第八話 凍てつく真実は溶けゆき……
燃え立つ街並みの中、
「あははは……! ソウルのその顔が見たかったの。裏切られたって、言いたいんでしょう」
蠱惑的な笑みを浮かべながらヴィヴィアンは白い息を吐く。ソウルは彼女の変化に驚いていた。彼は娼婦としてのヴィヴィアンを知らぬ。10年という歳月は人間関係に大きな溝を作る。彼にとってヴィヴィアン・バフォメットは共に育った幼馴染で、究極的に言えばその認識は7歳のときから変わっていない。
“愛はその人を視る目を曇らせる最も危険な感情である”。ソウルは『赤き鮮烈の剣』で繰り返し語られた一節を思い出す。
(オレが見ていたのはヴィヴィアンの虚像だったというのか?)
ヴィヴィアンは黒の修道服によく映える白い手を胸に這わせる。整った顔から滲み出た汗とうっとりとした表情は悪魔的であった。
「騎士が忌避すべき大罪は4つ。肉親に対する裏切り、祖国に対する裏切り、客人に対する裏切り、主人に対する裏切り。でも、こんなものが比にならない最悪の罪があるよね。それは愛する者に対する裏切り……! アタシはね、ソウルのことが大好きなのよ。だからね、あなたを裏切ってみたかったの。あなたの夢を嗤ってみたかったの。今日は最高の日ね!」
あははは……と嬉しそうな声が響き渡る。ソウルは彼女が発した前半の言葉に聞き覚えがあった。アンジュ・グレモリーがエリスとの口論の中で言っていたフレーズだ。アンジュは執行灰燼騎士団の団長代理としての名誉を捨て、ソウルを訳の分からぬ憎悪で攻撃してきた。その理由を彼はいま理解していた。
「きみがグレモリー卿を唆したのか」
「うん。あの人は扱いやすかったなぁ。本音を言えば、あそこでジャッカロープ卿を殺してくれていたら、もっと楽だったんだけど。ケルベロス卿を担ぎ出したのもベルフェゴール卿を釣り出す作戦のためだったのに本当に予想外。ソウル、あなたの上司はなかなかどうして立派な騎士だよ」
「ヴィヴィアン、きみは一体、何者なんだ」
ソウルは絞り出すように声を発する。すべて彼女の目論見だったことが分かった。ジュデッカの中心部までユグドラシルの兵が来ている状況も合わせて考えれば、ヴィヴィアンはコキュートスを滅ぼすために動いていたのだと推察できる。しかし、ただの娼婦がそんな計画を立てたとしても、実行するのは不可能だ。それ相応の立場というものが必要になってくる。
「ふふふ、アンテノーラ教会はコキュートスで一番の諜報機関なのよ。アタシはそこの副長を務めている。あそこの扉、ものすごく分厚いでしょう? たいていの音なら掻き消せるその向こうにユグドラシルの兵たちを来たる日まで隠していたの」
「……なるほど。
(そう言えばドラゴン卿は
目の前の美少女は傑物であった。コキュートスを守る清廉白滅騎士団、
「ん、ソウル、火傷しているね? ユグドラシルの兵士たちにあなたを追い詰める力があるとは思えないし、ジャッカロープ卿と戦闘になったのかな。ケルベロス卿とアスナロくんを誘導したのアタシだけど、もしかして
エリスの最期は結果だけ抜き出してしまえばアンジュと大差無い。
ソウルはエリスの優しい微笑みを思い出し、知らず拳を握り締める。向いた先自体が虚像だったのだとしても、彼女の愛そのものは本物でった。良いように操られて死ぬべき命だったとは思えない。
ヴィヴィアンは比類なき巨悪だ。ソウルは既にそう確信している。けれど、いつまで経っても剣を抜く気にはなれなかった。それは愛によって、彼の目が曇っているせいなのであろうか。“正義の騎士”であれば、躊躇いなく彼女の首を斬り落とせるのだろうか。折れているのは剣だけなのか。
逡巡は永遠の如く。
「予想外のことがたくさん起きても結局はアタシの思い通りなんだよね。現実はつまらない。ソウルにはアタシを裏切ってほしかったな」
