第二章 ファーストレッスン
まず服を脱ぎます
長いホームレス生活は思っていた以上に肉体に負担を与えていたらしい。
雨風をしのげる部屋の中で、温かい布団にくるまって眠るだけで、嘘のように疲労が回復していた。
そして体が本能的に質の良い睡眠を求めていたのか、目覚めたのは午前の十一時だった。
「嘘だろ」
休日に二度寝して遅く起きることはしょっちゅうだが、さすがに一度も目覚めることもなく、こんな時間まで眠るのは初めてだった。
とりあえず顔を洗うべく、一階に降りた。
「あ、カケルンだー。おそよー」
私服姿の恵流と出くわす。
肩とおへそを大胆にさらした薄着姿で、俺は目のやり場に困りながら「おはよう」と言った。
「よっぽど疲れてたみたいだねー。よく眠れたー?」
「あ、ああ、おかげさまで」
「朝ご飯、ラップしてテーブルの上に置いてあるから、良かったら食べてねー」
「え? あ、ありがとう。……悪いな、昨日からご馳走になっちゃって」
「気にしない気にしなーい。いまお金ないんでしょ? 蘭胤荘は助け合いだから、素直に甘えてくださいなー」
「正直、助かる。来月になったら、ちゃんと食費返すから」
「律儀だねーカケルンはー。じゃあ、あーしこれからバイトだから」
「バイト?」
「そっ。あーし、服飾科だからさ。衣装代とかめーっちゃかかるわけ。もちろんお洒落も女子として、ちゃんとしないといけないしー。お金がいくらあっても足りないんだなーコレがー」
「……本当に悪いな。なるべく早く、お礼するから」
「あ、こっちこそごめんやでー。催促したみたいになっちって。本当に気にしないでねー。あーし、人のお世話するのめっちゃ好きだからさー。趣味みたいなもんだよん」
俺に引け目を与えないためか、そんなフォローを入れながら恵流は笑った。
ギャルである恵流に最初は苦手意識をいだいていたが、こんなにも面倒見が良く、気遣いもできる彼女を見ていると、認識を改める必要があるようだ。
「偉いな、あんた。学園に通いながら、家事とか、大家の仕事かも代わりにやって、バイトまでしてるなんて。俺、尊敬するよ」
「え? や、やだー。カケルン、なんすか急にー。褒めすぎっしょー。照れちゃうんですけどー?」
恵流はこそばゆそうに顔を赤くした。
意外にも初心な乙女のような反応を見せる恵流を見て、不覚にも「かわいい」と感じた。
「あー、やばー。照れくさくて体あつー。外の空気浴びよっとー」
はにかみながら恵流が玄関の扉を開けると、一台のトラックが蘭胤荘の前に止まっていた。
「どうもご苦労様。後は自分たちでやりますので」
トラックの運転手にそう声をかけているのは、璃里耶だった。
璃里耶の周りには、何やら複数のダンボールがあった。
「あれー? リリヤン何してんのー?」
「あら、恵流。見ての通り、引っ越し作業よ。カケルの荷物を運んでもらったの」
「……は?」
あんぐりと口を開けた。
荷物とは、まさか男子寮に置いてきた荷物のことだろうか。
なぜ本人も知らない引っ越し作業が勝手に開始されているのか。
「お、おい、璃里耶! どういうことだコレは!?」
「カケル、ようやく起きたのね。あなたの部屋にこれ運ぶから、手伝ってちょうだい」
「いやいや! だから何でお前がそんなことを!?」
「だって物がないと不便でしょ? 私が急遽、引っ越し業者に頼んで、あなたの寮部屋から私物を運んでもらったの。感謝なさい」
「い、いや、そうは言ってもだな……」
必要最低限のものはカバンに押し込み、後はもう勝手に処分してくれと思っていたが……まさか男子寮に置いた私物がすべてここに集まるとは思っていなかった。
「絵描きにとってまず大事なのは作業環境を整えることよ。あの部屋のままじゃ、とても良い絵なんて描けないわ。後日に新品の机と椅子も届く手筈になってるわ。私からの引っ越し祝いだから、引っ越し費用を含め、お代は結構よ」
「なっ! おいおい、そこまでしてもらう必要は……」
「これもすべて、あなたの絵のためよ」
璃里耶の目は本気だった。
あなたの絵には、それだけのことをする価値があると言わんばかりに。
「さあ、わかったら、さっさと運ぶわよ」
璃里耶はダンボールのひとつを抱えて、さっそく蘭胤荘の中に運んでいった。
「あーしも手伝ってあげたいけど、バイトだからごめんねー?」
恵流が申し訳なさそうにウインクをしながら手を合わす。
「あ、ああ、気にしないでくれ。バイト、頑張ってな?」
「うん! 夕方には帰るから。お夕飯、今日も作ってあげるからね」
「え? いやいや、昨日のすき焼きで充分だって」
「遠慮しなさんな。カケルンの好きなもの、ちゃんと用意してあげたいし。そゆわけだから、連絡先交換しておこ? 好きな食べ物、あとでメッセで送っておいてね? よろー」
「お、おう」
成り行きで、恵流と連絡先を交換する。
恵流はニコニコと手を振りながら、バイト先へ向かった。
「恵流は相変わらず面倒見がいいわね」
別のダンボールを取りに戻ってきた璃里耶がそう言って微笑む。
「いや、なんていうか、彼女、お人好しすぎないか?」
「困ってる人を放っておけないのよ。私も恵流にはよく助けられているわ。良い子よ、本当に。ただ……そのせいで、損しているところもあるけれど。品のない、噂を流されたりね」
璃里耶の顔に、かすかな怒りが滲む。
「……カケルはどう思う? 恵流があなたにしていること、男に媚びを売っているように見える?」
「……いや」
俺は首を横に振った。
人によっては恵流の行動は思わせぶりなものに見えたり、男に良い顔をしていると勘違いされてしまうかもしれない。
だが、俺はそうは思わなかった。
まだ昨日からの付き合いでしかないが……風見恵流は、ただ本当に優しいのだろう。
「人に媚びを売るようなやつは、結局は自分のことしか見えてない。そういう人はたぶん……あんなにも気遣いはできないよ」
昨日の夕飯でも、恵流は未遥さんのコップが減っていたらお酒をついだり、俺のおかわりのご飯を盛ってくれたり、ずっと人の面倒を見ていた。
酔い潰れた未遥さんを部屋に運んだのも、テーブルを拭いたのも、洗い物をしたのも恵流だった。
そこに媚び売り特有のわざとらしさはなく、とても自然体に見えた。
あれがきっと彼女の素なのだろう。
「良い人なんだな、恵流って」
「ええ。自慢の友人よ」
俺の言葉に満足したのか、璃里耶は誇らしげに笑った。
「カケル、荷物を運ぶ前に先に朝食を食べてらっしゃい。恵流がせっかく作ってくれたんだから、味わって食べなさい」
「そうさせてもらう」
恵流の作った朝食は、やはり絶品だった。
* * *
男子寮に残した私物はもともと少なめだったので、璃里耶の手伝いもあり、荷解きはすぐに終わった。
「あなたの荷物、画集がほとんどね」
「ああ、美術館に行くたびに、つい買っちゃうんだ」
「いいことだわ。様々な絵に触れることで感性は磨かれる。一流のビジネスマンたちも定期的に美術館に通うことで、インスピレーションを刺激しているそうよ」
璃里耶は宝物を扱うように画集を一箇所にまとめた。
「失念していたわ。本棚も必要だったわね。いまから良い物を見繕うわ」
「いや、さすがにそれは親に言って用意してもらうから」
当たり前のようにスマートフォンで家具を注文しようとする璃里耶を慌てて止める。
「いろいろしてくれるのはありがたいけど……頼む、今後はひと言、相談してくれ。自分のことで勝手にお金が発生してるのは怖い」
「そうなの? べつに私は構わないのだけれど。お小遣いの使い道なんて、食費と服と画材以外にないし」
「あのな~、お小遣いは大事にしろ」
「私が稼いだお金なんだし、近い道は自由に選んでもいいと思うけど?」
「稼いだお金? 璃里耶もバイトしてるのか?」
「いいえ。賞金よ。いろんなコンクールの」
「……そうかよ」
レベルの違う話だ。
どれほどの規模のコンクールかは知らないが、きっとその辺の高校生どころか、ヘタしたら社会人よりも大金を持っている可能性がある。
「まあ、カケルが嫌なら、今後は控えるわ。さて……荷解きも終わったことだし、さっそく始めましょうか」
「始める? 何を?」
「もちろん、絵のレッスンよ」
言うなり、璃里耶はとつぜんカーテンを閉めた。
まだ日が昇っているにもかかわらず。
「お、おい、何してんだ? 薄暗いじゃないか」
「私だって、道行く誰彼構わずに見せるのは恥ずかしいわ」
「……なんの話だ?」
「さすがに公園ではできなかったことよ」
「……え?」
目を見張った。
目の前で起きていることが、現実とは思えなかった。
あの璃里耶が。
ずっと憧れていた天才絵描きである璃里耶が。
とつぜん、服を脱ぎだした。
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