天才少女の誘い
これ以上、彼女と関わるのはまずい。
頭の中が、そう警報を鳴らしていた。
ついでに、腹の虫も「空腹が限界だ」と激しい警報を鳴らしていた。
幸い、資金は手に入った。今日は定食屋にでも行って、まともな食事を取ろう。
お札を握り、俺は早足で公園を出た。
その後ろを、火村さんがずっとついてきた。
「ねえ、その様子だと住む場所ないんでしょ? これからいったいどうする気なの?」
「放っておいてくれ。幸いそちらのおかげで食費は手に入ったからな。とうぶんは大丈夫だよ」
「そのお金を使い切ったらどうするの?」
「うっ……」
火村さんの正論に、俺は何も言い返せなかった。
「空野くん、確か男子寮に住んでたわよね。追い出されたの?」
「違うよ。自分から出てったんだ。ルームメイトとトラブル起こしちゃって」
「ふーん、教室じゃ大人しい空野くんが珍しいわね」
「俺だって怒るさ」
いまがまさにそうだ、とはわざわざ口には出さなかった。
口にしなくとも態度でわかってほしかった。
「何か嫌なことでも言われた?」
しかし火村さんはこちらの機嫌などお構いなしとばかりに、むしろ新鮮な反応を観察するかのように、グイグイと踏み込んでくる。
俺は溜め息を吐いた。
いっそのこと洗いざらい話すか、と思った。そのほうが早く話を切り上げられるかもしれない。
「……さっきのアンタと同じようなこと言われたんだよ」
「同じようなこと?」
「『絵うまいんだろ? オカズになりそうなエロい絵、描いてくれよ』って言われたんだ」
俺は挑発的に言った。
女子が相手だろうと、ぼかすことなく、ありのまま言われたことを口にした。
不快になって、さっさとどっかへ行ってくれると思ったからだ。
ルームメイトは普通科の典型的な体育会系だった。
小遣いが足りないから、グラビア雑誌や性描写の多い漫画が買えないと愚痴をこぼし、俺の画力を見て一方的にポルノ絵を要求してきたのだ。
そんな品のない男子と同列に扱われたら、さすがの彼女も気分を害するだろうと睨んだのだが……。
「……そう。やはりあなたの絵はそっち方面で活かされるべきだと証明されたわね。絵心のない一般人ですら、あなたが生み出すエロスを見抜いて、それを求めたのだから!」
弾んだ声で火村さんは言った。
思わずコケそうになった。
なぜか嬉しそうに笑う火村さんを見て、ますます気が重くなった。
何なんだ、この女? こんな変なヤツだったのか?
天才は変わり者が多い……とはよくある話だが、少なくとも学園での火村さんは奥ゆかしいミステリアスな雰囲気を持つ寡黙な少女のはずだった。
まさか今日のように、自身の体を何枚も絵に描かせたり、とつぜん「エロスをテーマに描け」と言い出すような、奇抜なことをしてくるとは想像もしていなかった。
「あのさ。寮を出た理由がわかったなら、俺がさっきから怒ってるのもわかるだろ? アンタの言うことは不愉快だ。もう関わらないでくれ」
俺はハッキリと言った。
しかし火村さんは動じなかった。
「そうはいかないわ。せっかくの才能を腐らせ、見過ごすのは私の主義に反するの。私の意見は変わらない。あなたはエロスをテーマに描くべきよ」
「いや、だから……」
公の場で、そんなことを堂々と言わないでほしい。
道行く主婦や女子大生らしき若い娘がギョッとこちらを見ているではないか。
いたたまれない気分になり、早足で逃げようとした。
しかし、それを火村さんが許さなかった。
すかさず、服の袖を掴まれてしまう。
「ねえ、提案があるの」
提案と口にしながら、火村さんは有無を言わせん勢いで迫ってきた。
「私の住んでるアパートに来ない?」
「なに?」
「私の
火村さんが金額を口にする。
思わず、目玉が飛び出そうになるほど驚いた。
なんだ、その破格の家賃は?
どう考えても曰く付きの物件としか思えない。
夏に放送されるような心霊的な何かをイメージして、俺は震えた。
「安心して。学生向けのアパートだから安めになってるのよ。言うなれば格安の学生寮ね。そのぶん一般寮と違って備え付けの家具とかは無し。食事は各自で用意。金銭の問題で一般寮に住めないとか、ちょっとワケありの生徒とかが住んでるわ」
火村さんいわく、現在は芸大付属の生徒だけがそのアパートを利用していると言う。
元学生寮だったこともあって、学園から徒歩五分の距離にあるらしい。
「私が従姉妹に頼めば、家賃はしばらく待ってくれると思うわ。どう? いい提案だと思わない?」
「それは……」
古いアパートだろうと、このまま野宿して生活するよりはずっとマシなのは確かだ。
しかし……そこに火村璃里耶も住んでいるのだと考えると、途端に躊躇してしまう。
これまでは、憧れの天才少女だった。
しかし、いまとなっては何か想像もつかない厄を呼び寄せる存在に思えてならない。
それに「ちょっとワケありの生徒が住んでいる」という彼女の発言も気になる。
はたして素直に頷いてもいいものか。
しばらく悩んだ末……俺は快適な暮らしよりも、心の平穏を第一優先にすることにした。
「……せっかくだけど、住む場所はやっぱり自分でどうにかするから。火村さんに面倒見て貰う必要は……」
言葉の途中で、ぐぅ~っと激しく腹が鳴った。
食べ盛りの体が急速にカロリーを求めていた。
「……ふふ」
火村さんが妖しく笑い出す。
「さっき食事は各自で用意と言ったけど、住人のひとりに料理好きの子がいてね。金曜日に、よく賄いを作ってくれるの。あら、そういえば今日はちょうど金曜日じゃないの」
火村さんはわざとらしい声でそう言った。
「何を作るって言ってたかしらね~? そうそう、ちょうど和牛を送ってもらったから『すき焼きにしよう!』って言ってたわ」
「っ!? すき焼き、だと?」
ゴクリ、と唾を飲んだ。
牛肉なんて、もう何日も食べていない。それも和牛だなんて、実家でもろくに食べた覚えがない。
腹の虫がさらに激しくなる。
すき焼き、と聞いただけで胃袋が完全にすき焼き専用に切り替わった。
もう、それ以外のものは受け入れんぞ、とばかりに鳴っている。
俺のそんな様子を見て、火村さんはニンマリと邪悪な笑みを浮かべる。
「楽しみだわ~。あまじょっぱいタレの沁みた和牛を溶き卵にたっぷりつけて、白米と一緒に食べましょっと。シメはやっぱりうどんがいいかしら~?」
「……じゅる」
ああ、火村さんはなんてことを口にするのか。
考えただけでヨダレが出てくる。
俺にはわかる。
たとえこの後、どの店で肉を食べたとしても、和牛のすき焼きが頭にチラついて、満足感は得られないということを。
「さて、そろそろ暗くなるわね。それでは空野くん、私はすき焼きを食べるべく帰ることにするわ。ああ、残念ね。こちらの住人になれば、すき焼きを一緒に食べられたかもしれないのに。残念だわ。本当に残念だわ」
「あ」
背を向けて、火村さんは去ろうとする。
その背中に向けて、咄嗟に手を伸ばした。
「ま、待ってくれ!」
「何かしら? 住む場所は自分で探すんでしょ?」
「それは、その……」
「どうするの? 来るの?」
「……お願い、します」
俺は深々と頭を下げていた。
人は、食欲には勝てない。
特に、高級な肉が絡むと。
そのことを深く痛感した瞬間だった。
「……ふふ♪」
火村さんはご機嫌に笑った。
教室でも見せたことがない、少女らしい、無邪気な笑顔だった。
「それじゃあ、これからよろしくね──カケル」
「な」
とつぜん下の名前を呼ばれ、俺は慌てた。
「一緒に住むんだもの。仲睦まじい、親密な関係を築きたいわ」
花開くような明るい笑顔で、火村さんは手を差し出した。
「私のことは、璃里耶と呼んで」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます