第一章 ようこそ蘭胤荘へ

ホームレス学生

『似顔絵、描きます。一回、五百円』


 そう書かれたスケッチブックとサンプルの似顔絵をイーゼルに立てかけ、俺は公園のベンチに座った。


「さて……お客は来てくれるだろうか」


 まさかこんな形で日銭を稼ぐことになるとは思わなかった。

 だが仕方ない。なんとか切り詰めてきた現金も底を尽きようとしている。

 生き抜くためには金が必要だ。

 なんせ、いまの自分は完全にホームレスというやつなのだから。


 つい先日、俺は入寮していた男子寮を退寮した。

 もともとソリが合わなかったルームメイトが、とうとう一線を越える発言をしたことで喧嘩沙汰になってしまったのだ。

 部屋を変えてくれ、と申し立てても聞く耳を持ってくれなかったので「だったら、こっちから出て行く」と荷物をまとめて飛び出してしまった。

 もともと相部屋は苦手だったし、寮母も規則に口うるさすぎる人で、いい加減に嫌気が差していたので、いい機会だと思った。

 問題は、住むところと、やり繰りするための金がないということだった。

 寮を出る少し前に、最新式の液タブを買ってしまったのがまずかった。

 あれほど両親に「仕送りのお金は計画的に使え」と言われていたのに。

 次の仕送りが振りこまれるのは来月だ。

 とうぜんホテルに連泊できる資金などない。

 実家に帰るための交通費も足りない。

 わざわざ両親に迎えに来てくれと頼むのも申し訳ないし、これを機に「やっぱりこっちに戻ってこい」と言われるに違いない。

 東京の学園でイラストレーターを目指す──なんて夢、両親はもともと乗り気ではなかったのだから。


 時期が春休みなのは幸いだった。

 真冬の夜に彷徨っていたら、真っ先に凍死していたに違いない。

 いまは雨をしのげる橋の下でダンボールにくるまって眠っている。

 新学期は来週から始まる。それまでに何とか住む場所を探したいが……空腹のままでは頭も体もろくに動かない。

 とにかく食べ物だ。そのための金銭を稼がねば。

 かといって住む場所もない高校生を雇ってくれるところがあるわけもなく、結果、こうして公園で似顔絵を描くことにした。

 いまのところ、誰も声をかけてこない。

 興味深そうに足を止める者もいるが、金額を見るとすぐに去っていく。

 ……うーん、一回、五百円はさすがに高かったか?

 百円くらいに金額を修正するか、とマーカーを持って立ち上がったとき。


「一枚、お願いしていいかしら?」

「え?」


 似顔絵の依頼をしてくる少女がいた。

 その少女に、見覚えがあった。


火村ひむら、さん?」


 火村璃里耶りりや

 クラスメイトで、学園始まって以来の天才と称される絵描きだった。

 授業で描かれる彼女の絵だけ、他の生徒にはない迫力が宿っており、誰もが圧倒される。すでに油彩画でいくつもの賞を取っている。

 俺のような凡人の絵描きにとっては、雲の上のような存在だ。

 こうして言葉を交わすのも、思えば初めてかもしれない。


 銀色の長い髪。青い瞳。ミルクのように色白の肌。

 記憶の彼方に押しやった、少女の裸婦画が思い浮かぶ。

 まるで、あのモデルの少女がそのまま成長したような姿。

 学園で初めて彼女を見たときは、本当に衝撃的を受けた。

 封じ込めていた激情がよみがえりそうになった。

 そして、それはいまも同じだった。

 息を呑む。

 間近で見る彼女は、やはりとんでもなく美しく、見惚れてしまう。

 見慣れない私服姿も、男心をくすぐった。

 白を基調としたオフショルダーのトップスに、黒のミニスカート。

 正直、目のやり場に困る格好だった。

 高校生離れしたスタイルを誇る火村さんが身につけるには、あまりに刺激的すぎる。


「えっと、火村さんは、どうしてここに?」


 動揺を悟られないよう、目を逸らしながら火村さんに尋ねた。


「それはこちらのセリフよ。ひどい格好ね、空野くん」

「いや、これはその……あはは」


 火村さんの言葉で羞恥心が湧き、笑って誤魔化す。

 洗濯していない私服はすっかり薄汚れ、みっともない有様になっている。

 最初のうちは俺も気にしてコインランドリーに通って着替えを洗濯していたが……そっちにお金を回すくらいなら食費に使いたいと空腹に負け、いまではすっかり着たきりになっている。

 とうぜん銭湯にも、ろくに通っていないので肌も髪はパサパサだ。

 ずいぶんと不潔な姿になってしまっている。

 女子には……特に火村さんのような美人にはあまり見られたくない姿だった。


「えっと、これにはちょっと事情があって……」

「公園でお金を稼がないといけない事情があるのね?」

「まあ、そんなところ」

「ふぅん……まあ、いいわ。とりあえず、描いてくれる?」

「あっ、はい。じゃあ、そこのベンチに座って」


 俺はベンチから立ち上がり、代わりに火村さんを座らせる。


「しばらくジッとしてて」

「わかったわ」


 早速鉛筆をスケッチブックに走らせる。


「そういえば空野くん似顔絵を描いてもらうのは、これが初めてね」

「え? ああ、そうだね。美術の授業のとき、あんまり組んだことないもんね」


 美術の授業では、クラスメイトの似顔絵や全体像をデッサンとクロッキーで良く描いていた。

 だいたいは出席番号が近い相手か、くじ引きで決まった相手と組む。

 火村さんとは同じクラスだったが、彼女と組む機会には恵まれなかった。

 まさかこんな形で、火村さんを描くことになるとは思わなかった。

 まるで精緻な美術品のように整った顔立ちを、熱心に観察する。

 本当に、怖いくらいの美貌だ。

 白い顔には沁みひとつなく、肌も潤いをたもっている。

 わずかに釣り上がった目元と長いまつげが大人びた印象を与える。

 青い瞳はまるでサファイアのように綺麗だ。

 確か、母親が北欧系の人で、その血を継いでいると聞いたことがある。

 長くサラサラとした銀髪はもちろん地毛だ。

 生まれ持った天然の銀色は、艶やかに光を反射している。


 美しかった。火村璃里耶は、本当に美しい。

 絵の才能にも恵まれ、女性ですら見惚れる美貌を生まれ持った少女。

 まるで奇跡のような存在だ。


 ……やはり否応なく、幼い頃に見た裸婦画の少女と重なる。

 あの絵を初めて見たときの同じ、熱い気持ちが胸に宿る。

 夢中で筆が動いていた。

 こんなにも調子良く描けるのは久しぶりだ。

 描く題材を変えてから、どこかぎこちなく動いていた手。

 だが火村璃里耶を描いているいま、かつての勢いを取り戻すように勝手に筆が動いていく。

 彼女の美貌を極限まで絵に描き起こすべく、一手たりとも気を抜かないように。

 そんな俺を、火村さんはベンチにジッと座ったまま見ていた。


「……素晴らしいわ」


 まるで夢見るような声で、火村さんは言った。


「あなたの、その目がずっと見たかったの。女性を描くときだけ見せる、その目が」


 俺の学園では本格的に美術を学ぶ。授業の中には、女性モデルを呼んで木炭画を描くものもあった。

 さすがにヌードではなく、薄着を着てのデッサンだったが。

 女性の絵を描くことにトラウマを持つ俺としては、その授業はあまり乗り気にはなれなかったが……途中から我を忘れて没頭していた。まるで、いまのように。


「あの木炭画の授業のとき、私ずっとあなたのことを見てたの。いいわ。やっぱり、いまのあなたが一番素敵よ、空野くん」


 火村さんの顔に熱が灯る。

 それすらも、絵の題材としてすぐに取り入れる。

 あの天才少女が、自分のような凡人を褒め称えている。

 普段だったら失神してしまうほどの光栄な賛辞も、しかしいまの俺の心には届かない。

 火村璃里耶という美少女を、自分の手で描き上げたい。

 いまは、その衝動だけが俺を突き動かしていた。


「……できた」


 納得の一枚を描き上げ、ようやく俺は手を止めた。


「見せて」

「ん」


 手渡した絵を、火村さんは注意深く見る。

 緊張する。

 あの天才絵描きである火村さんのお眼鏡にかなう絵を描けただろうか?

