな。もう大丈夫だ」
秋に実る小麦のような、金色の髪を持つ人だった。ロッシ司祭の元へ挨拶に来ていた、勇者と呼ばれていた青年だ。騎士がそうするようにアヤに手を差し伸べた勇者は、優しくアヤを立たせてくれた。
「あ……、ありがとう」
「どういたしまして。神殿まで走れそうか?」
「うん」
「偉いぞ。災難だったな、お嬢さん。神殿まで逃げたら、中で怪我の手当てをしてもらいな」
アヤの肩を励ますように叩いて、青年は颯爽と次の魔物に向かっていった。
きらめく魔法陣と、光の矢。祈るように剣を掲げた勇者の前で、何十もの魔物の群れが光の矢に貫かれては、次々と地に落ちていく。恐ろしい光景のはずなのに、まるで物語の中の一幕のように美しかった。ほうとアヤは息を吐く。
「本当に、勇者様だ」
神が結界を与える前、世界には、恐ろしい魔物たちと、それを操る魔王がいたという。魔物の侵攻に立ち向かった勇気ある戦士は、聖書では勇者と書かれていた。
この世に勇者がいるなら、きっとああいう人なのだろう。
臆する様子もなく魔物と戦う青年の姿を瞼の裏に焼き付けて、アヤは神殿へと真っすぐに走り出した。
* * *
怒声と戦闘音に混じり合い、指示と掛け声が辺りを飛び交う。混乱状態に陥った神殿前の広場で、アシエルたち特殊部隊は、正規軍の面々と協力しながら魔獣を駆除していた。
「魔物はだいぶ片付きましたけど、いいんですか、ゲオール大佐」
鳥型の魔物を斬りながら、アシエルは隣の上司に問いかける。ちらりとアシエルに視線を向けて、ゲオール大佐は眉根を寄せた。
「質問は具体的にしろ、アシエル少尉」
「さっきのセンチネルたちが見当たりません。いくら敵が同じと言ったって、テンペスタの奴らを野放しにしておいて良いんですか」
「分かっている。こちらも不自然な動きをしている者を探しているところだ。今は目の前のことに集中しろ、少尉」
ゲオール大佐に
――いっそ広域魔術で一気に駆除してしまおうか。
脳裏をよぎる誘惑を跳ね除けるように、アシエルは剣を振る。
それができるなら苦労はない。広間全域を攻撃範囲に含めていいならともかく、敵だけを選別して攻撃する繊細な制御など、アシエルの技術では不可能だ。
一通り鳥型の魔獣の群れを斬り終えたところで、アシエルはふと違和感を覚えて、辺りを見渡した。
逃げ惑う魔物たちの動きが変わっている。混乱と興奮で動いていただけに見えた魔獣たちの顔に、恐怖が色濃く浮かんでいるように思える。
「ゲオール大佐。何かおかしいです」
「ああ。前方から大型の魔物が近づいてきている。動きは遅いが、かなりの巨体だ。あれがスタンピードの原因だろうな」
アシエルが尋ねるより前に、魔物の足音を聞き取ったらしいゲオール大佐が、苦々しい声音で告げた。
そもそもスタンピードとは、何らかの原因で起こる魔獣たちの突発的な大移動だ。魔獣たちに恐怖を与えた原因がいるのは、当然といえば当然のことだった。
「なんだ、あれ」
遠く見え始めた敵の姿を前に、アシエルは困惑の声を漏らす。
雨の膜の向こう側に、ずんぐりと伸びる大きな影が見えた。雨音さえかき消す重々しい足音が、ゆっくりと近づいてくる。
大抵の魔物は、何かしらの動物に近い姿をしているものだが、重量ある足音を立てている魔物は、もはや何の生物であるのかすら分からなかった。辛うじて原型は狼型であろうことは推測できるが、狼と呼ぶにはあまりに巨大で、形が崩れている。
その魔物に毛皮はなく、むき出しの皮膚は肉が腐ったかのような黒緑色をしていた。雨に打たれて皮膚らしき液体が流れ落ちるたび、大地が煙をあげて溶けていく。
「あれが、目撃された異常個体ってやつですか?」
「おそらく」
「異常っていうか、あれ本当に生きてます?」
「心臓の音は聞こえない」
「じゃあ、死んでるじゃないですか」
「動いているだろうが」
たしかに動いてはいるが、前方の魔物の眼窩はくぼんでいるし、舌は口から零れ落ちている。死体よりも無惨な、おぞましいとしか形容しようのない見た目だ。