ひどく退屈そうな顔でヴィヴィアンは言う。ソウルは反論したかったが、何も言えぬ。何を言うべきなのか、見当すら付いていない。魔女の論理を突き崩す術はここには無い。すると。
「何をしておる」
その鬱々とした声は後ろから聞こえてきた。ふたりの視線がそちらに向かう。騎士舎の前の道には
「あら、プルソンさま。王城を制圧する仕事は終わったんですか? アタシはこの通り、清廉白滅騎士団の大半を殺したところですよ」
「そこに残っておるではないか。しかも、マルコ・デュマ・ベルフェゴールは生きておるぞ。街の者たちをディーテの
「まあ、なんてことでしょう。それをアタシにやれとおっしゃっているのかしら?」
「何を馬鹿な。貴様は“魔氷の聖女”としてコキュートスの者たちの精神的支柱になって貰わねばならぬ。貴様が殺しに行けばその計画は破綻する。その者を速やかに……ふむ。よく見ればルシフェル卿ではないか。裏切り者として罪を被ってもらうには最適の存在だ。逃がすなよ。わしはこれから王城へ向かう。門には適当に兵を送るだけで良かろう」
プルソンはそう言って燃え立つ街並みの中、王城へと歩き出す。
(ケルベロス卿の情報を持ってきたのはプルソンだった。エリスが敬語を使っていることから考えるに、プルソンこそが国家転覆計画の主犯であると言えよう。マルコが生きているのであれば、すぐにでも合流したいところだな。とは言えこの状態でヴィヴィアンがオレを見逃してくれるとは思えぬが)
「ところで、ソウル。あなたにはアタシに聞きたいことがあるんじゃないの? コキュートス国家転覆計画の詳細なんて、あなたには何の価値も無い。10年前、アタシが何故、ソウルのお父さまと叔父さまとお祖父さまを凍結させたのか。その理由が聞きたいんだよね?」
ドキリとさせられた。確かにその通りだった。美しい氷の城はルシフェル家の氷像と同じものだ。彼が最初に言うべきだったのはヴィヴィアンを糾弾するために発する言葉のはずだった。
……ソウルは現実に直面したくなかった。逃避していたかった。訳も分からぬまま死にたかった。
(オレの愛が
「聞けば教えてくれるのか」
「タダでは嫌よ。条件がある。騎士舎には生きている馬が何頭かいるよ。これで今すぐカイーナの屋敷に戻りなさい。そこで、レイチェル・アンドロマリウスをソウルの手で殺せば、氷像を溶かしてあげる」
「馬鹿な! 何故レイチェルを!?」
「あら、彼女はアンテノーラ教会の諜報員なの。戦闘能力は低いけど、人を騙すのが得意。覚えているわよね? あなたは誰の勧めでアンテノーラ教会に来ることになったんだっけ?」
「使用人は騎士団から支給される。……いや、あのドッグタグといい、初めて来たときの彼女の汗……そうか。本来の使用人を殺して席を奪ったのか? ……そうだったのか。オレはずっと騙されてきたんだな」
「あーいいね。その裏切られたって顔! アタシとしてはソウルの日常を報告してくれる良い部下だったんだけど、それもこれでおしまい。さ、殺してきてよ。戻ってこなくて良いけど、アタシに何か言いたいことが出来たのなら、また会いましょう」
最後までソウルは剣を抜くことがなかった。馬に乗り、南の門へ進むとマルコが獅子奮迅の活躍を見せていた。だが、多勢に無勢。やがては押し切られるだろう。普通であれば、ここにソウルが参陣するばだいぶ楽になる。けれど、無駄な時間を過ごしたくなかった。
「マルコ!」
「ソウル! 生きてたのか。見ての通り、街はめちゃくちゃだ。だが、この門を抜かれると一気にユグドラシルの兵たちが攻め寄せてくる。というわけで俺はここから動けねー」
「……オレにはやらねばならぬことがある」
「だと思ったよ。清廉白滅騎士団の仕事はジュデッカの防衛。けれど、それよりも大切なことがあるんだな?」
「ああ。……すまない」
