第七話 人はみな虚像を愛す……

 魔宴サバト。それはコキュートスで古き時代から行われてきた祭事である。悪神に子供を捧げ、敵を倒すための戦勝祈願とする。建国戦争の折に自らの命を囮にして騎士たちに勝利を与えたというベアトリーチェなる童女がその由来であるが、今は置いておこう。



 獄紀ごくき772年現在、その魔宴サバトは人々にどのように認識されているのか。



 それは貧しい郊外の者たちにとっては生活を豊かにするためのすべだ。労働力にならない無駄飯食らいと言えども、自分の子供を捨て去るには抵抗がある。



 だが、国が戦勝祈願のために買い取ってくれるのであれば、話は別だ。子供の命がコキュートスを守るために役立ち、さらには親の暮らしを楽にさせてくれる。



 無為に子供を捨てれば、親は子殺しの罪を負うが、魔宴サバトの贄として国へ差し出せば、それは挺身という名誉に変わる。中にはこの名誉欲しさに豊かな暮らしをしている町人が子供を差し出す場合もあるようだ。



 “名誉とは人間を堕落させる毒である”。これは今をときめく騎士道譚きしどうたんのひとつ、『赤き鮮烈の剣』に登場する名言だ。


 『赤き剣』シリーズは土魔法による印刷技術の進化と出版の時期が上手く噛み合ったためか、ジュデッカを中心として広く愛されている。王族と騎士たちが支配するコキュートスにとっては危険となる思想が物語に込められているが、表面上は“正義の騎士”を謳っているゆえに見逃されている。



 著者であるシャックスは確かにこの時代の代弁者と成りうる存在だが、けして思想自体の産みの親ではない。密かに醸造され、コキュートスのあちこちで芽吹いてきた騎士に対する不信感、王族に対する反抗心。それらを上手く繋ぎ合わせたに過ぎないのだ。



 静かに進行しつつあるムーブメント。そのきっかけになったひとつの要素、それが魔宴サバトである。大多数の町人、高等教育を受けてきた騎士たち。彼らにとっては魔宴サバトは古いだけの悪しき慣習だ。子供を殺したとて、それが戦勝の足しになるわけがない。むしろ、未来の労働力をむざむざ失っているわけで、状況次第では敗北に繋がる。



 そもそも騎士たちには強い自負があった。それはコキュートスを守ってきたのは他ならぬ自分たちだという誇りだ。重い鎧を着て汗を流し、敵国の兵士を殺して多くの血に塗れた。戦の中で朋輩を失い、自らも死ぬ可能性の高い境遇に置かれ続けた。それなのに戦勝の名誉をどこの者とも知れない子供たちが受け取っていることに我慢がならぬ。



 魔宴サバトは忌避されつつある。かつては多くの騎士たちがそれを粛々と行っていたが、今ではあれこれ理由を述べて互いに魔宴サバトの主催をなすりつけ合っているのが現状だ。『赤き鮮烈の剣』の終盤では嬉々として魔宴サバトを行ってきた“悪徳の騎士”を磔にして、主人公たちは快哉かいさいを挙げていた。



(いずれはオレもこのような終焉を迎えるのだろうか。それは困る。ヴィヴィアンを救えたとして、その先が無いようでは話にならない)



 ソウルは題名通りに赤い装丁の本を閉じた。ここは清廉白滅騎士団の一室。武功を立て、魔宴を行い、団長のマルコや副団長のエリスからも目を掛けられている彼が手に入れた“城”だ。壁には力を誇示するかのように磨き抜かれた剣が並んでいる。まだ中身は無いが、本棚も設置されていた。丈夫に造られた執務机に向かいつつも、そこにあるのは書類ではない。



 『赤き唯一の剣』『赤き散逸の剣』『赤き鮮烈の剣』。シャックスが書いた騎士道譚である。郊外のカイーナからわざわざジュデッカの清廉白滅騎士団騎士舎へ来ておいて、することが読書なのだと以前のソウルが聞けば、騎士にあるまじき怠惰だと嘆いたことだろう。



 ソウルはもともと本を読む性質タチではない。これはレイチェルに借りたものである。最近、彼は外で鍛錬するのが億劫だった。騎士たちはソウルを“人喰い騎士”として尊敬している。彼らの中では、誰もやりたがらない仕事を率先してやってくれている責任感の高い男なのだという。その間違った推理の結果、生まれる視線はソウルが心を病んでしまいそうになるほどであった。



