あなたは、何のために絵を描くの?
好きな部屋を使っていい。
そう言われたので、管理人室を含めた十個の部屋のうち、二階にある二〇一号室を使うことにした。
女子たちの部屋は一階に集中していた。
璃里耶は性差を意識しなくていいと言っていたが、やはり自室はなるべく女子と距離を取った場所にすべきだと思った。
「はい、これが二〇一号室の鍵。まあ、部屋の鍵を使う人はあんまりいないけど、一応ね」
璃里耶に部屋の鍵を渡され、二階へ案内される。
本来なら大家である未遥さんがやるべき仕事だが、当の本人は酔い潰れて眠ってしまった。
あの人はいったい、いつ仕事をしているのだろう。
「階段の手すりは古くなってるから、あんまり体重かけないよう気をつけてね」
「ああ、わか……わ、わかった」
「駆け足も危ないわよ。いつ底が抜けてもおかしくないんだから」
「お、おう」
二階へ続く階段を璃里耶が先に昇ったために、下からだと短いスカートの中身が見えそうだったので、俺は慌てて駆け上がった。
ギシギシと、不安になるような軋みが起こる。
確かに、いつ壊れてもおかしくなさそうな階段だった。
深夜にトイレに行くときは、慎重に音を立てないように気遣う必要がありそうだ。
女子たちが二階を使おうとしない理由がわかった気がした。
二〇一号室は階段を上がったすぐ近くにあった。
「空き部屋だけど、掃除や空気の入れ換えは恵流が休日にやってくれてるから、埃とかは溜まっていないと思うわ」
「……それって、普通大家の仕事じゃないのか?」
「だと思うけどね。でも恵流が全部やっちゃうのよ。『好きでやってるから』って本人も言うし、姉さんもそれに甘えちゃって」
未遥さんは本当に形だけの大家らしい。
俺の中のTier表で未遥さんは最下層に落ちた。
「どうぞ。ここが今日からカケルの部屋よ」
璃里耶が二〇一号室の扉を開け、明かりを点ける。
六畳半ほどの和室だった。男子寮の部屋と比べると狭いが、一人で使うには充分な広さだった。
「とりあえず布団を用意しましょうか。姉さんの部屋に余った布団があったと思うから持ってくるわ。あとこれ、Wi-Fiのパスワード書いたメモね」
「おう、助かる」
璃里耶からパスワードが書かれたメモを受け取ると、真っ先にスマートフォンと男子寮から持ってきたノートパソコンをカバンから取り出す。
電源コンセントは幸い部屋に二箇所あった。
長いホームレス生活でろくに充電できず、とうに電源は切れているお荷物でしかなかったが、電気のある部屋に来れたことで、ようやく息を引き返す。
ふたつの機器を起動させると、すぐにネットワーク設定を済ませた。
ネットがなくとも人は死にはしないが、しかし途轍もなく生活が不便になり、何より退屈になることをホームレス生活で学んだ。
日々チェックしている動画サイトやお気に入りの絵師の新作投稿がチェックできないのは本当に苦痛だった。
当たり前のようにネットが使えるようになって、ようやく文明社会に戻れたことを実感する。
メッセージが数件ほどあった。
送り主は、ほぼ同じ人物だった。クラスで一緒に風紀委員をやっていた
既読がつかないため、何か事故があったのか心配している様子だった。
申し訳なく思いながら、細かい事情は伏せて「しばらくスマホとネットが使えない状態だった」とだけ伝えた。
しばらくすると、返事が来た。
『もう! 心配したんだからね! 行きたいって言ってた美術館のチケット貰ったから、一緒にどうかな思ってたんだけど……もう期限切れちゃったよ?』
『すまん。また今度誘ってくれ』
『ん。じゃあ、新学期にね。また同じクラスになれるといいね』
やり取りを終えると、他に重要そうなメッセージがないか確認する。
特になさそうだったので、いつも利用しているイラスト投稿サイトを開いた。
そちらに新規メッセージはなかった。ブックマーク通知も、コメントが来たらしき履歴もない。
相も変わらず、投稿したイラストは見向きもされていないようだった。
「はぁ~。いったい、いつになったら人気イラストレーターになれるやら……」
「心配いらないわ。私がすぐに閲覧数もフォロワーも増やしてあげるから」
ギョッと振り返ると、布団を一式持ってきた璃里耶が、スマートフォンの中を覗いていた。
慌てて画面を消す。
「あのさ、璃里耶。ここを紹介してくれたことは本当に感謝してる。でも……イラストに関しては放っておいてくれ。こればっかりは俺個人の問題だ」
「私が何のために、あなたをここに呼んだと思ってるの? あなたが本来持つ才能を開花させるためよ」
「……何で、お前がそこまでする必要があるんだ?」
「言ったでしょ? 我慢ならないの。せっかくの才能を潰すことが。それを見過ごすなんて、私にはできない。だから青花も、恵流も、ここに連れてきたのよ」
「なに?」
「あのまま女子寮に暮らしていたら、彼女たちの素晴らしい才能は潰れていた。そんなの、私が絶対に許さない」
才能……若くして天才画家である璃里耶を惹きつける何かを、あの二人は持っているということなのか。
「今夜はもう遅いから、話はまた後日にしましょ。ただ……これだけは伝えておくわ」
璃里耶はとつぜん俺の頬にそっと両手を添え、目線を合わせてきた。
「なっ」
ゾッとするほどの美貌が、間近まで迫ってくる。
「忘れないでカケル。あなたもまた、私を魅了する才能を秘めた天才であることを」
まっすぐな眼差しが向けられる。
まるで、いまにもキスでもしそうな体勢だ。
「……やっぱり、素敵。あなたの目──さんに、そっくりだわ」
「え?」
いま、なんて言ったのか。
と聞く前に璃里耶は背を向けた。
「それじゃあ、おやすみなさい。良い夢を、カケル」
そう言い残して、璃里耶はドアを閉めた。
まだ早鐘を打つ胸元に手を添えて、腰を降ろす。
いったい何だったのだろう、いまの璃里耶の顔は。
まるで、誰かを懐かしむような、甘えたがるような、切なげな顔だった。
……母さん。と言ったような気がした。
璃里耶の母。北欧系の女性だったはずだ。
その人と自分が似ている? どういうことだろう。
天才の考えることは、凡人である自分にはよくわからない。
……しかし、璃里耶は言った。あなたも天才だと。
俺が天才? バカバカしい。ろくにフォロワーも増やせない絵描きのどこが天才だと言うのか。
『いま描いてる題材のままでは、一生花開くことはないわ』
璃里耶の言葉が思い出される。
彼女の言い分に従うならば、自分はただ武器の活かし方を誤っているだけだということになる。
そして、その武器とは……。
『あなたは──エロスをテーマに描くべきよ』
明かりを消し、布団を敷いて毛布の中に潜り込んだ。
変なことを考えてはいけない。
自分は健全な絵を描くと決めたはずだ。
今日はもう寝てしまおう。妙な気分が起きる前に。
久しぶりに柔らかな布団に横たわったためか、眠りはすぐに訪れた。
* * *
璃里耶の絵をはじめて見たときは、本当に息を呑んだ。
油彩画の授業だった。
題材は自由だったので、俺は動物をメインに描いていた。
そこそこの自信作だったので、講評の時間が楽しみだった。
休み時間になると、璃里耶の周りに人集りができていた。
気になって見に行くと、他の生徒と同様に目を奪われた。
格が違う、と瞬時に才能の差に圧倒された。
いまにも、その絵の中に引きずり込まれてしまいそうだと錯覚するほどに、凄まじい迫力があった。
だが何よりも驚いたのは、璃里耶の描く姿だった。
周りにたくさんのギャラリーがいるにもかかわらず、璃里耶はまったく動じることなく、筆を動かしていた。
……いや。そもそも、周りの人間など見えていなかったのだ。
休み時間だろうと関係なく筆を止めず描き続けていたのが、その証拠だ。
あの瞬間、璃里耶の意識は、完全に異なる次元に飛んでいた。
彼女は、絵を描いているのではない。一個の世界を生み出しているのだ。
平面でしかないはずのキャンバスの上に、新たな命が芽吹いていた。
奇跡の瞬間に、立ち会っているようだった。
俺は呆然としながら自分の席に戻った。
目の前にある自分の絵を見て、情けなさで泣きそうになった。
何が自信作か。この程度のものを、お前は作品と言い張るつもりか?
あまりにも衝撃的な絵を見てしまったせいで、自分の絵がもう子どものラクガキにしか見えなかった。
本物だ。彼女こそ、本当の絵描きだ。
本気でイラストレーターを目指すのなら、自分もあれほどの気迫で絵に臨むべきではないのか。
対面側に座る璃里耶を、何かに縋るように見ていた。
キャンバス越しで、璃里耶と目が合った。
しばし、彼女と見つめ合った。
いや、そう思っていたのは俺だけで、璃里耶はまったく別のものを見ていたかもしれない。
三次元のものではなく、彼女の頭の中にある世界を。
凡人の男など、視界にすら入っていなかったかもしれない。
だが……俺は感じた。ただの錯覚かもしれないが、璃里耶の青い瞳に訴えかけられたような気がした。
──あなたは、何のために絵を描くの? と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます