2-2

 日が落ちた後の森は暗く、視界が悪い。音を立てないように細心の注意を払いつつ、アシエルは慎重に獣道を進んでいく。

 先ほど感じた奇妙な感覚は、森の奥に進めば進むほどに強さを増していった。フィラー伍長のような目覚めたてのセンチネルの気配とも違うけれど、ゼークラフト中尉やゲオール大佐のように熟練したセンチネルの気配とも何かが違う。感じたこともないほど強く、乱れた気配のはずなのに、不思議と既視感を覚える気配だった。

 敵がセンチネルだとは分かっても、何のセンチネルなのか分からないのが問題だ。ゲオール大佐と同じく聴力に優れたセンチネルだとしたら、すでにこちらの接近がバレている可能性が高い。


(せめて敵の顔と人数だけでも確認できれば――)


 姿を隠していた木の幹から出ようとしたところで、アシエルはぎくりと身を強張らせる。

 センチネルの気配が近づいてきていた。どうやら相手は、索敵能力に優れたセンチネルだったらしい。ゲオール大佐も気付いたらしく、「撤退だ!」と鋭く告げる。

 しかし、相手の接近速度は思いのほか早かった。障害物も視界の悪さもお構いなしに、猛烈な速さで距離を詰めてくる。

 葉が揺れる音が、とうとうアシエルの耳にまで聞こえてきた。

 手を出すなとは言われているが、相手が魔術師ならば、すでにアシエルたちは相手の射程内だ。舌打ちしたアシエルは、走りながら口を開いた。


「逃げきれません。接敵します」

「よせ、少尉――!」


 ゲオール大佐の制止を振り切って、アシエルは全身を魔術で強化した。前方の木を蹴るようにして方向を急転換したアシエルは、振り向きざまに剣を抜くと、木々の隙間に見えた黒い影を狙って、跳躍した勢いのままに剣を振り下ろす。

 甲高い金属音とともに、腕に痺れるような衝撃を感じた。


「――行儀が悪いな」


 打ち合わせられた剣越しに、血の色の瞳が鋭くこちらを睨みつけていた。

 一応は不意をついたはずの攻撃を、やすやすといなされ、弾かれる。


誰何すいかもなしに斬りかかるのがイーリスの流儀か」


 男は冷たく言い放つ。暗がりにいる上、深く外套を着こんでいるため、顔立ちは伺えない。軽やかに着地しながら、アシエルは「悪いね」と肩をすくめた。


「見覚えのない他国の軍人に、あんな風に追いかけられると怖くなっちまうんだ」

「こそこそと近づいてきたのはそちらだと記憶している」

「警備の一環だ。こっちも仕事なんでね」


 受け答えしつつ、アシエルはゲオール大佐の気配を探る。今の一瞬で引き離されたのか、上司の姿は近くにない。どうやら向こうも、ひとりで来たわけではないらしい。

 警戒を解かぬまま、アシエルは声を低めて問い詰める。


「所属は? 何の目的でここにいる?」

「答える必要を感じない」

「あんたがテンペスタからのお客なら、話を聞かせてもらう必要があるんだよ」


 アシエルが睨みつけると、男は何を思ったか手を持ち上げ、誘うように人差し指をひらめかせた。


「聞きたいのなら、吐かせてみたらどうだ」

「……そうだな。あんたがどこの国の誰で、何をしに来たのか興味がある。その物騒なものを置いてもらって、ゆっくり話を聞かせてもらおうか」


 剣を両手で握り、腰を落とす。構える様子もない男を訝しみつつ、アシエルは一息に切りかかった。

 初めは緩やかに、徐々に激しく、緩急をつけて切り結ぶ。静かな暗い森の中で、時折月光を映してきらめく刃の光だけが鮮明に見えた。

 アシエルが押せば引き、引けば押してくる男は、数合切り合っただけでも分かる、相当な手練れだ。おまけに、細身に見える体格の割には、洒落にならない剛力だった。魔術による強化がなければ、まともに剣を受けることも難しいだろう。殺気を感じないことが、かえって不気味でならない。