 ソウルは傭兵の生活が長かった影響か、倫理観は町人と同じようなものだ。幼い子を自らの手で殺めねばならない精神的苦痛は計り知れない。ヴィヴィアンの懺悔と彼女を身請けするという目標が無ければ潰れてしまう。そんな状態のソウルを見兼ねて、レイチェルが貸してくれたのが『赤き剣』シリーズであった。



 登場する“正義の騎士”も“悪徳の騎士”も、その両方に共感してしまったソウルは気分転換であるはずの読書を続けていくたびに逆に憂鬱になった。それでもページを捲る速度は加速した。単純に面白かったのである。



 どんなに風刺が込められていたとしても、現実と物語は分けられて考えるべきだ。いかに上手く作られていようと本の中に出てくる“正義の騎士”は虚像だ。真っ直ぐな騎士が素晴らしい仲間に囲まれて愛する人の応援を受けて悪を誅滅ちゅうめつする。こんなものは絵空事に過ぎぬ。



 それでも、今では時代遅れだと蔑まれている乙女信仰を現在でも標榜している騎士たちが存在すること、魔宴サバトに対する民衆の印象の変化など、現実に役立ちそうな知識は得られた。



(未来など誰にも分かりはしない。弱気になってどうする。ヴィヴィアンを身請けしたあとはカイーナの屋敷を売り払い、どこか別の国へ逃げるという選択肢もある。出来てもいないのに諦めるな。騎士としての正義は折れたが、人間としての正義はまだ持っている。オレはそれに殉ずるのみ)



 ディーテのいち陥落からおよそ2週間。主犯のマゼンタ・ユス・ケルベロスは既に収容所から出たという。両腕が無くなった騎士がこれからどんな目に遭うのだろうか。彼女がいなければ人身売買は横行せず、トロメーアの人々は苦しまず、孤児院に行くべき子供たちが溢れてしまうこともなかった。



(アスナロやミリアの苦しみの半分でも味わってくれたら良いのだが)



 突然、部屋の扉が開けられる。燻んだ銀髪を肩まで揃えた長身の麗人で三大貴族の一角、エリス・ウィル・ジャッカロープだ。朱色あけいろのドレススカートの上に闇色の軽鎧とレイピアを装備したいつもの姿である。



「苗を買いに行く。ついてこい」


「は」



 彼女が信じる善行のたびに花壇は賑やかになってゆく。意固地になって、手伝わないようにしていたが、それも本日でおしまいということだ。ささやかな抵抗であったが、エリスの機嫌を取らなければ、彼女の推薦によって得られた主席騎士という立場を失ってしまうかもしれない。



 白い軽鎧と自慢の名剣。それらを装備して街に向かう。並んで歩いてしばらく経ったときにエリスは喋り出す。



「貴公、話には聞いているぞ。魔宴サバトを行っているらしいな。それは貴公のような選ばれた“正義の騎士”としての振る舞いではない。子供を殺すなど奴隷にでもやらせておけば良いのだ」


魔宴サバトは特別手当が出るんですよ」


「金か。確かに金が無ければ貴族は立ち行かぬ。ルシフェル家の再興ともなれば、莫大な金が必要であろうな。それが理由なら、まだ理解できたのだが……」


「なんです?」


「貴公は女を身請けするつもりか。貴族であれば、愛妾あいしょうのひとりやふたり囲うのは度量を示すいい技でもあるな。それは私も認めよう。だが、金を稼ぐことに拘っていると、いずれは正義の道を見失うぞ。私はそれだけは我慢出来ない。貴公が目指す“正義の騎士”にそんな結末は味気なかろう」



(分かり合えない部分はあれど、エリスはオレを買ってくれている。それは間違いないだろう。まともな言葉だが、“正義”を捨てた今の自分には響かない。それどころか……妙な引っかかりがある。違和感……?)



 エリスはいつもの通り仏頂面だが、少しだけ不機嫌である様子が伝わって来る。



「エリスさんは騎士道譚がお好きなんですよね? オレもさっき読みましたよ。『赤き鮮烈の剣』。エリスさんはどう思いましたか?」


「『鮮烈は赤き槍』だったか。騎士を題材としながらも、支配階級に屈せぬという心意気は感じた。騎士とはそうでなければならぬ。己の信じる正義と同時に並立する己の正義を疑い続けること。それを踏まえて仕える主人に殉じる覚悟があるかどうか、その本を読んだら初心を思い出したよ」



(題名を忘れたのか? いや、彼女が語ったのは裏テーマ。そこまで読み尽くしてなお、エリスにとって、名前は重要視するべきものではないのだ。であれば、この違和感は)



 行きつけの花屋に着く。3歳くらいの子供が近くにいたが、母親が彼を背中で庇う。その態度に困惑したが、彼女が“人喰い騎士”と呟いたことで謎の行動の理由が分かった。


 清廉白滅騎士団の外で言われるとは思ってもみなかったが。簡単に用を済ませ、ぼーっと花を見ていたエリスを連れて騎士舎へ向かおうとする。が。



「土の兵か?」



 土と砂と泥と岩で造られた人形兵が道の真ん中で立っている。よく見れば子供を人質にしており、ソウルとエリスは臨戦態勢に入る。



 人形兵に言葉は通じない。ゆえに取るべき手は速攻。人質を傷付けない程度の大きさの炎で人形兵を焼き払ってゆくが、少々分が悪い。エリスの火力を発揮しづらい状況であり、また凝縮された土は火を通さない。だからと言って、レイピアで斬れる代物ではないため、結局は炎に頼ることしか出来ない。



 ソウルは破魔の力を駆使して確実に一体ずつ行動不能にする。



(ジュデッカの街中で堂々と……! ただの賊ではあるまい。しかし、妙だ。人質を取りながらも、オレたちが来るまでなぜ動かなかったのだ。目的は何だ?)



 3体目の人形兵を壊して、人質を奪還した瞬間、ソウルは彼を見た。顔に火傷のある少年。アスナロだ。彼はニヤリと笑い、ソウルはその笑みに戦慄を覚えた。

 アスナロは人形兵に指示を出し、残った戦力をエリスにぶつける。だが、足枷のいなくなった彼女にとってはその方が好都合だった。人形兵を軒並み溶かすほどの炎を叩き込む。だが。



「な、に……?」



 瞬間。エリスの鳩尾みぞおちを貫通していたのは土で造られた義手。頑強に造られた義手は軽鎧など物ともしない。

 人質を取ったように見せかけたのは人形兵でエリスを包囲するため。人質を簡単に救出させたのはソウルの行動を縛りつつ、エリスに高火力の炎を使わせるため。炎を遮蔽物として利用したのだ。



「あっはは……は。 わたくしの腕は、どうで、した、か……? ジャッカロープ卿、油断……しまし、たわね。不意打ちは、わたく、しの十八番おはこでして、よ……」



 下手人であるマゼンタ・ユス・ケルベロスは全身に大火傷を負いながら嗤っていた。土の鎧を着込んで炎を軽減したのだろうが、既に致命傷。魔力が抜けて義手が崩れ、エリスの傷口に混ざる。そしてマゼンタが倒れ伏し、そのまま命尽きた。晴れやかな顔をして死んでいた。


 彼女の復讐はここに成ったのである。



「……治せ!」


「無駄だ。この傷を塞いだとしても、失われた血は戻らない。抉られた臓腑は戻らない。ましてや細かい土が傷に混ざってしまった。あなたなら知っているでしょう。治癒の力は万能ではない。もはやこれまで」



 エリスは小刻みに息を吐き、膝から崩れ落ちる。ソウルでなかったとしても今の彼女の感情は理解できるだろう。絶望、激情、焦燥。普段は伏せられている目が大きく開き、瞳の赤さは地面に広がる血によく映えていた。



「馬鹿な。死ぬのか? この私が? 許されない……。許されない。……許されない!!」


「許されるさ」


「何故」


「何故ならあなたは人間だから。人間というものは己の意志とは関係無くあっさり死ぬものだ。ひとりの世界が終わったとて、次の瞬間から何事も無かったかのようにみんなの世界は続いてゆく。だから、諦めて騎士らしく潔く死んでくれ、エリス」



 エリスは顔を強く歪ませ、頬に涙が伝う。その思わぬ変化と死に際の彼女が放つ神気しんきの如き美しさにソウルは刹那、息を呑む。



「何故だ。何故、貴公はそんなことが言える。何故、私に優しい言葉をかけてくれぬのだ?」


「少しは自分の頭で考えたらどうだ? 自分の振る舞いを思い直せ。……分からないのはオレの方だよ。あなたはオレがそんな言葉を吐くとでも思っているのか。どうしてそんなことをしなければならぬ」



 ソウルが取った非情な態度と言葉はエリスを深く傷付け、そこで初めて彼女は悟る。人生で初めての敗北感を味わう。自身の死に対する感情よりも大きな心の動きを実感する。



「私は……貴公を愛しているのだ! 貴公と婚姻を交わし、やがてはジャッカロープ家の跡継ぎに相応しい子供を作る。そして、そのあとは貴公と死ぬまで共にいる。そう夢見てきたのだ。死ぬのであれば、せめて最後は夢を見たまま死なせてくれれば良いものを……」



(なるほど。それは予想外だった。エリスのような怪物でも恋はするのか。思い返せば、納得が行くような行かぬような……。いや)



「ならば問おう。エリス、オレの名前は何だ」


「何を言っている? 貴公はルシフェル卿だ」


「それは一族の名だ。オレの名は?」


「知らぬ。貴公は氷像となった親族を救い、家を再興すべく傭兵に堕ちながらも騎士となった“正義の騎士”。それで良いだろう」



 好きになった人の名前を知らぬ。それ自体は有り得ることだ。だが、ソウルはエリスの麾下きかにつき、幾度もその名を名乗ってきた。ましてや、愛する者の言葉であれば、覚えておきたくなるのが普通の感覚だ。彼女が記憶しているのはソウルの生い立ちと過去の目標のみ。



(エリスが他の騎士のことを名前で呼んでいるのを見たことがない。好んでいるという騎士道譚の名前すら満足に覚えていない。彼女にとって、それはどうでも良いことなのだ。何という隔絶か。そんなさまで人を愛すと何故吠えられる?)



「あなたが愛しているのはオレではない。それはオレの虚像だ。この世界は騎士道譚のように単純な世界じゃないんだ。あなたがいくらオレを愛していると勘違いしたところで、その出力が間違っていれば、結果は捻じれる」


「虚像。そうか……そうか……そうか。私が愛したのは貴公そのものではなく、貴公の描く“正義の騎士道譚”シバルリック・ロマンスなのだな。ならば私は……」


「オレはソウル・ティカ・ルシフェル。あなたが愛す物語を産み出す感情なき虚像ではない。人間なんだよ。せめて最後は愛する者の名を知って散るがいい」


「……痛い。……苦しい。……悲しい。介錯を務めてくれないか、ルシフェル卿」



 最後までエリスは彼の名を覚えないつもりであるらしい。それは捻くれているものの、彼女にとっては矜持であるかもしれなかった。

 ソウルはやや距離がある場所で佇んでいるアスナロを見た。マゼンタとは違い、彼の表情は優れない。

 剣を抜き、エリスの首に向かって振る。痛みを感じるより前に死ぬ、彼にとっては最速の一撃だ。



「!?」



 炎を纏ったエリスの手がその一撃を止める。勢いに負けて指がいくつも飛び、剣は肩に刻まれた。血が飛び散り、彼女の頬を赤く染める。



「私が神ではなく人間であるならば! 私が愛したのが貴公ではないのであれば! 私の人生に意味は有らず。最後は貴公の“正義の騎士道譚”シバルリック・ロマンスに立ち塞がる敵として果てるとしよう!」


「何を……!」


神身堕落しんしんだらく  倶利伽羅伽藍くりからがらん



 莫大な炎の魔力が巻き起こる。ソウルは彼女の体から飛び退いていたが、その熱は周囲の街並みすら焦がし溶かしてゆくほどの高まりであった。すべてを焼き尽くす劫火を纏い、エリスは鹿のような角を全身に生やした異形の姿。手にしたレイピアは崩れ、炎の剣と化した。そこに美しさはもう無い。ただただ、恐ろしい。



(くっ、油断していた! 死に際の騎士が神身堕落に頼ること。傭兵としての経験はどこへ行った! まずい……。このとんでもない炎圧で接近するのも困難。例え接近したとて剣が保たない。そう言えば、アスナロは!?)



 熱風に晒されながらもソウルは走る。倒れているアスナロを抱き、安全圏まで離れる。その間にもエリスは炎をジュデッカの街に降らせてゆく。あちこちから悲鳴が聞こえてきた。首都を守るべき清廉白滅騎士団の副団長が魔浄兵まじょうへいと化して街並みを灰に変えている。地獄の如き光景であった。腕の中でアスナロが呟く。



「にいちゃん、どうしておれを助けた? おれは人殺しに手を貸した。おれは死ぬべきだ」



 答えに窮した。何と答えるべきなのか、ソウルには分からなかった。ただ無言で彼を立たせ、再び炎禍の中心へ向かおうとする。その背中にアスナロは叫んだ。



「やめろよ! 死ぬぞ!? にいちゃんだって死ぬのは怖いだろ。何のために戦うんだ!?」



(何のため?)



 エリスと初めて会ったときのことを思い出す。彼女と共に蜥蜴団を討伐したときのことを思い出す。アンジュを倒したあとにかけられた言葉を思い出す。



(あぁ、悩む必要なんて無かったじゃないか)



「オレはソウル・ティカ・ルシフェル。“魔光の騎士”だ。オレは正義のために戦う。未だくすぶる思いのために戦う。生きるために戦う」



(エリスはオレに誇らしい名をくれた。子供を殺す“人喰い騎士”ではなく、子供を救う“魔光の騎士”へと導いてくれたのは他ならぬ彼女だ)



 それからは一顧だにせず、走った。炎を少しでも減衰させるため、破魔の光を全身に纏う。エリスは自らが死した場所から動いていない。絶えず炎を振り撒いてはいるが、ジュデッカのすべてが灰になることはないだろう。



 彼女はこちらを見るや否や伸びた角から炎を繰り出す。鞭となって空中をはしる炎篇枝。大剣となって高まった攻撃力を活かす炎領樹。火の玉を無数に撃ち出す炎球種。巨大な炎の塊ですべてを制す炎劫華。


 ソウルはこれまでエリスに従い、共に鍛錬をして彼女の技をすべて見てきた。ただでさえ、エリスは魔浄兵となって理性を失ったことで技の精彩を欠いている。この程度、対処は可能だった。



(人間だったときのあなたのほうが強かった)



 光熱の力を剣尖けんせんに宿し、強化した脚力と腕力で最高の斬撃を生み出す。魔天剣。その刹那の閃きはエリスを切り裂いていた。禍々しき太陽はここに落ちる。「愛してる」。そんな声を聞いた気がする。理性の焼け落ちた獣が最後に遺す言葉を静かに受け止めた。しかし。



「うっ……」



 ソウルは体を支配するような痛みと熱に倒れそうになった。

 側には真っ二つになったエリスの亡骸がある。凄惨な場面に似合わず、静かな表情だ。彼のよく知る彼女のかおだった。何よりも己の正義と愛のために生きた女だった。



(それにしても、これほどの事態が起きているのにひとりの騎士も駆け付けないのはおかしい。騎士舎にも何か起きたのだろうか)



 ここから騎士舎までは少し距離がある。エリスの炎は強力であったが、そこまで被害が出ているとは思えなかった。ソウルの光は魔力を打ち消すが、既に街並みを焼いている炎にまでは効果は及ばぬ。水の魔力を持つ者たちの消火活動が始まるのを待つ必要がある。



(応援を呼びに行く。それしかない。マルコにはエリスの顛末てんまつを伝えなければならない)



 火傷を治癒の力で癒しつつ、騎士舎へ全速力で向かう。しかし、ソウルの目の前に広がるジュデッカの光景は予想外のものだった。


 天まで届く火の柱。人々を襲う泥の怪物。建物を押し潰す水流の塊。空を穿つ雷の槍。瓦礫を巻き上げる竜巻。それを放っているのは全身鎧を身に付けた無数の兵士たち。ソウルは彼らを見たことがある。



(ユグドラシルの兵!? 馬鹿な。ディーテのいちの戦力自体は減っていないはず。こんな短時間でジュデッカにまで攻め寄せるなど不可能だ。くそ、清廉白滅せいれんはくめつ騎士団は何をやっている)



 ユグドラシルの兵から折れた剣で人々を守りつつ走ったせいでずいぶんと到着が遅れてしまった。馬の嘶きだけが聞こえてくる。そして。ソウルは目の前の光景に呆然としていた。



「何故だ……何故こんなことに……」



 騎士舎は凍り付いていた。高く聳える氷の城。ソウルが全霊を以てしても打ち砕けないあの氷像と同じものだと直感する。コキュートスにいる誰よりも、彼はこの氷と馴染みがあった。中にいるはずの騎士たちはみな死んでしまったのだという確信。それは絶望と同義。



 凍り付いた扉の前に誰かが佇んでいる。鮮やかな色の花たちの向こうにいる……それは修道女であった。



「どうして…………」



 ソウルを絶望の淵から掬い上げてくれた女。彼女のために多くの子供を殺した。ソウルにとっては何よりも優先されるべき人間だった。それなのに。氷の城の前でヴィヴィアン・バフォメットは陶然としたなまめかしい笑みを浮かべている。



 すべては虚像に過ぎなかったのだろうか。愛を向ける先を間違えたというのはエリスだけではなく、ソウルにも言えることであったのか。



 獄紀772年、冬。ここに“魔光の騎士”と“魔氷の聖女”が邂逅する。コキュートスに巻き起こる波乱の中央でふたりは最悪の再会を迎えたのだった。

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