2-2

 宗教国家イーリスの空には膜がある。この国のみならず、大陸全土を守る結界だ。

 原理も分からぬ巨大な結界は、遠い昔、凶悪な魔物を退けるために神が人へと与えたものらしい。普段はそこにあることさえも忘れているけれど、晴れた日の空を見上げると、青緑色の光が時折ひらりと揺らいで見える。

 竜討伐の任務を終えた翌々日、アシエルは王城の門をくぐりながら、大きなあくびをこぼしていた。秋らしく晴れ渡った空と、きらりと瞬く結界の光が、憎らしいほど目に眩しい。


「昨日は眠れなかったのか? アシエル少尉」


 アシエルの目が充血していることを見てとってか、苦笑しながらゼークラフト中尉が話し掛けてくる。


「眠れるかよ。ユリア殿下に謁見するってのにぐーすか寝てられるほど、俺は神経太くねえんだよ」

「変なところで神経質だよな」

「こちとら庶民なんでね。城に行き慣れてるお貴族様と一緒にしないでくれ」


 じとりとアシエルが目を向けると、ゼークラフト中尉は「俺たちだって別に慣れてるわけじゃないよ」と言って肩をすくめた。


「しゃんとせんか、みっともない」


 だらだらと話す二人を見かねたのか、前方を歩くゲオール大佐が呆れたように振り返る。慌てて口を閉ざしながら、アシエルはため息を吐いた。

 三人して朝から王城の廊下を歩いているのは、イーリスの第一王女ユリアから、報告という名の呼び出しがかかったためだ。

 特殊部隊は、その名の通り通常の軍隊の指揮系統から外れている。現場における司令官はゲオール大佐であるが、部隊の責任者とでもいうべき立場にあるのは、ユリア王女だ。部隊長であるゲオール大佐と、その副官であるゼークラフト中尉はともかく、なぜそこにアシエルまでもが加わるのかと考えると、胃が痛かった。


(面倒ごとじゃないといいけどな……)


 しかしアシエルの祈り空しく、王女の要件は、当たり前のように面倒ごとだった。


「掃討任務の直後にすまないが、そなたらには明後日から始まる神事での来賓の護衛を頼みたい」


 先の任務の達成を丁寧に労った後で、ユリアは憂い顔でそう切り出した。

 陽に透けるような金髪に、王族特有の菫色の瞳。髪をゆるく結い上げ、上品な青いドレスを着こなすユリアの姿には、思わず跪きたくなるような気品があった。国王が病に倒れ、気鬱気味な王妃も表に出てこなくなった数年前から、ユリアは婚礼の適齢期を尻目に、王族の公務を一手に引き受けている。その重責からか、ユリアには王女というよりも女王と呼びたくなるような風格があった。


「護衛、でございますか……?」


 ゲオール大佐が復唱すると、ユリアは難しい顔をしながら頷いた。


「隣国テンペスタとの国境にある、テスの町を知っているか」

「存じております。神事で名高い町ですな」


 ゲオール大佐が顎ひげを撫でながら相槌を打つ。

 イーリスには季節の変わり目にあちらこちらで神事を行う風習がある。その中でもテスは、冬の始まりの神事を行うことで有名な町だった。町の外れには、訓練兵の合宿場も備られている。


「テスの神事には、各国からの客人が訪れる。テンペスタからも、貴族派の賓客としてヴィスコンティ公爵を迎えることにした」

「『貴族派』?」


 聞き慣れぬ言葉に、アシエルは思わず口を挟む。直後にゲオール大佐の険しい視線を受けて、慌ててアシエルは口を閉ざした。公式の場では、身分の高い者の許可なく発言してはいけないのだ。

 二人の視線でのやり取りに気付いたのか、ユリアは「良い。崩せ」と苦笑しながらアシエルに声を掛けてくれた。


「テンペスタの事情には馴染みがないか、アシエル。かの国はふたつの派閥に割れているのだ」


 皇帝派と貴族派、とでも言おうか。内緒話をするかのようにユリアは続けた。


「現テンペスタ皇帝グレゴリオ殿は徹底した能力主義者でね、国を富ませる手法を選ばない。身分に関係なく有能な人材を登用しては、魔術兵器や生活道具を国を挙げて開発している。かの国では魔力を必要とせずに火を生む道具が、貴族から平民まで広く普及しているほどだ」

「へえ、便利ですね」


 アシエルは感嘆の声を上げた。火付け石と焚き木でやりくりしているイーリスの民からしてみれば、夢のような話だ。

 しかし、アシエルの反応はユリアの求めるものではなかったらしい。「たしかに便利だろうが……」と困ったように言葉を濁す。


「新しい技術は、時に人から仕事を奪い、制度を脅かす。だからこそ、隣国テンペスタが二つの派閥に割れているのだ」


 どういうことなのか。眉間に皺を寄せるアシエルに、横からゼークラフト中尉が補足してくれる。


「火を生み出せる道具は、炎の魔術師の仕事を奪うだろう? さらに言えば、炎の魔術自体の価値まで下げてしまう。だって、魔術がなくてもできるんだから」

「それ、制度どうこうに関係するか?」

「する。普通、平民は魔力を持たないだろう。それなのに魔術と同じ恩恵を受けられるようになってしまったら――あんまりこういう言い方は好きじゃないんだけど、平民と貴族の差が縮まってしまうって思わないか? 魔術に頼らない技術の発展は、貴族の絶対的な優位性を脅かすって考える人もいるんだよ」


