第三章 聖女の秘密
新学期開始
璃里耶をモデルにしたエッチなイラストを投稿してから数日。
俺は蘭胤荘での暮らしに徐々に順応していった。
細かな転居手続きも済ませ、両親にも事情を説明し、必要なものを実家から送ってもらった。
仕送りも前倒しで口座に入れてもらえたので、食費の問題は何とか解決した。
璃里耶からプレゼントしてもらった机と椅子も届き、絵を描く上での環境も整った。
俺は宣言通り健全な絵に路線を戻し、できる限り日間投稿をした。
フォロワーが増えた影響で最初のうちは、それなりの閲覧数を稼げていたが……やはりエロスをテーマにしたあの一枚ほど注目されることはなかった。
・悪くないけど物足りない
・なんというか……無味無臭?
・うまいけど、あのエッチなイラストほどのインパクトはないな
・できればあの女の子のイラストをまた描いてほしい
・あの絵に惹かれてフォローしたんだけどなぁ……
・後生です! またエッチなの描いてください!
・あんたはエロを描くべきだ!
コメント欄の反応も芳しくなく、それどころか璃里耶と同じようなことを言い始める輩まで出現した。
「なぜだ」
どれも気合いを入れ、情熱を注いで描いているというのに、求められているのはエロスをテーマにした絵ばかり。
せっかく増えたフォロワーも、徐々に減っていく始末である。
・エロ描かないなら、もういいや
・せっかく最推しの絵師見つけたと思ったのに、残念や
・というか、あのイラスト描いたの本当に同じ人?
・なんか他の絵と比べて、あの絵だけ浮いてるよな
・クオリティが明らかに違う
・人気欲しさにゴーストライター雇った説あるな
・運営に通報したほうが良さげ?
「ひえ」
ついには覆面絵師の存在を疑われ、冷や汗をかいた。
事実無根の罪だが、しかしヘタをしたら運営からアカウントの強制停止をされる可能性もある。
危機感に駆られた俺は、急遽イラスト作業配信を始めた。
非常に遺憾ではあったが、璃里耶をモデルにした二枚目のイラストを描くことにした。
いつもなら、ほぼ無人の視聴者数が、その日に限っては露骨にうなぎ登りした。
ラフから色づけまでの行程を大勢の視聴者に見せていくと無事に疑いは晴れた。
・俺は信じていたぞ
・他の作業配信と見比べてみましたが筆遣いやタッチの癖は同じですね
・同一人物と確認!
・疑ってごめん
・そしてやはりエッッッッッ!
・これだよ、これを求めていたんだよ!
・これからも楽しみにしています!
完成したイラストを投稿すると、またしても異様な勢いで脚光を浴びた。
近日に投稿した健全な絵と比べると、悲しいほどの格差があった。
俺は机に突っ伏した。
「ちくしょう……本当にエッチな絵しか注目されないじゃないか……」
違う。違うのだ。
自分は健全な絵で人気イラストレーターになりたいのだ。
こんなハレンチなイラストでプロになりたいわけではないのだ。
『諦めなさいカケル。あなたはエロスを描くべきなのよ。さあ、人気になりたいなら描きなさい。もっと刺激的なエロスを!』
思い悩むたび、頭の中で空想上の璃里耶が悪魔の囁きをしてくるようになった。
彼女の淫らなレッスンがよほど衝撃的だったためか、下着姿の幻影まで見えてしまう。
幻の璃里耶は豊満な乳房を押しつけ、耳元に向かって艶やかに言うのだ。
『ほら、描きなさい。エッチなおっぱいを。エッチなお尻を。エッチな太ももを』
ええい、黙れ。俺は貴様の思い通りにはならんぞ。
悪魔の誘惑を必死に振り払いながら、次の題材を考える。
よし、今度は王道のメカニックで勝負だ!