「あれを俺に止めろって言うんですか? 大佐」
「そうなるな。少尉」
淡々と答えるゲオール大佐の声に、冗談の色はない。
神殿に向かって進む巨大な魔物には、もはや意思があるのかどうかも疑わしい。雨に打たれるたびにぼとぼとと粘液を落としながら、まっすぐに神殿に向かう様は、まるで光に惹かれる虫のようだ。
正直なところ近づきたくもないけれど、そうは言っていられない。顔を顰めたアシエルは、周りを囲む煩わしい魔獣たちを睥睨した。
「止めろというなら止めますけど、せめてもう少し魔獣の数が減らないことには、近づけませ――は?」
言っている途中で、目の前に広がる異様な光景に気付いたアシエルは、ぽかんと口を開けた。
地面を炎が這っていた。雨の中にあってさえ消えぬ炎は、蛇のように地面を這っては、次々と魔獣を飲み込んでいく。悲鳴を上げることさえ許さぬ業火は、戦場に立つ兵士を器用に避けて、魔物だけを器用に屠っていった。
範囲も威力もすべてがおかしい、驚異的な技量で構成された広域魔術だ。みるみる間に、アシエルの前に異常個体へと続く道が空いていく。
「……行けるようになったみたいなんで、行ってきます」
「武運を祈る」
何が何やら分からないが、ひとまず好機なのは間違いない。ゲオール大佐の声を背に受けながら、アシエルは剣を構えて駆け出した。
最前線に飛び出たアシエルは、こちらを認識しているかも怪しい愚鈍な魔物の足を、とりあえず横薙ぎに切りつける。
「うえぇ……」
剣にぶよぶよとした柔らかさが伝わってくる。油の塊でも切っているかのような感触だ。あまりの気色の悪さに、アシエルは萎れた声を漏らした。
呆気なく片足を失った魔物は、そのまま数歩進んで、ぐらりと倒れた。たったの一閃で抵抗もせず倒れるなど、死にかけどころかまるで死体だ。
傷口から黒い煙を漂わせた魔物は、そのまま溶けるように赤黒い液体へと変わっていく。最後まで残った頭部の中心で、裸の眼球だけが、ぎょろぎょろと忙しなく動いていた。
魔物の虚ろな瞳が、アシエルを捉えてぴたりと止まる。
「……っ、気色悪ぃな」
嫌悪感に耐えかねて、アシエルは光の魔術で生み出した矢を投げつけた。光で射られた途端に、魔物の溶解が加速する。ごぽりと不気味な音を立てて、とうとう魔物は、地面をぷすぷすと焦がすだけの黒い液体と化した。
「なんだったんだ、こいつ……」
手応えもなければ、達成感もない。元々死にかけてはいたのだろうが、こんな不気味なものが、生き物だったとは信じたくなかった。
鳥肌を撫でさすっていたその時、背後からゲオール大佐の声が聞こえてきた。
「もう討伐したのか、アシエル少尉。早いな」
「討伐……したんですかね。切った感触もなければ、抵抗らしい抵抗もしないし、挙句の果てには溶けて消えるし……。俺は一体、何を切ったんですかね」
魔物であったはずの液体が、雨で流され消えていく。地面に膝をついたゲオール大佐は、眉間に皺を寄せながら黒い液体を指に取り、まじまじと検分した。
「腐臭がする。あとは……酸か?」
「腐臭? やっぱりあいつ、死んでたんじゃないっすか?」
「死体が動いてたまるか」
「分かりませんよ。死体を動かす方法だって、あるかもしれないじゃないっすか」
得体の知れない魔物の残した液体を前に、アシエルとゲオール大佐は顔を見合わせる。
いつしか、周囲から雨音以外の音が聞えていた。見渡せば、焼け焦げた魔獣の死骸と、立ち尽くす兵士だけが目に映る。広間を覆う炎は、橙から青に色を変えると、その熱量で一気に魔物の死骸を灰へと変えていった。
「……すげえな。規格外。こんな魔術、よくも組めるもんだ」
呆然とアシエルが呟くと、「アシエル少尉がやったのではないのか?」と訝しげにゲオール大佐が眉を顰めた。
「まさか。この場の全員巻き添えにしていいなら俺でも出来るかもしれませんけど、魔物だけ焼けって言われても、そんなん無理ですよ」
「……とすると、テンペスタの准将殿か」