 今更になって焦る。


「……」


 火村さんは感想を言うでもなく、財布を取り出し、千円札を突き出した。


「あ、ごめん。いまお釣りが用意できないから、できれば硬貨で……」

「もう一枚」

「え?」

「もう一枚、描いてちょうだい」


 唖然とした。

 一枚で充分なはずの似顔絵を再び求める彼女の意図が理解できなかった。


「ただし、次に描くのは顔じゃなくて、別の場所よ」


 そう言って火村さんは長い髪を結び、うなじを見せつけるように露わにした。

 思わず、目を見張った。


「火村さん!?」

「うなじよ。今度はうなじを出した後ろ姿を描いて。早く」

「……」


 お金を貰った以上、描かないわけにはいかない。

 再びスケッチブックに手をつけた。

 何だ? 彼女は何を考えているんだ?

 疑問は尽きないが、しかし俺の手が止まることはなかった。

 普段なら見ることのなできない、火村さんのうなじ。

 別に恥部に分類されるような場所ではない。

 しかし、まるで禁断の聖域を目にしてしまったかのような背徳感があった。

 細い首に、なだらかな肩は、透き通るように白く、艶めかしく光を照り返している。

 耳の形まで、美しい。

 本当に人形師が細部に至るまで作り込んだような体だ。

 呼吸が荒くなる。

 自分は、どうしてしまったのだろう。

 いっときも火村さんの体から目が離せない。

 瞬きすら、忘れそうなほどに。


「……できた」

「見せて」


 できあがると火村さんは奪い取るような勢いでスケッチブックを見た。


「……ああっ」


 少女の口から吐息が漏れる。

 青い瞳に、鋭い光が瞬いた。

 火村さんはまた財布を取り出し、千円札を渡した。


「次よ。今度は胸元だけ。その次は下半身」


 新たな要求を火村さんは突きつけた。

 俺は困惑しながらも、彼女に従った。


「もっと近くで見て。よく観察して。ほら」

「なっ!?」


 火村さんは何を思ったのか、前に屈みながら、上着を下へずらした。

 深い胸の谷間が眼前に突き出される。

 あと少し下にずれれば、下着の色が見えてしまいそうだった。


「手を止めないで。描くのよ。あなたの思うがままに。何も考えないで」


 火村さんの言葉がまるで魔力を持った呪文のように頭の中で反響する。

 ……もういい。細かいことを考えるのはやめよう。

 彼女の言うとおり、衝動に身を任せて描けばいい。

 だって……こんなにも筆が勢いよく走るのだから。

 胸元を描き終えると、すぐに下半身のスケッチに移った。


「もっと視線を下げて。そう、覗き込むように」


 火村さんはまるでファッション誌のモデルのような挑発的なポーズを取った。

 ミニスカートを押し上げる大きなヒップと、長く伸びる美脚を見せつけるように。

 敢えて扇情的な絵になるように、火村さんの要求はどんどん過激になっていった。

 その後も、火村さんのリクエストは止まらなかった。

 今度は手だけを描かされた。次に唇。露出した腹部。靴を脱いだ素足も描かされた。

 気づくと、火村さんの体の至る所をスケッチしていた。

 名状しがたい達成感が胸を満たす。

 こんなにも立て続けに女性の体を描いたのは、いつ以来だろうか。


「火村さ……」


 ようやく落ち着きを取り戻した俺は、火村さんに声をかけようとした。

 ゾクリとした。

 火村さんは、俺が描いたスケッチを食い入るように見ていた。

 頬を赤くし、荒い息を吐きながら。


「はぁ……あぁ……」


 学園で見たこともない、火村さんの色めいた表情。

 見てはいけないものを見てしまった気がした。