 別段闘争心が強い方ではないけれど、こうも余裕の態度であしらわれるのは面白くない。強く奥歯を噛んだアシエルは、腕に力を込めて切りかかる。

 本気で振るったアシエルの剣が男の髪を数本捉えると、やり返すように、男の剣がアシエルの首の血管すれすれを掠っていく。皮裂を裂いた太刀筋の鋭さに、アシエルは唇の端を引きつらせて笑った。


「強いな、あんた」

「そちらも」


 短い返答を受けて、アシエルは剣を叩きつけたい衝動に駆られた。

 こちらは魔術を使って限界まで体を強化している。対する男に、魔術を使っている気配はない。

 努力と才能をかけ合わせ、命と時間を捧げて身に着けた力こそ本物だ。ハリボテの自分とは違う本物の実力に、嫉妬と憧れを感じずにはいられなかった。

 剣を弾いて距離を取る。沈黙が場に落ちると、男はかすかに首を傾けながら、なおもアシエルを挑発するように口を開いた。


「魔術は苦手か、?」


 心臓が嫌な音を立てた。向こうはアシエルを知っているらしい。剣だけではなく、魔術を使えと挑発しているのだ。

 けれど、男の意図が分からなかった。先ほどからまるで一方的に力を測られているかのようで、不気味で仕方がない。

 黙りこんだままのアシエルに焦れたのか、男がゆっくりと手を掲げる。


「この森は見通しが悪いと思わないか」


 淡々と呟く声に合わせて、ゆらりと男の指先に炎が灯る。炎に照らされた男の姿を目にした瞬間、アシエルはひゅっと息を呑んだ。


(こいつ、食堂にいた男――!)


 斬り合いで剥がれたフードの下からは、同じ人間とは思えないほど整った顔が覗いていた。イーリスではまず見ない真っ赤な瞳に、悪魔だと言われた方がしっくりくるほど、粗のない美しい容姿。顔全体を見たのは初めてだが、その特徴的な瞳の色はよく記憶に残っている。

 男の指先に灯った炎が、風に揺られてみるみる大きさを増していく。


(森を燃やす気か?)


 肌がぞっと粟立った。凝縮された炎が男の指先を離れる直前で、アシエルは慌てて剣を持つ手とは逆の手で空気を掴む。手の中で構築した魔術は、アシエルが握り込んだ空気を一瞬で凍りつかせ、周囲の空気を巻き込みながら、大きな氷柱となって男へと向かっていった。

 氷柱が炎を包み込む。成長を止めない氷は、そのままの勢いで男を飲み込もうとした。

 しかし、氷が男に触れようとした瞬間、氷柱は一瞬で蒸気となって、空気に溶けた。

 ぽかんとアシエルは口を開ける。


「……は?」

「荒い。脆い。ゴミのような術式だ。その潤沢な魔力と釣り合っていない」


 散々な評価を口にしつつ、男はじっとアシエルを見つめてくる。

 何が起きたのか理解するまでに、数秒かかった。

 つまるところこの男は、詠唱どころか術を発動するまでの溜めさえ必要とせず、アシエルの魔術を砕いたらしい。アシエルが驚愕から立ち直るより早く、男は軽やかに指を振る。 


「氷が好きか?」

「げっ! くそ……!」


 空恐ろしいほど複雑な術式が、瞬きの間にアシエルの視界を埋めつくす。抵抗する間もなく足元から這い上がった冷気は、そのままアシエルの背から腕までを包み込み、氷柱となってアシエルの動きを封じた。


「……魔王か何かか?」


 呆然とアシエルは呟いた。これほど早く強力な魔術を組める魔術師は、少なくともイーリスには存在しない。


「さあ。そう呼ぶ者もいたかもしれない」

「そりゃ、似合いのあだ名だ」


 剣を鞘に納めた男が、ゆっくりと近づいてくる。

 殺気こそ感じないとはいえ、望ましくない状況だ。氷の強度を確かめるようにもがいていると、男は抵抗を諌めるように、アシエルの顔を覗き込んできた。


「歪だな」

「はあ?」

「動けるようだが剣は荒削り。魔力は豊富なのに、その割には魔術の練度が釣り合っていない。まるで魔力だけをどこかから借りてきたかのようだ」


 アシエルの事情を見透かしたかのような言葉に、心臓が凍りつきそうになる。

 何のつもりか知らないが、会って間もない他人に、十年来の嘘を見抜かれてはたまったものではない。焦りに突き動かされるがまま、アシエルは力任せに腕を氷柱から引きはがした。摩擦で皮膚が裂けようが、気にしていられる余裕はない。