 分かるような分からないような。アシエルは神妙な顔を作って頷いておいた。

「つまるところは」とユリアは話をまとめる。


「テンペスタの民は、皇帝の押し進める技術改革を歓迎している一方で、貴族たちはそれを面白くは思っていないということだ」


 だから『皇帝派』と『貴族派』なのかと頷いたところで、アシエルはぐっと眉を寄せた。


「貴族派は、昔ながらの保守的な派閥ってことですよね。それなのに神事に招くのは、貴族派の公爵なんですか?」


 隣国の二つの派閥のうち、片方の代表者だけを選んで招くということは、イーリスはその派閥を支持するということだろう。けれど、昔から小競り合いを繰り返してきた保守的な陣営を支持しても、こちらに得はないのではないか。

 浮かんだ疑問をそのまま口にすれば、ユリアは「そうとも限らない」と頬に手を当てた。


「たしかに我が国とテンペスタは良好な関係を築いているとは言えないが、戦争にまでは発展してこなかった。貴族派がテンペスタ国内で力を持っている間は、変わらぬ付き合いができる。けれど、皇帝グレゴリオの思想は、これまでのテンペスタの方針とは大きく異なる。より過激で、目的のためには手段を選ばない」

「ここ最近、やたらテンペスタとの派手な小競り合いが増えているって聞くのは、もしかして……」


 話の流れからすると、嫌な予感しか浮かばない。思案するように目を伏せたユリアは、重々しくアシエルの言葉を引き継いだ。


「現皇帝の影響だろう。かの方は技術の発展を阻害すると言って、神の教えを否定している。魔獣の増加は結界の綻びのせいだと主張して、大陸を覆う結界の調査を度々申し込んでくるほどだ」


 その言葉を聞くなり、部屋中の人間が顔を強張らせた。

 宗教国家イーリスの民は須く信心深い。朝夕には教会の鐘が祈りの時間を国中に知らせ、貴族から平民に至るまで、皆が食前の祈りを欠かさないほどだ。空を覆う結界に触れることは、大陸宗教における最も重い禁忌であった。


「我が国は、テンペスタの貴族派を援助する。だが、皇帝派にとっては、テスの神事は絶好の機会だろう。目障りな抑止役である貴族派の筆頭が、これまた気に喰わない宗教国家を訪れるのだからな」


 憂いを帯びた声でユリアが言うと、ゲオール大佐はこれ以上なく苦々しい顔をして、「狙い目でしょうな」と頷いた。


「ビスコンティ公爵を儀式の最中にしいして、我が国の責任を問えば、民意を味方に付けた上で、貴族派の勢力を削ぐこともできるでしょうから」


 要は、一歩間違えば隣国に事件をでっち上げられ、戦争を仕掛けられかねない状況らしい。

 ユリアは重々しく頷いた。


「テンペスタからネズミが入り込んでいるとの報告もある。準備ができ次第、出立してくれないか。常人では及ばぬ感覚を持つセンチネルそなたたちが警備に加わってくれるならば、これほど心強いことはない」

「御意のままに。殿下の憂い、我々が晴らしてご覧に入れましょう」


 力強くゲオール大佐は頷いた。

 やっぱり面倒ごとだったとアシエルは涙を飲む。

 幸いにしてセンチネルたちがメインの任務らしいので、アシエルが命を張る必要がなさそうなことだけは救いだろうか。しかし、そんなかすかな希望は、直後のユリアの言葉によって儚く打ち砕かれた。


「何が起こるか分からない。有事の際には、二度の竜殺しで高めた名は紛い物ではないのだと、隣国に見せつけてやりなさい、アシエル。頼りにしている」

「……御心のままに、殿下」


 勘弁してくれと言いたい気持ちを堪えて粛々と返事をする。そんなアシエルを見て、ユリアは「随分とそれらしい返事ができるようになったものだ」とからかうように微笑んだ。


「実力といい振る舞いといい、もうすっかり一人前の兵士だな」

「それは、その……ユリア殿下が昔、ご温情を与えてくださったおかげです」


 言葉はそのまま、ただの事実だ。アシエルが母の形見の力も知らぬまま、偶然の果てに竜を撃墜してしまった十年前、さては魔族か化け物かと疑いの目を向けられたアシエルを、ユリアは己の庇護下に置くことで守ってくれた。勇者の称号の是非はともかく、彼女が後ろ盾となってくれなければ、アシエルは今ごろとっくに死んでいる。いわば命の恩人だ。