 あまりに艶美な彼女の顔を見ていると、俺の中で雄々しい激情が鎌首をもたげそうになる。


「ああ、勿体ない。これほどのものが埋もれていたなんて。良かった。手遅れになる前に、気づけて良かった」

「火村さん?」

「空野くん」


 濡れた瞳で、火村さんは俺に熱い眼差しを向ける。


「やっぱり、私の目に狂いはなかった」

「え? わっ!」


 火村さんが徐々に距離を縮めてきたかと思うと、思いきり彼女に抱きしめられた。

 長いホームレス生活のせいで、すっかり薄汚れているのも関わらず、火村さんは強く密着する。


「ひ、火村さん!? いったい何を……」

「……潰させない。潰させてなるものですか。この才能を」

「え?」

「安心して、空野くん。私が、あなたを正しく導いてあげる」


 ギョッとした。

 火村さんは涙を流していた。


「ああ、感謝するわ。この素晴らしい出会いに」


 まるで神に感謝でもするかのような勢いで火村さんは言った。


「火村さん……君は、いったい……」

「つかぬ事を聞くのだけど……この『そらかけ』ってアカウント、あなたのことよね、空野くん」

「え?」


 火村さんはとつぜんスマートフォンを俺の前に突き出した。

 その画面には、俺が中学の頃から利用しているイラスト投稿サイトが映っていた。

 イラストレーターを目指すのならば、早い段階でネットに自作を披露して評価を集めるべきだと思ったからだ。

 俺はドキリとした。

 火村さんのスマートフォンに表示されているプロフィールページは確かに俺のアカウントだった。


「ど、どうして俺だってわかって……」

「絵柄よ。筆遣いがあなたとほとんど同じ」

「そ、それだけ特定したのか?」

「? それくらい誰にもできるんじゃないかしら?」


 圧倒された。

 投稿サイトでは意識して画風を変えているにもかかわらず、火村さんはそれを見抜いてしまったのだ。


「あまり、伸びは良くないようね。描いている題材は、メカニックや架空の生物、流行りのキャラクターの二次創作……どれも閲覧数が少ないわ」

「……それがどうかしたか?」


 自然と、声音がきつくなっていた。

 火村さんの言うとおり、俺のイラストはあまり評判が良くない。

 というより、見向きもされていないというほうが正しい。

 手は抜いていない。どれも渾身の絵として投稿した。

 だが、結果は一度も振るわなかった。とうぜん、企業のスカウトも来るわけがない。

 実力不足は承知の上だ。

 しかし、とやかく言われる筋合いはない。

 評価されないのなら、評価されるように努力するだけだ


「俺は好きで描いてるんだ。放っておいてくれよ。いつかきっと、人気になってみせるさ」

「ええ、あなたならなれるわ。私よりも凄い絵描きに」

「え?」


 思わぬ言葉に、動揺する。

 いま彼女は何と言った?

 自分が、天才である火村さんを超える絵描きになるだと?


「からかうのは……」

「からかってないわ。本気よ。あなたは、とんでもない絵描きになる。でも……いま描いてる題材のままでは、一生花開くことはないわ」

「え?」

「このスケッチを見て、確信したわ。あなたが本来、描くべきテーマをね」


 火村さんは笑みを浮かべた。

 それはまるで魔女のように、妖艶的な笑い方だった。

 背筋が震えた。

 いやな予感がした。

 まさか、彼女が口にしようとしているのは……。


 予感は的中した。

 俺にとって忘れ去りたい、最も忌むべきことを、彼女は口にした。


「空野カケルくん。あなたは──エロスをテーマに描くべきよ」



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