第四章 ギャルの初恋
新しい試み
今月の分の仕送りが振り込まれたので休日を使って大型書店に足を運び、画集を買い込んだ。
新たな画法を自分の絵に取り入れたいと思ったためだ。
璃里耶に続き、水無瀬青花をモデルにした淫らなイラストが脚光を浴びてから数日。
本来ならば、好調な流れを維持すべく絵を描き続けるべきところだが……近頃はどうも調子が出なかった。
何を描いても、納得できないのだ。
いつものように健全な絵を描いても、どうもしっくり感じなくて、消してしまう。
不本意ではあったが、試しにエロスをテーマにした絵を描いても結果は同じだった。
むしろ、後者の絵のほうが一番描きにくさを感じたほどだ。無我夢中になったときは、あんなにもスラスラと描けたというのに。
原因はわかっていた。
俺の拘りが強くなったんだ。
健全な絵だろうと、エロスの絵だろうと、同じことを感じていた。
……なんだか、ワンパターン化してきたな。と。
何を描いても、以前に描いた絵と似通っていて、新鮮味をまったく感じない。
モチーフやポーズの問題ではない。
画法……即ち、絵を魅せるための工夫、演出、テクニックが不足している。そう認めざるをえなかった。
幸いなことに、コメント欄にそのようなことを指摘する意見はまだないが、正直時間の問題ではないかと思う。
いまのままでは、確実にフォロワーたちに飽きられてしまう。確信を持って言えた。
フォロワーが少人数の頃は、そんなこと考えもしなかった。自分が満足のいく絵を描き続けていれば、それで自然に成長できると思っていた。
大きな間違いだった。創作者の腕は、見る者が増えることで、はじめて磨かれていく。……いや、磨かざるをえなくなる。
いまや俺の絵は多くの人間の目に触れている。
その中には、イラスト業界に通ずる者たちもいるだろう。
であるならば、もはや手を抜いたものは出せない。
本気でプロのイラストレーターを目指すのなら、尚更だった。
ネットで注目を浴びたことで、俺はようやく人に見せるための絵を意識するようになった。
これまでマイペースに描いていた自分は、とんだ甘ったれだった。
もっと成長しなくてはならない。
アマチュアの絵から抜け出すために、手法を変えなければならない。
業界でも通じるような、武器を手にしなくてはならない。
画集は先達の技術の宝庫だ。ここから学び、吸収しない手はない。
紙袋に積もった重い資料を持ちながら「よし、やってやるぞ」と気合いを入れた。
帰ったら早速、貪るように画集を読んで、机に張りつきながらスケッチをしまくろう。
……というか、そうしないと青花がまた変な提案をしてくる可能性が高い。
この間も、俺が不調であることを見抜いた青花は、これはチャンスとばかりに目を光らせて……
『え!? カケルさん、スランプなんですか!? これはいけません! あなたのパートナーとして力になります! スランプを脱するには新たな刺激を得るのが一番です! かくなる上は……えへ、えへへへ。わ、私とセッ……』
官能小説を嗜む変態お嬢様としての本性を露わにして以降、青花はなにかと理由をつけて俺と深い関係になることを望み、己の作品にリアリティーを持ち出そうとしているようだった。
そんな風に押しかけてくる変態お嬢様を俺は問答無用で部屋から叩き出し、戸締まりをした。
変態とはいえ、かつて憧れていた美少女に迫られるなんて役得ではないか、と思う者もいるかもしれないが……だからといって官能小説の資料になるのは御免である。
何より俺が求めていたのは、お淑やかな青花であって、官能小説を片手にゲスな笑みを浮かべる痴女ではない。
そしてもう二度と、そのお淑やかな少女が戻ってくることはない。その事実に、枕を濡らした。
……まあ、過ぎたことは忘れよう。
ちょうど昼食の時間になったので、最寄り駅近くのファミレスに入った。
気分を変えるためにも、たまには奮発して贅沢なものを食べよう。
「ねえねえ、何時にあがるの? 仕事終わったら一緒に遊びに行こうよ~。いいよいいよ、何時間でも待つからさ~」
「あの、こういうの困るので……」
席に案内されると、近くの席からあまり穏やかでない空気が感じられた。
どうやら男性客が女性の店員に絡んでいるようだ。
その店員に見覚えがあった。
風見恵流だった。
いかにも軽薄そうな男にしつこくナンパされ、困っている様子だった。
それを見て、俺は咄嗟に手をあげた。
「すみませーん! 注文お願いしまーす!」
店員を呼ぶブザーボタンがあるのを承知で、大声で恵流を呼んだ。
恵流は俺の席のほうを見て「あ」とこちらの意図を察したように笑顔になった。
「はーい! ただいま伺います! すみません、仕事があるので失礼します」
「え? おい、ちょっと……」
恵流は会釈して、すぐ俺のもとにやってきた。
「サンキュ、カケルン。助かっちゃった。あの人、本当にしつこくて、なかなか抜け出せなかったから」
恵流は申し訳なさそうな顔でお礼を言った。
「ここでバイトしてたんだな」
「うん。掛け持ちのひとつ。ここの制服かわいいから、気に入ってるんだ」
スカートの裾を握って、恵流は「かわいいでしょ?」と言う感じにポーズを取った。
メイド服を連想させる上品な仕立ての制服は、確かに美人でお洒落な恵流によく似合っていた。
ただ、胸の膨らみが強調される白いブラウスには、若干目のやり場に困ったが。
恵流にとっては不本意であろうが、これではナンパされても不思議ではない。
「おっと、仕事モードに切り替えないと不審がられちゃう。ご注文はお決まりですか?」
「あっ、そうだな……えっと、じゃあこのハンバーグランチのドリンクバーセットにデザートにチョコパフェ」
「かしこまりました。少々お待ちを……」
注文を受けて恵流がテーブルを離れようとすると、店員を呼ぶブザーが何度も鳴った。
恵流をナンパした男の席からだった。
ニヤニヤと意地の悪い顔を浮かべながら、ボタンを連打している。
「店員さ~ん。来てくださ~い。呼んでますよ~」
どうやら俺と同じ手段を使って恵流を呼び戻そうとしているらしい。
諦めの悪い男だった。
「おいおい、いくらなんでもしつこすぎだろあの男……」
「安心して。そろそろ店長が出てくると思うから」
さすがに迷惑行為が過ぎるためか、恵流の言うとおりオフィスから店長らしき男性が出てきた。
ギョッとした。
肌の浅黒い、スキンヘッドの巨漢だった。
丸太のように太い腕は筋肉の塊で血管が浮き出ており、彫りの深い顔には深々とした切り傷がある。
ファミレスの店長というよりは、映画に出てくるヒットマンのようだった。
ズシン、と足音が聞こえそうな歩調で店長はナンパ男の席に向かった。
「お客様。ご注文はお決まりですか?」
「ひっ!? え、ええと、その……」
二メートルは余裕で越えていそうな体格から放たれる威圧に、ナンパ男はすっかり気圧されていた。
「他のお客様のご迷惑になりますので、ご用意がない場合はベルを押すのはご遠慮くださいませ」
「し、失礼しました~!」
店長のあまりの凄みに、ナンパ男は情けない声を上げて退店していった。
その様子を見届けると、店長は恵流のほうに目をやり……
「……エルちゃ~ん! ごめんなさいね~。フォロー入るの遅れちゃったわ~ん!」
先ほどとは打って変わって、甘ったるい猫撫で声で喋りだした。
店長はオネエ系だった。
「大丈夫で~す、こちらのイケメンさんにも助けてもらったので」
「あらん。本当にイケメンじゃないの♡ あたしの好みかも♡」
「ぴえっ」
「冗談よ~♡ どうぞごゆっくりなさってね~♡」
腰をクネクネとさせながら店長はオフィスに戻っていった。
「こ、個性的な店長だな」
「でもいい人だよ。それに、オネエだから変な噂流されることもないし」
「変な噂?」
「……バイト先の店長が男の人だとやたらと親切にされたり贔屓にされたりして、女の従業員さんから『媚び売ってる』って言われちゃうんだよね。そういうところだと、バイト長続きしないんだ」
笑顔だったが、辛そうに恵流は語る。
先ほどのナンパといい、その恵まれた容姿のせいで、どうも男女トラブルが起きやすいようだ。
「なんでかなー。学園でもそうだし、そういう星のもとにいるのかねー、あーしってば」
「……大変みたいだな」
「まあ、衣装代を稼ぐためだしね。じゃんじゃん稼いで、じゃんじゃん服を作らないと」
服飾科である恵流は月にいくつもの材料を買って、衣装を仕立てているという。
学園側からいくつかの材料は提供されるようだが、拘り抜きたい恵流は様々な生地を集めて、毎度試行錯誤しているらしい。
「好きで選んだ道だからさ、いくらでも頑張れるよ。へっちゃらへっちゃら♪」
恵流はすぐに明るい顔に戻った。
「じゃあ、そろそろ仕事に戻るね」
「ああ、がんばってな」
注文が届くまで俺は恵流の仕事ぶりを見た。
丁寧な接客で、思いやり深い彼女の性格が、仕事面でもしっかりと発揮されていた。
やっぱり恵流は凄いな。
蘭胤荘では大家の未遥さんの代わりに掃除を積極的におこない、金曜日には賄いを作ってくれ、気づくと何かと他人の面倒を見てくれる恵流。
その上、バイトまでしながら、学園に通っている。
とてもではないが、自分の時間なんて確保できそうにない。
それでも恵流が毎日、衣装の制作に打ち込んでいるのを知っている。
壁の薄い寮なのだ。ミシンの音はよく聞こえてくる。
隙間の時間を見つけては、蘭胤荘のあちこちでラフデザインをノートに描いているところも、何度か見かけたことがある。
その目は、いつも真剣だった。
俺はもはや『恵流が男をとっかえて遊んでいるビッチ』などという、くだらない噂は信じていなかった。
帰ったらすぐに絵に取りかかろう。
恵流を見習って、俺も真剣に絵と向き合う気持ちを強めた。
* * *
「火村さん! 受賞おめでとう!」
「新作、絶対に見に行くね!」
「本当に凄いよね! これでもう受賞何作目!?」
「さすが天才絵描き!」
「どうもありがとう。今回の作品は私も特にお気に入りだから、この結果は喜ばしいわ」
教室で女子たちが璃里耶を囲って賛辞の言葉を贈っている。
かの天才少女は、またしても絵のコンクールで何かの賞を取ったようだ。
詳しいことは璃里耶に聞いていない。なぜだが俺には教えてくれないのだ。
『私の作品にうつつを抜かしている暇があるのなら、自分の作品に専念なさい』
そう言って、新作の絵から俺を遠ざけようとする。
まるで「あなたはいつまでアマチュアでいるつもりなの?」と責めるように。
璃里耶は相変わらず、俺の絵のモデルとなってレッスンをしてくれている。
しかし俺が不調になっていることで、本人以上に璃里耶が焦りを見せていた。
『……少し時間をちょうだい。いまのあなたにとって必要な刺激は何か。それを考えるから』
もはや、同じようなレッスンでは俺の絵に変化が起きることはない。
それを悟った璃里耶は、新しいレッスンを模索しているようだった。
……自らの新作と平行しながら。
「いや~、相変わらず火村さん凄いね~。同い年なのにこの差はいったい何だろうね~」
俺の隣で木ノ下が、感心の眼差しを璃里耶に向ける。
「やっぱり絵の向き合い方が違うのかな~? きっと私たちなんかじゃ想像もできないくらい長い時間を、絵に費やしてきたんだろうね~」
「……そうだろな」
木ノ下の予想は正しい。
璃里耶はまさしく絵を描くために生まれてきたような少女だ。
絵を描くことは、もはや璃里耶にとっては呼吸のようなものなのだろう。
璃里耶と同じ屋根の下で暮らすようになって、知らない一面を知るようになって、お互いに遠慮のないやり取りができるようになって、前よりもずっと近しい存在になったかのように思えていた。
……でも、やっぱり遠い。
歴然とした実力差を改めて突きつけられて、見えない大きな壁を感じた。
俺がこうして燻っている間も、璃里耶はどんどん先に進んでいく。
俺の絵がネットでどれだけ評価を集めても……璃里耶はそのさらに上を行く。
ふと、璃里耶と目が合った。
感情の読めない虚ろな瞳が向けられたかと思うと、すぐに逸らされた。
──私が見たいのは、そんな気弱な瞳を浮かべたあなたじゃない。
視線で、そう言われたような気がした。
「空野くん、どうしたの? なんか、怖い顔してるよ?」
「いや……俺たちも、頑張らないとなって思って……」
「そうだね。私たちなりのペースで、頑張らないとだね」
そうだ。人には人のペースがある。
俺も、俺なりのペースで進んでいけば、いつかはきっと……。
「でも、一番大事なのは絵を描くことを楽しむことだよね。次は何を描こうかな~」
木ノ下の何気ない言葉が、胸に鋭く突き刺さった。
絵を描くことを楽しむ……いまの俺は、楽しめているだろうか?
* * *
俺は学園に帰るとすぐに机に向かって絵を描いた。
特殊な角度からモチーフを描いたり、一見相性の悪そうな物同士を敢えて組み合わせてみたり、現実ならありえない形状に変異させたりと、あらゆる画法を試してみた。
しかし、どれも小手先なものにしかならなかった。
やはり、何かが足りない気がした。
その足りないものが、俺にはわからなかった。
「ちょっと休憩するか」
コーヒーを淹れるべく、一階に降りた。
玄関の扉が開く。誰かが帰ってきたようだ。
おかえり、と言おうとする俺の口は驚きで止まった。
ズブ濡れの恵流がそこにいた。外は晴れているにもかかわらず。
「ど、どうしたんだよ、その格好」
「あっ、カケルン。いやー、手を洗おうとしたらさー、水道が壊れてたみたいでさー。水が思いっきりブシャーってかかっちゃって。あはは、参ったねー」
恵流は照れくさそうに頭を掻いた。
いったいどんな壊れ方だったのかは知らないが、相当な量の水を浴びたようだ。
水の噴射を浴びたというより……ひっくり返ったバケツを頭から被ったような濡れ方だった。
……嫌な想像が頭の中に巡った。
昔、俺にも似たようなことがあった。
そのときも、いまの恵流のように全身がびしょ濡れになって……。
「あはは……そんなにジッと見られると恥ずかしいっす」
「あっ……ご、ごめん!」
恵流は普段ブレザーを身につけず、上着は白いブラウスだけだった。
水に濡れたおかげで白い生地は透けており、黒い下着が見えてしまっている。
恵流が顔を赤くして胸元を隠したので、咄嗟に目を逸らした。
「とりあえず着替えなきゃ。この後、すぐにバイトだからさ」
「え? おいおい、まず軽くシャワー浴びて体温めたほうがいいぞ。風邪ひくぞ?」
「平気へいき♪ タオルで拭けばなんともないよ」
そう言って恵流はすぐに自室に入り、間もなくして私服姿で出てきた。
「じゃあバイト行ってくるねん」
「……本当にいいのか? 事情話せば、少しは遅れてもいいんじゃ……」
「向こうに迷惑かけちゃうから。それに……遅刻で給料減らしたくないんだ」
そう言われてしまっては強く呼び止めることができなかった。
「心配してくれてありがとね? でも、あーし大丈夫だから……」
恵流は快活に笑った。
しかし、俺には無理に笑っているようにしか見えなかった。
その翌日、恵流がなかなか起きてこなかったので、未遥さんが様子を見に行った。
「……風邪だね。私が看病するから、アンタたちは学園行きな」
やはり、恵流は体調を崩した。
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