「大雑把に数えてもユグドラシルの兵たちは50人を超えている。俺も左腕が折れているし、満身創痍だ。だから、奥の手を使う」
「……! それは」
「ユグドラシルの兵たちを一気に皆殺しにする。そして、俺の介錯を任せたい」
「オレに、おまえを殺せというのか」
「ただの魔浄兵さ。守るべき人々を魔浄兵となって殺すのはいくらなんでも後味が悪ぃだろ」
「マルコ……」
「ハハ、謝らなければならないのはこっちの方だぜ。俺はおまえに何もしてやれなかった。エリスが自身に流れる血の尊さを理由に無茶苦茶やってるのを知りながら、ソウルに押し付けた。あの求人だって、そのためだ。あいつにつけた騎士はみんな酷い顔になって辞めてゆく。今のおまえと同じだ。俺は友であるソウルを利用してエリスを抑えていた。悪かったな」
「……言うな。いまのオレは過去のオレの選択の結果だ。マルコが認めてくれたおかげで、オレは“正義の騎士”を夢に出来たのだ。叶わぬ夢であったが、それに向けて
「ハハ……そうか。ならば、もう何も言わねーよ。俺は俺の役割を全うしよう。ひとりの騎士として、ユグドラシルの尖兵を誅殺するぜ」
髭面の武人はあちこちから血を流しながらも威風堂々と立っている。地面に突き刺さった槍は見事な造りで、清廉白滅騎士団の団長に相応しい。人々を守る、これぞ騎士の鑑だ。彼は死を覚悟しながらも朗らかに笑っていた。
「じゃあ、頼んだぜ、戦友。清廉白滅騎士団団長、マルコ・デュマ・ベルフェゴール参る!!
マルコの肉体が隆起する。鎧を呑み込み、さらなる鎧甲を作り出す。頭から生えた角といい、背中に広がる翅といい、その姿はカブトムシに似ていた。拳は丸くなり、もう二度と槍を握ることは出来ないだろう。だが、その俊敏さはまさに豪速。
彼は水と雷の二重属性の持ち主だ。コキュートスでも希少な存在である。生み出される抜群の水圧はあらゆるものを切断する。切断面からは高熱の雷が駆け巡る。どちらの攻撃も卓越している。襲ってきたユグドラシルの兵50人の屍が積み上がってゆく。
そして。紫電が走る黄金の鎧甲で全身を包む彼は膝を落とし、首を下げた。誇るべき騎士の死に様だ。ソウルは彼の首を落とす。そこに躊躇いは無い。マルコを魔浄兵としてではなく、騎士として死なせてやるのだ。彼にとって、これ以上の誉れはあるまい。周囲にはもうユグドラシルの兵たちはいない。王城へ向かったのだろう。
(オレも行かなければ。全てが始まった場所へ)
♦︎♦︎♦︎
ソウルは馬を飛ばし、カイーナの屋敷に帰ってきていた。まず、最初に見たのは花壇だった。不自然に植えられた花を抜き、土を掘る。そこには骸骨が埋められていた。頭蓋骨は大きく陥没している。騎士団から派遣されたとは言え、所詮は使用人だ。アンテノーラ教会の暗殺者には勝てまい。
扉を開ける。玄関でレイチェル・アンドロマリウスはエプロンに身を包み、静かに待ち構えていた。いつもと違って無表情で両手には無骨な棍棒が握られている。
「ヴィヴィアンから聞いている。人を殺したそうだな。オレは今からおまえを殺す。抵抗しなければ、楽に死なせてやるぞ」
「ここの生活はとても気に入っていたんですけどね。残念ですわ。主人に対する裏切り、とてもやりたくない仕事ですが、仕方ありませんわね。あぁ……本当に残念ですわ」
(何を言う。既にレイチェルはオレを裏切っていた。ずっとオレを騙していたのだろうに)
レイチェルは痩せた体を存分に活かした素早い動きとスピードによって生まれたパワフルな棍棒使いだ。もし、相手が凡百の騎士であれば、必ず殺すことが出来ただろう。
だが、相手はソウルだった。わずか十数秒でレイチェルは地面に伏していた。彼女の肉体からは夥しい血液が流れ、絶命。しかし、死の間際に浮かべた笑みから言い知れぬ諦観が垣間見える。
(忠誠とはかくも罪深きものなのか。おまえは本当にオレを殺したかったのか?)
胸中に湧き上がるこの感情が何なのか、今のソウルには分からなかった。
広間に行くと裸になった男たちが訳も分からぬ顔でそこにはいた。どんな炎でも破魔の力でも溶けなかった氷像は完全に消滅している。ソウルは彼らの前に跪き、騎士の礼を取った。
「お爺さま、叔父上、父上。ご無事で何よりでございます。清廉白滅騎士団主席騎士、ソウル・ティカ・ルシフェルが着陣しました」
すると、彼らは歓声を上げた。素晴らしい跡継ぎだと褒められるが、ソウルの心には全く響いていなかった。エリスが何故このような狂気に及んだのか。氷が溶けたいまの3人が全裸であることを考えれば予想が付いた。
「父上たちを凍結していたのはヴィヴィアンですよね? あの日、何があったんですか」
「ヴィヴィアンは元々、戦勝祈願のために売られた子供だった。
「3人がかりで幼い子を蹂躙したのですね」
「あぁ。とは言え、殺す前に凍結させられてしまったね。さあ、行こうか息子よ。わたしの服と鎧と剣を持ってきてくれ。ヴィヴィアンを殺しに行くのだ」
「それは復讐のためですか」
「違うよ。彼女は戦勝祈願のために売られた子供だ。次に起こる戦争のために殺さねば」
「なるほど。よく分かりました」
ソウルは目にも止まらぬ早業で叔父を斬り殺していた。祖父と父親があまりの驚きに狼狽する。慌てて逃げようとした祖父の背中を天剣で貫く。広間には血が溢れている。
長年、氷像の周囲はソウルがひとりで掃除していた。レイチェルにもけして触れさせなかった神聖な場所だった。その場を自分の手で破壊したというのに、何の感慨も無かった。折れた剣であっても造作も無いことだった。
「何故だ」
いつかのソウルのように、エリスのように父が嘆く。ただ、彼は何も理解していない。理解しようともしていない。これが騎士の姿か。
「あなたたちが肉欲でヴィヴィアンを犯して殺すのであれば、まだ良かった。あなたたちは空っぽだ。何の信念も無く、自らの正義を疑うこともない。もはや騎士とは呼べず、その在り方はカラクリ人形に近い。オレはあなたたちを嫌悪する。この世の何よりも憎悪する。この肉体に流れる血を恥じる」
「このような
「そんなことはどうでもいいのです」
「そんなこと、だと!?」
「これまであなたたちは
「そうだ」
ルシフェル家は唾棄すべき一族であった。ソウルがその考えに染まっていなかったのはひとえに7歳という若さでひとりになったおかげだ。もし、あのままルシフェル家の教育を受けていたら、ソウルとて何の疑問も無く、汚れてしまっていただろう。
(なんという滑稽な勘違いだろうか。オレはこんなやつらを救うためにこれまで血を流して侮蔑や屈辱に耐えてきたのか。だとしたらオレのこれまでの苦労は何だったんだ。すべては虚像だったということか……何と愚かしい)
「死ね」
ソウルは祖父を殺した。叔父を殺した。父を殺した。ルシフェル家に誉れなど、最初から無かったのだ。“正義の騎士”になる夢など、最初から叶うはずも無かったのだ。
正義が折れて新たな拠り所としたのがヴィヴィアンの救出だった。だが、彼女に良いように操られて、ソウルの友はみな死んだ。
(肉親に対する裏切り……。いや、騎士の規範など、もはやどうでもいいことだ。いまのオレがやらねばならぬことは)
ソウルは黒馬に跨り、ジュデッカを目指す。折れた正義にもはや何の未練も無い。だが、燻る想いだけはあった。無駄に終わるのだとしても、ただ死にに行くだけの無謀なのだしても。彼は止まるわけにはいかないのである。
「そうだろう、エリス」
愛のために死んだ女の名前を呟き、ソウルはひたすらに馬を走らせるのだった。
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