「多分。結局最後まで見かけませんでしたけど、あいつら、何してたんですかね」
「さあな。他国の者の考えることは分からん」
苛立った様子で呟いた後、ゲオール大佐は部隊員を振り返り、声を張り上げた。
「全員、森の見回りへ向かえ! 狩り残しがないことを確認しろ! 終わり次第、後始末に取り掛かるぞ」
魔獣のスタンピードに、歩く死体のような狼もどき。暗殺自体は防げたけれど、不審者たちは姿を消した。
敵が来るならとっとと来てほしいとはたしかに言ったが、ここまでのことは求めていない。きびきびと動き出す隊の仲間に合流しながら、アシエルは深々とため息を吐いた。
初日以降の儀式は、肩透かしと言っていいほど何事もなく過ぎていった。
三日目の儀式を終えた夜、肌寒さをものともせず、町人たちは吹きさらしの広間に集まっていた。賑やかな音楽と香ばしい料理の匂いが辺りを満たし、歓談の声が夜を彩る。祈り手を務めた子供たちと、警備兵たちを労わるための、ささやかな後夜祭なのだという。
ロッシ司祭手ずから勧められた茶を喉に流し込みつつ、アシエルは陰鬱な気分で、隅から賑わいを眺めていた。
危惧されていた賓客の暗殺騒ぎは、二日目以降は起こる気配すらなかった。テンペスタの派閥事情は、テンペスタ側の人員で処理したということだろう。
しかし、めでたしめでたしとは行かない。
死体と見紛う異常個体には、明らかに人の手が加えられていた上、町人曰く、今回起きた魔獣騒動では、周辺で見たことのない魔獣までもが紛れ込んでいたという。テンペスタの企みによるものか、はたまた空を覆う結界に何かが起きているのか知らないが、いずれにしても、これで終わりではないだろう。
――テンペスタといえば。
茶を飲みほしたアシエルは、賑わいに背を向け、森の暗がりに足を踏み入れる。初日に見かけた不審者たちを、その後見かけることはなかったが――。
(いるんだよなあ……)
町から離れた峡谷の方角から、乱れたセンチネルの気配がする。強力なセンチネルの気配だけれど、放置すれば死んでしまうのではないかと思うほど、荒れた気配だ。
まず間違いなく、ベイグラント准将のものだろう。ほんの数日の間に何をしたのか、ただでさえひどかった気配が、まったく関わりのないアシエルの不安を掻き立てるほどに乱れを増していた。
無視しようにも無視できない。意識の端に引っかかる感覚は、先ほどからアシエルの気分を降下させている要因のひとつだ。
相手は他国の軍人で、剣を交わした敵である。アシエルにとって避ける理由はあっても、気に掛けてやる理由はない。向こうの部隊にだってひとりくらいはガイドがいるだろうし、仮に倒れているとしたって、誰かがきっと助けるはずだ。
そうは思っても、祭りが始まってからの数時間、奇妙な位置から一切動きを見せない気配が、気になって仕方がなかった。
ざくざくと落ち葉を踏みながら、アシエルは森の奥へと進んでいく。祭りの熱気で火照った体に、冷たい夜風が心地よい。
単独行動は推奨されていないが、休憩の最中に散歩に出ただけのアシエルを、いちいち気にする者もいないだろう。あの
わざわざ音を立てて歩いているのだから、センチネルなら気づくはずだ。身を隠したければ隠せばいい。
ベイグラント准将の気配を辿り、奥へ奥へと進むうち、辺りからは人気どころか、木々の姿さえも消えていった。寒々しい岩場の、ともすれば崖と呼ばれそうな斜面を、アシエルは慎重に下っていく。
(……見つからねえな)
かなり奥まで来たものの、肌をざわつかせる気配は感じられても、当の本人が見当たらない。もしかすると、足でも滑らせて崖下に落ちているのではなかろうか。考えれば考えるほど落ち着かない気分になって、アシエルは堪らず舌打ちをした。
「おい。誰かいるのか、――っ!」
声を掛けながら崖下をのぞき込んだ瞬間、ぐるりとアシエルの視界が反転した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます