プロとアマの差


 放課後になると俺はスーパーに寄り、風邪に良い飲み物や果物などを買って蘭胤荘に帰った。

 未遥さんが看病するとは言ったものの、やはり心配だったのでちゃんと見舞いをしようと思った。

 恵流には普段からお世話になっている。これくらいのことはしてあげたかった。

 玄関を開けると、ちょうど洗面器とタオルを持った未遥さんと鉢合わせた。


「おう、お帰り」

「ただいまです。恵流の体調、どうですか?」

「病院で薬を貰ったから、今朝よりはだいぶ良くなったよ。いま体を拭いてあげたところ」

「そうですか……」


 俺はホッとした。


「大家さんでも、ちゃんと看病できたんですね」

「失礼な。私だってそれぐらいできるよ」


 皮肉を言うと未遥さんはムスッとした。

 さすがの未遥さんも病人が出たときまではふざけたり、飲んだくれたりはしなかったようだ。


「恵流には普段から助けられてるからね。これくらいはしてあげないと。本当なら私がしなくちゃいけないアパートの掃除とかやってもらっちゃってるし」

「そう思うなら、少しは大家の仕事してくださいよ」

「そうしたいけれど、私も本業が忙しいからね~」

「本業?」

「言ってなかったっけ? 私、イラストレーターなんだ」

「え!?」


 俺は背後からハンマーで殴られるような衝撃を受けた。

 信じられない。あの未遥さんが、まさか俺が憧れている職業を持っていたとは!


「さすがにこんな格安アパートの家賃だけじゃ食っていけないからね~。ラノベの挿絵とか、コミカライズの作画とか、毎月締め切りでキツキツなんだ。それを見かねて恵流が掃除とか点検とかしてくれるようになってね。私もつい甘えちゃってるんだ」

「そう、だったんですか……」


 まさか未遥さんにそんな事情があるとは知らず、俺は彼女を下手したてに見ていた自分を恥じた。

 それどころか、未遥さんは敬うべき先達だった。


「……璃里耶にさ、坊やの絵を見せてもらったよ」


 俺の態度の変化を見てか、未遥さんは唐突にそんなことを言ってきた。

 肩がビクッと跳ねた。

 現役のプロに絵を見られた。

 どんなことを言われるのか、心臓が早鐘を打つ。


「なかなかうまいね。高校生とは思えないレベルだった」

「あ、ありがとうございます」

「うまいけど……いまは、ただうまいだけだね」

「え?」

「坊やの絵には、主張がない。何を伝えて、訴えたいのか、それが見えてこない。描いている本人も、よくわかってないんじゃない?」

「っ!?」


 容赦のない言葉を突きつけられた。

 図星だった。

 俺の絵に足りないもの……それは技術でも表現力でもない。

 主題だった。

 璃里耶は「あなたはエロスをテーマに描くべきよ」と言った。

 だが、そのエロスすらも結局扱いきることができず、表現の手段のひとつでしかなくなっている。

 何を描いても、納得できなくなったのは当然だ。

 俺自身、絵を通して、何を主張したいのか、わかっていないのだから。


「絵の技術が高いなら、アシスタントっていう道もあるけど……本気でイラストレーターを目指すなら、一番大事なのは自分と対話することだよ」

「自分と、対話……」

「何を描きたいのか。何を実現したいのか。何を好きなのか……自分の本音と本心がわからないようじゃ、仮にデビューできても長続きしないと思うよ?」


 いつもなら聞き流せたはずの未遥さんの言葉。

 その言葉のひとつひとつが、いまや重みがあり、深々と刺さってくる。

 俺の手は震えた。

 悔しさなのか、恐れなのか、よくわからない震えだった。


「……まっ、先輩の偉そうな小言はこれぐらいにしておいて……その荷物、恵流へのお見舞いでしょ? 持って行ってあげな。きっと喜ぶから」


 未遥さんはいつもの軽い調子に戻り、洗面器を片付けると、管理人室に入っていった。

 ……あの管理人室で、彼女は絵の仕事をしている。

 目と鼻の先にあるはずの管理人室が、遙か遠くに感じられた。


    * * *


 お盆に食器とコップを乗せて、俺は恵流の部屋を訪ねた。


「恵流、起きてるか? 俺だけど」

「カケルン? どうぞ~」


 いつもの恵流と比べると、やはり幾分元気のない声が返ってきた。

 お邪魔します、とひと声かけて扉を開ける。

 目に入ってきたのは、女性型のトルソーと何枚もの作りかけの衣装。

 ミシンが置かれた台の周りには、床が見えないほどの生地が散乱している。

 女の子の部屋、というよりもアトリエのような部屋だった。


「やほ~、カケルン~。昨日ぶり~」


 恵流はマットレスの上で横たわっていた。

 まだ若干熱があるのか、顔が火照っている。


「具合どうだ? スポドリと果物とか買ってきたけど」

「わー、嬉しいー。欲しいなー」

「わかった。起きられるか?」

「ん。なんとか」


 恵流はムクリと起き上がった。

 桃色のパジャマを着た姿があわらになる。意外とかわいらしい寝間着姿にドキッとした。


「にゃはは。パジャマ姿見られるの恥ずいな」

「人の忠告無視した結果だ。甘んじて受け入れろ」

「はは、本当だね~。バカだね~あーし。せっかくカケルンが気遣ってくれたのに、あっさり風邪ひいて迷惑かけちゃってさ……」


 やはり風邪で気が弱っているのか、苦笑しつつも恵流は申し訳なさそうな顔を浮かべた。

 思いのほか消沈してしまっている恵流に慌ててフォローを入れる。


「迷惑なんて思ってないよ。むしろ俺たちのほうが普段から家事とかで恵流に助けてもらってるんだから、このくらいのお返しはしないと」

「いやー、家事はあーしが趣味でやってることですからー」

「それでもだ。今日くらいは素直に人に甘えていいと思うぞ」

「……ん。じゃあ、そうします」


 恵流はようやくニコっと笑った。

 俺はコップにスポーツドリンクと水を少々入れて薄め、恵流に飲ませた。


「あと、これイチゴ。ビタミンCたっぷりだからな。風邪のときは、これが一番だ」


 イチゴが入ったお皿を渡す。

 食べやすいように、台所で四分割に切り分けておいた。


「やった~。イチゴ超好き~。えへへ、カケルン気が利きますね~。看病もなんか手慣れてる感じ~?」

「妹が熱出したときも、よくこんな風に看病してたからな」

「へぇ~、カケルン、お兄ちゃんなんだ。あーし、ひとりっ子だから羨ましい~」


 親が共働きなので、妹の世話はよく俺がしていた。

 その影響で小さい頃は俺にベッタリだったが、最近は年頃の中学生らしく反抗期でキツい態度を取っている。

 俺が東京に行くのを一番反対していたのも妹だった。最後は口も聞いてくれなかった。

 喧嘩別れのような形になってしまったが、妹は今年受験だ。一回くらいは実家に顔を出して、兄として激励してあげるべきかもしれない。


「ごちそうさま~。はぁ、食欲もなんとか戻ってきたよ」

「そりゃ良かった。お粗末様」


 皿の中を空にすると、恵流はまた横になった。


「飲み物はここに置いておくから。じゃあ、お大事に」

「あ、待って、カケルン」


 腰を上げて部屋に出ようとすると、恵流に服の袖を掴まれた。


「その、もうちょい、いてくんない? ……ごめんね? なんか、心細くてさ」


 恵流は縋るように見つめてきた。

 普段の快活な姿が信じられないくらいの弱々しい姿だった。

 本当に今日の恵流は、精神的にも弱っているらしい。

 見ていて、放っておけない気持ちになってくる。

 俺は「いいよ」と答えて、また腰を下ろした。

 そういえば妹も熱を出したときは傍を離れると涙ぐんでいた。

 恵流も体調を崩すと人恋しくなるタイプなのかもしれない。


「ありがとね」

「べつに。それにしても、凄い衣装の数だな」


 何か話題を振ったほうがいいかと思い、俺は衣装を見回しながらそう言った。

 恵流の作った服は、素人目からすると店に並んでいても遜色はないほどのクオリティーだった。


「初めて見たけど、こんな風に服作れるなんて、凄いな。かっこいいよ」

「へへ~、褒められた~。んー、でもさー……最近は先生にダメだしされまくってるんだよねー」

「そうなのか? こんなに出来がいいのに」

「『出来がいいだけ』って言われちゃった。『着る人の気持ちをもっと考えなさい』って。……考えてる、つもりなんだけどなぁ~。でも先生の目からすると、何か足りないんだろうね~」


 陽気に言っているが、恵流本人はその指摘に随分と落ち込んでいるようだった。

 いまの俺には、恵流の気持ちがよくわかった。


「……俺も、さっき似たようなこと言われたよ」

「もしかして、ハルちゃんに?」

「正解。いまのままじゃ、プロのイラストレーターになれても長続きしないってさ」

「そっか……厳しいねー、プロの世界って。上手に作れるってだけじゃ、ダメなのかなー」

「きっと、そうなんだろうな」

「そう思うと、リリヤンはやっぱり凄いなー。あーしたちと同い年なのに、もう第一線で活躍してるんだもん」


 油彩画ですでにあらゆる賞を受賞している璃里耶。

 作品が充分に揃えば、いずれは個展を開けるだろう。

 規格外の才能を間近で見せつけられると、自分は凡才なのだと痛感させられる。

 創作が行き詰まっている現状だと、余計に。


「なんか、あーしたちって似てるねー」

「……そうかも、しれないな」


 俺と恵流は似ている。

 壁に突き当たっていることもそうだが……恐らくは、心に負った傷も。


「……なあ、恵流」

「ん?」

「答えたくないなら、答えなくていいんだけど……」

「な~に?」

「昨日のアレ……本当に水道が壊れたから濡れたのか?」


 沈黙がおりた。

 恵流は掛け布団を握って、口元を隠した。

 その反応で充分だった。


「……嫌がらせだったんだな?」

「……うん。トイレ入ったら、上から水かけられた」


 俺は片手で顔を覆って、深い溜め息を吐いた。

 やるせない気持ちになった。

 どうして恵流が、そんな仕打ちを受けなくてはいけないのか。


「あーしのせいで『彼氏にフラれた』って……そう騒いでた。たぶん、この間告白を断った男子の元カノだったのかな……」

「何だよそれ……恵流は何も悪くないじゃないか!」

「でもさ、昔からそうなんだ。クラスで人気の男の子があーしに惚れると、女の子たちはこぞってあーしを責めるの。『媚び売ったんでしょ』って……そんなつもり、全然ないのにな」


 恵流は、分け隔てなく人に優しい。

 しかしその性格が恋愛絡みで摩擦を生んでしまう。

 ありもしない噂ができて、こうして嫌がらせを受けてしまう。

 腹が立った。

 恵流のことを、何も知らないくせに。


「……あはは、反応に困るよね、こんな話されても……」

「そんなことない」

「え?」

「俺も、ずっと嫌がらせを受けてたから、わかるよ」


 俺は恵流に打ち明けた。

 裸婦画に感動して、自分も真似て描いていたら、それをネタにいじめの対象になったことを。毎日が本当に辛かったことを。

 俺の話を聞き終えると、恵流は我が事のように瞳を濡らし、鼻を啜った。


「ひどいね、ソレ。裸婦画なんて、絵の基本じゃん。それをネタにしていじめ続けるなんて、あんまりだよ……」

「……恵流は、引かないんだな。ガキの頃の俺が、裸婦画描いてたこと」

「引くわけないよ。だって、カケルンはその絵に感動したんでしょ? 感動したから、絵を描くようになったんでしょ? 小さい頃から、もう絵の素晴らしさがわかったってことでしょ? 凄いことだよ、ソレ。しかも、そんな辛い経験したのにいまも描き続けてるんだよ? ……かっこいいじゃん、カケルン」


 心の中に溜まった濁りが、わずかに消えていくような気がした。

 嬉しかった。

 恵流に己の過去を受け入れてもらえて、救われたような気持ちになった。


「あーしたち、本当に似たもの同士なんだね」


 恵流は布団から手を差し伸ばした。


「……あのさ。眠るまで、手握ってもらってもいい?」


 いつもの俺なら、動揺して女の子の手など握られなかっただろう。

 しかし、この日は違った。

 恵流に対する強い仲間意識が、躊躇いを消した。

 俺は優しく恵流の手を取った。

 絆創膏でいっぱいの手だった。服を作るには針やハサミを使う。うっかり手を切ることもあるだろう。手作業を続けていたら、タコもできるだろう。

 彼女の努力の証がそこにあった。


「……おっきぃなぁ、男の子の手。ウチ、お父さんいないからよくわからないけど……もしいたら、こんな感じなのかな? なんか、すごく安心する」


 恵流の瞼がゆっくりと落ちてくる。


「眠っていいぞ。それまで握ってるから」

「うん……ありがと……カケルン……」


 間もなくして、穏やかな寝息が聞こえてきた。

 恵流が眠ったあとも、しばらく手を握っていた。


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