早速ラフを描き始めると……。
「そんな味気ない題材で描いちゃダメ。あなたが描くべきなのはエロス。描いて。エロスで描いて」
「……って幻じゃなくて本人かよ!?」
幻にしてはやたらと生々しいとは思っていたが、またしても部屋に勝手に入ってきた璃里耶が密着していた。
やはり下着姿で。
「ご覧なさい。またあなたのフォロワーがこんなにも増えているわ。やはり観念してエロスを描くべきなのよ。というわけで今日も私と絵のレッスンしましょ。取ってほしいポーズを指定して」
「出て行け変態が!」
「ひどいわ。あなたの輝かしい未来のために文字通りひと肌脱いでいるというのに、そんな言い方して」
「誰も頼んどらんわ! 連日下着姿で迫られるこっちの身にもなれ!」
最初のレッスン以来、璃里耶は隙を見ては俺の部屋で服を脱ぎ、エッチなイラストのモデルになろうとしてくる。「あなたの絵はまだまだ進化するはずよ」と言って、日に日に過激な下着やポーズを見せびらかす。
これを変態と呼ばずにしてなんと言おう。
「いい加減にしないと、いつか本気で襲うかもしれないぞ!? それでもいいのか!?」
「それであなたの絵がより上達するならどんとこいよ!」
「少しは躊躇えってんだよ!」
カケルがかつて憧れた天才少女の面影は、もはやそこにはなかった。
いまやエッチな絵を描くことを強制する脱衣魔と化してしまった。
本当にどうして、こんなことになってしまったのか。
「……ん?」
ふと、俺は扉のほうを見た。
璃里耶がちゃんと閉じなかったのか、扉には僅かな隙間があった。
……その隙間から、誰かの視線を感じた気がした。
……まただ。
ここ最近、誰かにずっと見られているような気配を感じる。
最初は璃里耶が尾行しているのだと思っていた。
しかし璃里耶はこの通り俺の部屋に居座り、勝手にセクシーポーズを取っている。
では、いまの視線はいったい誰の者なのか?
固唾を呑んで扉を開く。
そこには誰もいなかった。
いやな汗が流れた。
夏休みの特番でよく流れるような、おどろおどろしい音楽が頭の中で響いた。
「……なあ、璃里耶。この蘭胤荘ってただ古いってだけで、べつに曰くつきの物件じゃないんだよな?」
「曰くつき? どういうことかしら?」
「いや、だから……昔に事件があったとか、誰かが亡くなったとか……」
「ああ、幽霊が出るかどうか気にしているのね」
「やめろ! 口に出すな! 本当に出てきたらどうする!」
部屋の隅に畳んである布団の中に顔を突っ込んで震えた。
俺はホラーが大の苦手だ。
「あら、カケルったら。幽霊が怖いだなんて、かわいい一面もあったのね」
「苦手なもんは苦手なんだ!」
「まあ、そんなに怯えちゃって。怖いなら夜、一緒に寝てあげましょうか?」
「子ども扱いするな! そこまでビビリじゃないわい!」
と強がったものの、深夜に家鳴りなどがすると布団の中でビクビクと震えてしまう俺であった。
* * *
璃里耶に振り回される日常が続き、春休みはあっという間に終わった。
今日から新学期が始まる。
俺は早朝の六時に起床し、一階に降りて洗面所に向かった。
蘭胤荘から学園までは徒歩五分の距離なので、こんなに早く起きる必要もないのだが……なるべく一番乗りで洗面所を使うようにしていた。
女子たちの支度が想像以上に時間がかかるためだ。
璃里耶は朝にシャワーを浴びるし、水無瀬さんは時間をかけて歯を磨き、恵流に至っては一時間も使って髪をセットし、メイクをする。
蘭胤荘でただひとりの男子である俺としては、朝の洗面所は入りにくい状態となる。
その点、男子の支度などあっさりしたものだ。
顔を洗い、歯を磨き、ヒゲを剃り、髪を整えれば終わる。
洗面台は二台しかない。登校が始まる今日からは、特に慌ただしくなるだろう。
女子たちに心置きなく使ってもらうためにも、なるべく先に準備を終え、あとはのんびりと朝食を食べられるようにしようと思った。
ささっと洗面台ですべきことを終えると、制服に着替えた水無瀬さんがやってきた。
「あ……お、おはようございます、空野さん」
「おはよう、水無瀬さん。今日は早いんだね?」
「え、ええ。学園が始まる日ですから、なるべく時間に余裕を持とうと思いまして。そ、空野さんも相変わらず早起きですね」
「ま、まあね。早起きは三文の徳だから」
「そ、そうですか」
「……」
「……」
会話は止まった。
初顔合わせが気恥ずかしい形だったこともあって、やはり水無瀬さんとの間にはぎこちない空気が流れてしまう。
特に水無瀬さんはまだ尾を引いている様子で、俺となるべく目を合わせようとしない。
顔を真っ赤にしながら、もじもじとしている。
お互い忘れようと水無瀬さん自身が言っていたものの、やはりそう簡単に割り切れないようだ。
無理もない。水無瀬さんは育ちの良い、清楚なお嬢様なのだから。彼女の人生において、あんな汚物を見た経験は皆無だったことだろう。
俺としては蘭胤荘の数少ない常識人である水無瀬さんとはできれば親しくなっておきたいのだが、この調子では打ち解けるのは難しそうだった。
「じゃ、じゃあ、俺ダイニングで朝飯食ってくるね」
耐えがたい沈黙から抜けるため、俺は必要以上に明るい笑顔と声で洗面所を後にしようとした。
水無瀬さんもあまり寝起き姿をジロジロ見られたくはないだろう。
「あ、ま、待ってください、空野さん!」
しかし意外にも水無瀬さんは俺を呼び止めた。
「よ、よろしければ私が朝ご飯をご用意しましょうか? せっかく同じ時間に起きたわけですし」
「え?」
驚いた。
まさか水無瀬さんからそんな提案をされるとは。
「恵流さんと比べたら、大したものは作れませんけど……い、いかがですか?」
「えっと、じゃあ、お言葉に甘えようかな」
「は、はい! ではダイニングで少々お待ちください!」
水無瀬さんは嬉しそうに笑った。
もしかしたら彼女なりに気まずい関係を配慮して、歩み寄ってくれたのかもしれない。
どうやら完全に避けられているわけではないらしい。
安堵と同時に、胸が弾む。
まさかあの『聖女』の手料理が食べられるとは!
こんなの学園中の男子が悔し涙を流すほどの幸運ではないか。
浮き足立つ気持ちが態度に出ないように気をつけながらも、俺の頬は緩んでしまった。
* * *
蘭胤荘の冷蔵庫は共用であり、自分の食べ物には必ず名札を付けることになっている。
ただ牛乳やパンなどの消費期限が短い食材に関しては割り勘で分け合って、なるべく余らせないようにしていた。
俺はそこまで自炊が得意ではないので、毎朝トーストとホットミルクだけのシンプルなメニューで適当に済ませていた。
食べ盛りの男子としては物足りない朝食である。
しかし今日の朝は豪華になること間違いなしだ。
なにせ生粋のお嬢様の手料理である。良いものを食べて育った彼女なら、きっと庶民の俺には想像もつかないようなセレブっぽい朝食を出してくるかもしれない。
「お、おまたせしました」
水無瀬さんが出してきた朝食に目を見張る。
ある意味で、想像もつかないようなメニューだった。
トースト一枚。
しかも焦げる寸前でギリギリに救出されたような焼き加減のトースト。
……これが、手料理?
「あ、あの、水無瀬さん」
「こ、今回はうまく焼けました!」
「あ、そうなんだ……」
目をキラキラさせながらご機嫌になっている水無瀬さんを見て、言葉を呑み込んだ。
……今回は、ということは普段焦がしているということだろうか?
「それと紅茶です!」
続いて、マグカップに入ったティーパックの紅茶を差し出される。
……入れる時間が長すぎたためか、底が見えないくらい濃い色になっていた。
「はじめてお湯を噴き出す前に沸かすことができました!」
「あ、良かったね……」
またしても満ち足りた顔ではしゃぐ水無瀬さんに、やはり何も言えなかった。
「でも……スクランブルエッグは焦がしてしまいました。はうぅ」
打って変わって、失敗した料理を手に涙目を浮かべる水無瀬さん。
……それ、スクランブルエッグだったのか。
「こちらは私が責任を持って食べます。では、いただきます」
「あ、いただきます……」
トーストをかじる。
……少し苦い。
紅茶を飲む。
……渋い。しかも、ぬるい。
さしていつもと変わらない朝食のメニュー。
ヘタをしたら俺が用意したほうが、まだおいしいかもしれない。
清らかな少女は料理上手……というイメージが勝手に先行していたようだ。
どうやら水無瀬さんは本当に生粋のお嬢様らしい。
料理をしたことがないタイプのお嬢様だ。
思えば蘭胤荘に来て、賄い以外で水無瀬さんと食事の時間が被ることはあまりなかった。
彼女が台所で調理するところを見るのは、これが初めてである。
ひと目でも水無瀬さんの料理の腕を見る機会があれば、この事態は避けられたかもしれない。
窓から差し込む眩い日の出と異なり、俺たちは沈んだ面持ちで朝食を食べた。
「私、蘭胤荘に暮らしてから思い知りました。ばあやがよく作ってくれたスクランブルエッグは……神業のごとき技術で焼かれた奇跡のようにおいしい料理だったのだと」
「そっか。気づけて良かったね」
「はい。食材を大事にすることも覚えました」
「そっか。良い勉強になったね」
「ええ。本当に」
爽やかな朝とは程遠い時間が過ぎた。
「ふわぁ~、おは~……って、何このどんよりとした空気! なぜに二人とも朝からさげぽよなん!?」
しばらくしてダイニングに入ってきた恵流が、俺たちの粗末な朝食を見かねてフレンチトーストを作ってくれた。
最高においしかった。
恵流を見習って少し料理を覚えるか、と密かに誓った。
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