「そのヘッドバンドも?」


 白魚のような指先で、ユリアはついとアシエルの額を示す。癖の強いアシエルの髪をとめる黒いヘッドバンドは、額の古傷を隠すためにぼろ布を巻いていたアシエルを見かねて、ユリアが与えてくれたものだ。


「はい。殿下に賜ったものです」

「やはりか。お前は本当に犬のようだな」


 美しい微笑みに苦笑の色を載せながら、ユリアは「悪い意味ではない」と言葉を足した。


「主人を一途に慕う犬は愛い。それほど気に入っているのであれば、同じ作りの物を新調しよう。少々年季が入りすぎているようだから」


 和やかに侍女へと申しつけるユリアに再度頭を下げて、アシエルたちは謁見を終えた。

 

 * * *


 イーリスとテンペスタの境に位置する辺境の町テスは、深い森林に囲まれていた。耳を澄ませれば鳥の声が聞こえ、辺りを見れば、小動物が忙しなく草むらを駆けていく様子がそこらかしこで目に入る。

 ぼんやりと景色を眺めつつ後発部隊の到着を待っていると、ふとアシエルの耳に草木をかき分ける音が届いた。茂みに視線をやれば、猪型の魔獣がこちらを目掛けて一直線に走ってくる姿が見える。


「気ぃつけろ。魔獣、そっちに行ってるぞ」


 近くでしゃがみ込んでいる新兵に声をかけるが、返事はなかった。真っ青な顔をして口元を押さえている様子からして、体調でも悪いのかもしれない。

 仕方がない、と剣を抜いたアシエルは、素早く新兵の前に身を滑り込ませると、走り込んできた魔物を代わりに相手取る。

 魔獣の断末魔を聞いて初めて、ようやく現状を把握したのか、慌てた様子で新兵が振り返った。けれど、その動きさえ負担になったのか、彼は再度口元に手を当て、蹲ってしまう。


「……っ! うっ、ぐ……」

「大丈夫か。気分が悪そうだけど」


 剣に付着した血を落としつつ、アシエルはふらついている兵士に声をかける。距離を詰めると、弱々しくはあるものの、乱れたセンチネルの気配が感じられた。大方、センチネルの能力に目覚めたての新兵なのだろう。生まれつき感覚が鋭い者もいれば、ある日突然、センチネルとして目覚める者もいる。任務の後ならいざ知らず、始まる前から体調を崩しているのは後者の場合がほとんどだ。


「きついなら調律するか? ちょっとはマシになるぜ、多分」

「うるさい!」


 一応の親切心で差し出した手は、即座に跳ね除けられた。青白い顔で、新兵はきつくアシエルを睨みつけてくる。


「ガイドなんかの施しを受けてたまるか。ましてやお前みたいな平民に」


 こちらを見下していることがありありと分かる言葉と視線を受けて、アシエルはため息をついた。貴族ばかりの部隊にいれば、似た出来事は嫌でも経験する。流してしまうのが一番手っ取り早い。

 しかし、地獄耳の上司はそうは思わなかったらしい。どこから聞いていたのか、重い足音が向かってきたかと思うと、次の瞬間には雷のような怒声が場に落ちていた。


「馬鹿者!」

「うっ」


 体調不良の新兵に、ゲオール大佐は容赦なく拳を振るう。


「貴様は上官への口の利き方も知らんらしいな、フィラー伍長」

「ですが、この男は……!」

「この男ではなく、アシエルだ。階位制度もろくに知らぬようなら、幼学校からやり直してくるのだな!」


 なおも反抗的な態度を示したフィラー伍長は、再度ゲオール大佐の拳骨を落とされる。


(あれ、痛いんだよな……)


 指導という名の体罰を散々受けていた訓練兵時代を思い出し、アシエルは憐れみを込めて、見守った。

 しかし、他人事でいられたのもそれまでだった。


「貴様もだ、アシエル少尉!」

「えっ」


 くるりと振り返ったゲオール大佐は、流れるようにアシエルを叱りつける。


「規律を乱すな! 舐めた口を利かれたならば教育しろ!」

「って言われても、俺は平民で」

「俺の部隊に入った以上、実力がすべてだ。文句を言う輩は拳でねじ伏せろ」

「それは脳筋って言うんじゃ――っ痛ぇ!」


 思ったことをそのまま呟けば、無言で拳骨を落とされた。


「そこ、何を突っ立っている! 荷物の搬入と宿営の準備はどうした。ちんたら歩くんじゃない! 走れ!」


 ゲオール大佐の怒鳴り声を受け、足をもつれさせるように新兵たちが走り出す。わずかに遅れて立ち上がったフィラー伍長は、アシエルを睨みつけると、危うい足取りで仲間たちの背を追っていった。


「まったく、先が思いやられるな。……我々は先に神殿の司祭に顔通しをするとしよう。同行しろ、アシエル少尉」

「了解しました」

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