第二章 魔王と呼ばれた天才

2-1

 真っ暗に閉め切った仮宿の一室で、黒いローブを纏ったセンチネル――ディズジェーロ・ベイグラントは、イーリス軍の資料をじっと眺めていた。テンペスタからの出向任務を命じられた彼にとっては、この資料に載っている全員が敵方だ。

 ただひとりを除いて。


「……『勇者』」

 

 第一王女ユリアの懐刀だという男の資料を掲げながら、ディズジェーロはぽつりと呟いた。ほとんど音にもならぬ声には、隠しきれない高揚が滲んでいた。

 金色の髪に翠の瞳。手に触れた瞬間の、ぱちりと電気が弾けるような感触。食堂で出くわした、いかにも人好きしそうな顔立ちの、己よりいくつか年若いだろう青年を思い出す。


(間違いない)

  

 資料に刻まれた名前を確かめるようになぞりながら、ディズジェーロはひっそりと口角を上げた。

 ディズジェーロには、忘れられない思い出があった。それまで早く死ぬことだけを願っていた彼を、これまで十年生かし続けてくれた、大切な記憶だ。


 * * *


 ここで死ぬのか。

 傷だらけの体と、立てもしないほどの痛みと眩暈を訴える頭を抱えて、ディズジェーロはぼんやりと考えた。

 これでようやく薄汚い謀略に塗れた生活から解放される。そう思えば清々しくもあったが、同時に、くだらない連中の罠に嵌められて終わる自らの生が、ひどく虚しいものにも思えた。

 センチネルに生まれついて良かったことなど何もない。聞きたくもない会話が聞こえ、見たくないものを目にして、知らなければ良いことを知ってしまう。食事に仕込まれた毒を受け入れることすらこの体は許してくれない。

 真っ暗闇の街はずれ、切り崩された浅い崖の下で、ディズジェーロは自らの体を抱きしめるように背を丸めた。

 風が肌を嬲る。水音が耳を刺す。星明かりが目に眩しくてたまらない。一際強く痛む頭と、込み上げる吐き気に、ディズジェーロは弱々しく舌打ちをした。

 何がセンチネルだ。

 己の感覚に振り回され、ひとりでは生きることも叶わないなど、生き物として優れているどころか欠陥を抱えているとしか思えない。

 ガイドが嫌いだった。媚びるように手を差し伸べるくせに、こちらに与えるのは決まって苦痛だけ。そのくせこちらが身を守ろうと構えるだけで、あっけないほど脆く壊れて死んでいく。そんなことばかりを繰り返すうち、いつしかディズジェーロにすり寄るガイドはいなくなった。同時に、慈しみの手を向けるものもいなくなった。調律どころか、ガイドでもない人間にすら触れることを忌避されるようになった。寄ってくる人間は、容姿に惹かれた有象無象と、ディズジェーロの力を利用しようとする者たちだけだった。

 一際強い風が吹く。雪交じりの風の刺すような冷たさに、ディズジェーロはぶるりと身を震わせた。

 意識が混濁していた。普段であれば接近する人の気配に気付かぬことなどあり得ないというのに、もはや人どころか、獣の気配ひとつ判別できないほどに、ディズジェーロの精神は限界を迎えていた。


「……い、おーい。おい、大丈夫か。聞こえてるか?」


 掠れた声が聞こえる。声変わりの途中のような不格好な音が、そこで事切れるはずだったディズジェーロの意識を辛うじて引き戻す。


「おい。まだ生きてるよな? 死んでないよな? 肩、触るぞ」


 一枚膜を隔てたような意識の向こう側で、声は何事か喚いているようだった。

 ――うるさい。

 煩わしいすべての音を遮断したくて、ディズジェーロは血で汚れた両腕の中に頭を埋めた。……はずだった。


「いてっ!」

「……っ」


 もう少しで痛みのないまどろみに落ちることができそうだったのに。唐突に肩に痛みが走る。痺れるような衝撃は、強引に眠りの淵からディズジェーロを叩き起こした。


「びっくりした。何だ? ばちっときた。冬だからかな。……悪い、痛かったか?」

「……さ、わ……るな」


 朦朧とする意識の中で、ディズジェーロは必死で言葉を吐き出した。この声の主のせいで、楽になれない。

 痛い。苦しい。煩わしい。――寒い。

 凍えてしまいそうだった。寒いのは体なのか、ばらばらになりそうな精神なのかさえ、もはや分からない。

 不意に、しっとりとしたぬくもりがディズジェーロの手を掴んだ。


「や……めろ……」


 制止する声は届かない。振り払う力も残っていない。怖いはずがないのに、そのぬくもりが恐ろしくてならなかった。けれど、次の瞬間、自らを襲った感覚に、ディズジェーロは息を止める。

 ――温かい。

 もしもディズジェーロが愛を受けて育ってきたとしたら、他人に慈しまれるその感覚を、幼子のころに母に抱かれたぬくもりだとか、赤子に指を掴まれた瞬間の柔らかさだとか、表現する言葉を知っていたのかもしれない。

 けれど、ディズジェーロは知らなかった。そのあたたかさを知らなかった。


「大丈夫」


 声が響く。耳で聞いているはずなのに、体の奥から聞こえてくるような、奇妙な感覚だった。ぶっきらぼうな声が告げたそのたったの一言に、どうしようもないほど警戒心を解かれる。

 小さな手のぬくもりに導かれるように、狂ってしまいそうなほどの苦痛がかすかに引いていく。眩しくてたまらないと感じていたはずの星明かりも、いつしか和らいでいた。代わりのように、ディズジェーロの視界には、宵闇の中で顔をしかめ、滝のような汗を流す少年の姿が映っていた。

 じっとディズジェーロを見つめる目は、澄んだ緑の色をしていた。何の害意もなく、媚びもない。真摯にこちらの様子だけを伺うその瞳が恐ろしくて、体が動くようになった途端に、ディズジェーロは少年の手を払い落としていた。

 少年がガイドであり、双方向にあるはずの違和感を一手に引き受けながら、不器用な調律を施していたのだと気づいたのは、随分と後のことだ。


「あー……、動ける、か? 手当てを、しないと……。ごめんな、おれに、治癒魔術、が……使えれば……良かったんだけど」


 肩で息をしながら、少年はディズジェーロの傷を痛ましそうに見つめていた。ディズジェーロだって、一通りの攻性術式は修めていても、治癒の魔術など使えない。必要を感じたことがなかったから、習得しようと思ったことすらなかった。


「あんた……すげえ怪我してるし、気配、すげえし……。死ぬぞ、それ」


 言っている当人こそ、死にそうな顔をしていた。暗がりで見えていないと思っているのか、くしゃくしゃに歪み、汗と鼻水と涙に塗れた、見るに堪えない顔をしていた。

 しばらくその顔を眺めていたが、ふと、ふわふわとした癖のある金髪に視線を惹かれた。後から思えば、苦痛のせいで頭がどうかしていたのだろう。無性に触ってみたくなって、無意識のうちにディズジェーロは手を伸ばしていた。

 しかし、伸ばした手は、髪に触れる直前でびくりと跳ね上がる。


「アシエル! 夜中に何をやっている、この馬鹿者!」

「違うって、ゲオール教官、こっちに怪我人が――うわっ⁉」


 少年を突き飛ばし、ディズジェーロはふらつく足で必死に森を駆けていく。

 敵も、先ほどの少年も、誰の気配も感じなくなった深い森の奥で、ディズジェーロはようやく足を止めた。

 手に残ったぬくもりを握りこむ。飴玉を転がすように、ディズジェーロはひっそりと唇を動かした。


 * * *


「アシエル」

 

 暗がりの中、ディズジェーロは懐かしい記憶に重ねるように呟いた。記憶の中の少年は、体だけを大きくしたかのように変わらぬまま、精悍な青年へと成長していた。

 片やイーリス、片やテンペスタ。属する国こそ対立しているけれど、ディズジェーロは生まれて初めて未来に期待した。たとえ敵方だとしても、己に初めてぬくもりを教えてくれた存在と正面から相まみえることができるという事実が、ただ嬉しかった。

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