「好き勝手言ってくれるじゃねえか」

「顔色が変わったな。気に障ったか?」


 面白がるように呟いた男は、しかし直後に遠くを見て眉を顰めたかと思えば、くるりと無防備に背を向けた。


「……時間切れだ。また会おう、勇者」


 止める間もなく、男は暗がりに溶け込むように姿を消した。来た時と同じく急速に遠ざかっていく気配は、やがてアシエルにも感じ取れない距離へと消えていった。

 何が何だか分からないが、命拾いをしたらしい。長いため息をつきながら、のろのろとアシエルは剣を鞘に納めた。


「もう会いたくねー……」


 最初から最後まで謎の多い男だった。そのくせ実力だけは本物だ。本気でやり合えば、間違いなくアシエルが殺される。なぜこんな辺境の地にあんな手練れがいるのかと、己の不運を嘆くことしかできない。

 落ち込む間もなく、がさがさを草木を踏む音が聞こえてきた。どうやら、部隊の応援が駆けつけてきたらしい。ゲオール大佐に続いて、ゼークラフト中尉たち部隊員が次々と顔を出す。


「手を出すなと言っただろうが、馬鹿者!」


 開口一番、ゲオール大佐はアシエルを叱りつけた。「すみません」ときまり悪くアシエルは頭を下げる。


「捕縛できたらと思ったんですが、逃げられました。そちらは大丈夫だったんですか、大佐」

「魔銃の使い手がひとりいただけだ。互いに威嚇だけで終わった」


 魔力を弾丸として射出する魔銃は、数年前にテンペスタで開発されてからというもの、急速に諸国の軍隊へ広まり出した歩兵用の兵器だ。標的に照準を合わせる技術こそ必要にはなるものの、弓矢より射程距離は長いし、魔力さえあれば誰でも安定して敵を致命傷を与えられる。


「魔銃ってことは、やっぱりそっちも魔術師が相手だったんですね」

「『も』ということは、そちらもか」

「センチネルの魔術師でした。所属は分かりませんが、強いやつだったな……」


 報告しつつ、アシエルは男が消えていった方角に視線を送る。心臓はいまだにどくどくと嫌な音を立てていた。


「センチネル? 何のセンチネルだったんだ?」


 アシエルの怪我を手当てしながら、ゼークラフト中尉が首を傾げた。


「分かんねえ。今まで会ったことがないくらい、気配だけが異様に強かった。遠くから見つかったから、耳か鼻か、そのあたりじゃないか。見えてるみたいに動いていたから、目かもしれないけど」

「厄介だな」


 アシエルの言葉を聞いたゲオール大佐は、顎に手を当てて唸り出した。


「厄介……ですか? うちにもセンチネルはいるじゃないですか。耳も鼻も目も、揃ってますよ」


 何をそこまで警戒することがあるのか。訝しみながらアシエルが問いかけると、そういうことではないとばかりにゲオール大佐は頭を振った。


「少尉の言うところの気配というものは我々には感じられないが、センチネルの能力が強いほど、その気配とやらは強く感じられるのだろう?」

「まあ、そうっすね」

「相手方は索敵も撤退も異様に早かった。ともすればひとつではなく、複数の感覚のセンチネルである可能性がある」

「……複数の感覚のセンチネル? 目も耳も鼻もいいみたいな? そんなことってあります?」


 重々しく紡がれた言葉は、アシエルにはあまりに突飛な発想に思えた。しかしゲオール大佐は「数は少ないが、存在する」と断言する。


「隣国にもひとり、名の知れたセンチネルがいたはずだ。名はたしか、ベイグラント准将といったか。五感すべてが人より優れていると聞いたことがある」

「そりゃまた、きつそうな人生ですね」


 感嘆するより先に、同情した。ひとつの感覚が優れているだけでも定期的にガイドに調律を受けなければ精神に不調をきたすというのに、五感すべてのセンチネルともなれば、自分の感覚に苛まれて早死にしそうだ。

 いずれにせよ、できることならあの男とはもう戦いたくはない。


「各員、分隊に分かれて相手方の痕跡を探れ」


 ゲオール大佐の指示を受けたアシエルたちは、手分けをして辺りを探ったが、不審者たちの手がかりはとうとう見つからなかった。


 一晩明けて、神事の朝。霧雨で白く霞んだ空気が、しっとりと肌に絡みつく。世辞にも快適とは言いがたいが、厳かな儀式には似合いの天候だ。

 儀式は、ロッシ司祭の朗々とした祈りから始まった。足音を立てることすらはばかられるほどの静けさの中、白いローブを纏った少年少女が、しずしずと舞台へと上がっていく。神に舞と歌を捧げる者は祈り手と呼ばれ、その町で生まれ育った子供たちが務めるのが慣例だ。

 石作りの舞台に上がった祈り手たちは、ぐるりと大きく円を描くように散開すると、両膝をついて舞台にぬかづいた。現代においては、王族相手にさえ取ることのない古い礼の姿勢だ。普段の生活でまず目にすることのない姿勢と服装は、それだけでも神秘性を醸し出す。

 りん、と澄んだ鈴の音が静寂を破った。木々がこだまを返す前に、次々と鈴の音が重ねられていく。やがて、深く礼を捧げていた少年少女はゆっくりと顔をあげ、一斉に空を仰ぎ見た。息を吸い込む音に続いて、幼さを残す声が響き始める。

 性別を感じさせない子供たちの歌声は、アシエルには意味の解せぬ言語を紡いでいた。抑揚をつけて天に捧げられる祝詞のりとは、賛美歌のようでもあり、大規模な魔術を起動する前の呪文の詠唱にもよく似ていた。

 木々に紛れて儀式の様子を眺めていたアシエルは、ひっそりと感嘆のため息を漏らす。

 

「すげえのな。神事、こんな近くで見るのは初めてだ。だいたい森の奥とか神殿の奥とかで隠れてやってるから」

「隠れてるわけじゃなくて、もともと場所が決められているんだよ」

 

 苦笑しながらゼークラフト中尉が訂正する。

 

「神事は空の結界を強化し直す儀式でもある。位置にも多分、意味があるんじゃないかな」

「ふうん。たしかに祝詞って呪文に似てるもんな。意味は分からねえけど」

「古語だよ。俺もそんなに詳しいわけじゃないけど、水と大地に感謝を捧げる言葉だ」

 

 小声でゼークラフト中尉と会話を交わしながら、アシエルは神殿の入り口に備えられた貴賓席に視線を向けた。隣国テンペスタからの客人は、イーリスの貴族が座る席から最も離れた位置に座っている。灰色の髭を蓄えた壮年の男性が、今回命を狙われているというヴィスコンティ公爵だろう。刻まれた隈が心労を物語ってはいるものの、堂々とした佇まいは威厳に溢れていた。

 呆気ないほどに何事もなく、神事は淡々と進んでいく。昨夜の不審者との遭遇を思えば、順調すぎるほどだ。

 

「何も起こらねえな、中尉」

「良いことじゃないか、少尉。このまま何も起こらずに終わってくれるのが一番だ」

「仕掛けるならとっとと仕掛けてほしくねえ?」

 

 敵がいることが分かっているというのに待ち続けるしかできないというのは、どうにもこうにももどかしいものだ。


「賓客が外にいるのは今日の儀式だけだろ? 今来ずにいつ来るんだよ。とっとと出てこいよな。ノロマなやつら」

「機を伺ってるって言ってやれよ」

 

 苛立ちを隠さぬアシエルの様子に、ゼークラフト中尉は苦笑を滲ませる。長いこと茂みに身を潜めているせいで、いい加減体が痛くなってきた。こきりと首を鳴らしたアシエルは、せめて全身の強張りだけでも解そうと立ち上がる。

 その時、りん、と一際大きな鈴の音が響いた。あたかも音に殴られたかのように、ぴたりとアシエルは動きを止める。ちりちりと首筋の毛が逆立つような気配を、遠くに感じた。

 

「来た」

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