新しい居場所


 ダイニングには極上の香りが漂っていた。

 夢にまで見た和牛のすき焼き鍋が目の前にあった。


「はーい、お待たせー。たっぷりあるから、たんと召し上がれー」


 エプロンを身につけた恵流が快活に言う。

 意外にも調理を担当したのは恵流だった。料理好きの住人とは彼女のことのようだ。

 家事が好き、と言うだけあって、できあがったすき焼きはとてもおいしそうだった。

 ゴクリ、と激しく喉が鳴る。


「では、新たな入居人の歓迎会も兼ねまして、乾杯」


 璃里耶が音頭を取り、グラスをくっつける。

 乾杯を終えると、早速全員が肉を取った。

 溶き卵に和牛をつけ、物凄い勢いでかっくらう。


「……う、うめぇ」


 たちまち脳が膨れ上がるような多幸感が生じる。

 こんなにもうまい肉は人生で初めてだった。


「お肉はまだたくさんありますから、どうか遠慮せず召し上がってくださいね」


 水無瀬さんが微笑みながら言う。

 和牛は水無瀬さんの実家から送られてきたものらしい。

 やはり彼女の家は相当なお金持ちのようだ。


「ほ、本当にいいのか、水無瀬さん?」

「ひう。は、はい。もちろんです」


 話しかけると、水無瀬さんは怯えるように赤くなった顔を逸らした。

 やはり脱衣所での衝撃的な出会いを引きずっているらしい。

 俺はまた少し気分が落ち込んだ。

 ……まあいい。いまはとにかく和牛を堪能すべきだ。

 また肉を咥え、白米と一緒に食べる。


「うまい……うますぎる!」


 温かい料理がこんなにも胃に沁みるとは知らなかった。

 この瞬間、俺は人生で最も生きている実感を覚えていた。

 はしたないとわかっていながらも、ガツガツと器の中を瞬く間に空にしてしまう。


「おうー、カケルン、いい食べっぷりだねー。ご飯おかわりするー?」

「おかわり!」

「りょー」


 恵流にご飯のおかわりをよそってもらい、再び勢いよく食べる。


「嬉しいなー、そんなに喜んでもらえて。そんなにあーしのすき焼きおいしい?」

「ああ、うまい! こんなにうまい飯は生まれてはじめてだ!」


 冗談抜きでそう感じる美味な食事だった。


「あ、あははー。そう直球で言われちゃうと照れちゃうなー。あっ、ハルちゃん。お酒つぐよー」

「おう! つげつげー! ゴクゴク! プハー! やっぱりすき焼きには純米酒だわー!!」


 さっきまで日本酒の一升弁を飲んでいたのに、もう別のお酒を開けている大家さん。

 彼女の周りにはビールやワインの空き瓶が転がっていた。

 いったい、一日にどれだけ飲む気なのか。


「かーっ! 体熱くなってきた! 上脱いじゃおっと!」

「ぶっ!」


 アルコールによって体中を桃色に染めた大家さんはタンクトップをずり上げる。

 ノーブラの下乳がたぷんと弾んだ。


「だだだ、ダメです未遥さん! 殿方の前なんですよー!?」


 いまにも上半身裸になろうとする大家さんを、水無瀬さんが慌てて止める。


「もう女性だけの環境じゃないんですから、しっかり慎みを持ってください!」

「えー? それ、せっちんが言うの~? ウケる~」

「……恵流さん?」

「あ、すんません……」


 大家さんを注意する水無瀬さんを見て、さすがは育ちの良いお嬢様だ、と感心した。

 何やら一瞬、恵流に対して圧のある笑顔を浮かべた気がするが……どうやら、この蘭胤荘で真っ当な常識人は水無瀬さんだけのようだ。

 ここで暮らす以上、心の安寧のためにも彼女とはできれば打ち解けておきたいが……。


「……ん?」


 ふと、思った。

 水無瀬さんは「もう女性だけの環境じゃないんですから」と言った。

 言われてみれば、この寮には俺以外の男性が見当たらない。

 風呂場の専用ボトルの数を見るに、他の住居人がいる様子もない。

 ということは……。


「なあ、璃里耶」

「なにかしら?」

「もしかして……この蘭胤荘って、女子しかいないのか?」

「そうね。カケルが初の男子入居者よ」


 俺は席を立った。


「すみません。俺、やっぱりここに住むのやめときます」

「あら? なぜかしら?」

「だって! まずいだろ! 女子だらけの環境で男一人が暮らすとか!」

「べつに男子禁制の女子寮ってわけじゃないんだから、気にしなくていいじゃない」

「俺が気にするんだ!」


 そもそも、男が一人もいないのならば、ここは女子寮と変わらない。

 さっきの風呂場のようなアクシデントが頻発したら、とてもではないが穏やかに暮らせそうにない。


「だいたい、璃里耶はともかく、他の二人が納得しないんじゃ……」

「え? あーし別に気にしないよー? カケルン、誠実で良い人そうだしー」

「なっ」


 恵流はけろりと言った。

 確かに彼女は最初から友好的だった。


「てか脱衣所でも言ったけど、リリヤンが連れてきた時点で、あーしは納得してるしー」

「わ、私も、璃里耶さんが認めた人なら、大丈夫だって信じてます」


 恵流に続いて、水無瀬さんが控えめに言う。

 大家さんといい、彼女たちのこの璃里耶への強い信頼は、いったい何なのだろう。


「ほら、この通り、誰も気にしてないわ。まあ、入浴中の札は『男子用』と『女子用』を用意する必要があるとは思うけど、それ以外には関しては別に性差を意識しなくてもいいと思うわ」

「うんうん。気軽にあーしの部屋に遊びに来ていいからね-」


 璃里耶と恵流は、警戒心のカケラもなく、そんなことを言う。


「わ、私はその……で、できれば部屋に来るのはご遠慮ください」


 やはり水無瀬さんだけはマトモなことを言ってくれて、俺は安心した。

 若干、距離を置かれている気がして胸が痛んだが。


「大家である私が言うことは、ただひとつよ」


 酔っ払っていたはずの大家さんが急に真剣な声音を出し始めたので、思わず姿勢を正す。

 大家さんはカッと目を見開いた


「避妊はしっかりしなさいよ?」

「それが必要になるようなこと、そもそも起きませんから!」

「えー? わかんないでしょー? 状況とかムード次第ではあっさりと朝チュンに……」

「黙れよ酔っ払い!」


 目上の相手に対して、始めて暴言を吐いた。


「カケル。ここにいるのは、皆があなたと同じような理由で入居しているの。だから、相通ずるものはきっとあるはずよ」

「え?」


 璃里耶の言葉に、二人の少女たちを見る。

 水無瀬さんは俯き、恵流はばつが悪そうに頭を掻いた。


「わ、私はその……相部屋生活がどうも慣れなくて……そうしたら、璃里耶さんが声をかけてくれて。それに憧れてたんです。こういう古い建物で暮らすこと」


 水無瀬さんがモジモジと恥ずかしがりながら言う。


「あーしも、ちょっと女子たちとの間でトラブルがあって、女子寮に居にくくなってさー。そしたら、リリヤンがここ紹介してくれてさー。おかげで毎日楽しす~って感じー」


 恵流がピースサインを浮かべながら「にしし」と笑う。

 璃里耶の言うとおり、彼女たちにも複雑な事情があって、いまに至るようだ。


「安心して、カケル。ここに、あなたの敵はいないわ」


 璃里耶の言葉は、不思議な安心感を与えた。


「それじゃあ、改めて自己紹介しましょう。一〇一号室の火村璃里耶よ。学園でも、寮でも、これからよろしく、カケル」

「えっと、一〇二号室の水無瀬青花です。普通科です。だ、脱衣所でのことはお互い忘れましょう。よ、よろしくお願いします」

「服飾科の風見恵流だよん。学園でも声かけてねー」

「プハー。未遥お姉さんは基本的に管理人室いるよー。まあ、学生同士、仲良くやりなさいな」


 全員が俺を歓迎してくれていた。

 女子だらけの、ワケありの生徒が住まう蘭胤荘。

 そんな場所での暮らしがどうなるか、正直想像もつかない。

 それでも不思議と、男子寮にいた頃の息苦しさは感じなかった。


 ここに、敵はいない。


 璃里耶のその言葉が、理屈抜きに、すんなりと受け入れられる気がした。

 ここでなら、自分はうまくやっていけるのではないか。

 そう思えてきた。


「……芸術科の空野カケルです。お世話に、なります」


 奇妙な縁によって、俺は蘭胤荘の一員となった。


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