蘭胤荘の住人①

 火村さんに案内されたアパートを見て、俺は驚いた。

 いまどき、こんなドラマに出てくるような建物があるのかと。

 蘭胤荘、と表札には書かれていた。


「これ、なんて読むんだ?」

「『らんいんそう』よ。ようこそ、カケル。我らが住まいへ」

「……あのさ、火村さん。やっぱり名前で呼ばれるのは、少し慣れないというか……」

「璃里耶よ」

「うっ」

「璃里耶って、呼んでちょうだい」


 彼女の笑顔には圧があった。

 呼ばないと、すき焼きを食べさせないわよ? とばかりに俺の前に立ちはだかる。

 己の飢えた胃袋を救うため、俺は意を決した。


「じゃあ……り、璃里耶」

「うん」


 璃里耶は満足そうに返事をした。

 異性と名前で呼び合うなど、人生で初めての経験だった。

 照れくささを誤魔化すように、俺は蘭胤荘を観察するフリをする。


「その、なんというか……レトロ好きにはたまらない感じの建物だな?」

「素直にボロいって言っていいわよ? 実際にボロいわけだし。でもまあ、住めばなかなか快適な場所よ。カケルもきっと気に入るわ」


 そう言って璃里耶は、錆だらけの門を開ける。

 反射的に耳を塞ぎたくるなような、鉄の悲鳴が起こった。

 こんなオバケ屋敷のような場所で璃里耶は本当に住んでいるのか?

 しかし実際、玄関には明かりが灯っており、人が暮らしているらしき気配もある。

 磨りガラスの格子戸を開けて璃里耶は「ただいま」と言った。


「さあ、入って」


 俺はいまだに及び腰になりながらも、玄関に入った。

 中は、田舎にある祖父の家と似たような匂いがした。

 古びた木材特有の香りだ。


「トイレは玄関のすぐそこの扉。廊下の途中にあるのが台所とダイニング。奥が風呂場になってるわ」


 靴を脱ぎながら璃里耶が簡単にアパート内の説明をした。


「住人へのご挨拶は後にしましょ。とりあえず大家にあなたのこと説明しなきゃ。姉さん! いる~?」


 璃里耶が大きな声で呼びかける。

 へえ、こんな声も出せたのか。

 教室とは異なる璃里耶の様子に新鮮味を覚えた。


「ん~? な~に~?」


 廊下の途中にある引き戸が開く。

 璃里耶の説明によれば、ダイニングルームの扉だ。

 そこから間延びした、どこか呂律の回っていない声がしたかと思うと、ひとりの女性がヌッと出てきた。


「ブッ!?」


 俺はギョッとした。

 長身の若い女性だった。ブロンド色の長い髪が似合う、色白の美人さんだ。

 しかし、非常に目のやり場に困る格好をしていた。

 上は黒のタンクトップ。下はなんと桃色のショーツ一枚だけだった。

 鼻腔から熱いものが噴き出しそうになるのを抑え、俺は目を逸らした。


「ん~? だれ~? その薄汚い坊や~」

「同級生の空野カケルくん。住む場所に困ってるみたいだから連れてきたの」

「な~に~璃里耶~? またそういう子拾ってきたの~?」


 拾ってきた、って……俺は捨て犬かよ。


「紹介するわカケル。こちらが蘭胤荘の大家で、私の従姉妹の土御門つちみかど未遥みはるさん」

「よろ~。一応、君らの学園の卒業生だから、大先輩として敬いたまえ。ヒック」


 大家さんが近づいてくると、酒臭い匂いが漂ってきた。

 大家さんの手には日本酒の一升瓶が握られていた。

 トロンとした目つきに、赤く上気した顔を見るに、どうやらすでに酒が回っているらしい。

 そのせいか妙に艶めかしい雰囲気が滲み出ている。

 刺激的な格好も手伝って、いけないと思いながらも、つい視線を引き寄せられてしまう。

 大玉のスイカのように大きい胸。

 タンクトップの緩い肩紐がズレ、いまにも見えてはいけないものが見えてしまいそうだ。

 ショーツから伸びる丸出しの太ももも、足フェチなら一瞬で悩殺してしまえそうなムッチリ具合だ。

 エ、エッチすぎんだろ!

 年頃の男子には刺激が強すぎる!

 ていうか、男の俺を前にしていながら、大家さんはまったく恥ずかしがる素振りを見せないんですけど!?


「ちょ、ちょっと! 何か服を着てください!」


 とうとう耐えきれず、挨拶よりも先に大家さんに着替えを要求した。

 大家さんは「ん?」と首を傾げる。


「着てるじゃん。タンクトップにパンツ」

「人前で見せる服じゃないでしょ!? 特に男の前では!」

「だって風呂上がりで熱いんだも~ん。グビグビ」

「熱いなら、お酒飲まないでくださいよ!」

「何言ってんの? 風呂上がりなら飲み物を飲むのが普通でしょうが」

「飲酒は水分補給じゃありません!!」

「まー、堅いこと気にするなよ少年。サービスだよサービス。せっかくだから目に焼き付けたまえ」


 と言って、大家さんは挑発的に乳房を揺らし、酒瓶をラッパ飲みする。

 完全に酔っ払いだ。


「ちなみに、姉さんはシラフでもこんな感じよ」


 マジかよ。

 こんな人が真っ当に大家としての仕事を……いや、そもそも社会人をやれているのだろうか。

 本当に俺はここに住むべきだろうか?


「……というわけで、彼をここに住まわせたいの。いいかしら、姉さん?」


 葛藤している俺の横で、璃里耶はあらかたの説明を終えたようだ。

 俺の懐事情も伝え、家賃を待ってほしいと頼むと、大家さんは「ふーん」と真顔になって、しばし考え込む素振りを見せた。

 すると、とつぜん酔っ払いとは思えない、鋭い光の宿った瞳を向けた。


「……アンタが拾ってきたってことは、その子にも、何か特別なものがあるってわけね?」


 大家さんの奇妙な問いに、璃里耶はどこか誇らしげに頷いた。


「凄いわよ、彼は。きっと、皆にとっても刺激になる」


 璃里耶がそう言うと、大家さんはまた酒をひと口飲んでから、静かに頷いた。


「いいよ。家賃は待ってあげる。空いてる部屋はいくらでもあるから、好きなとこ使って」

「へ?」


 あっさりと了承され、俺は素っ頓狂な声を上げた。


「い、いいんですか本当に!? 入居審査とか、そういうのとかも無しで……」

「ああ、そういうのいいから。というか、璃里耶が連れてきた時点で、ここの入居条件は満たしてるようなもんよ」

「……どういう意味ですか、それ?」

「そのまま意味よ。ラッキーだよ、君。璃里耶のお眼鏡にかなう子なんて、そういないんだから」


 口ぶりからするに、蘭胤荘の入居審査は、大家さんではなく璃里耶に委ねられているらしい。

 従姉妹の璃里耶を信頼してそんなことを言っているのか、それともただ面倒だから丸投げにしているのか、俺には判断がつかなかった。


「細かい手続きも後でいいから。とりあえず……先に風呂、入ったら?」


 鼻を手の甲で押さえながら、大家さんは入浴を勧めてきた。

 ……そうだった。

 いまの俺、完全に悪臭を放つ小汚いホームレスそのものだった。

 素直にお言葉に甘えることにした。


 服も全部洗濯したほうがいい、と璃里耶に言われた。

 着替えは大家さんが持っている大きめのジャージを借りることにした。


「洗濯機は脱衣所にあるやつを使って。面倒だろうけど、下洗いしてから入れてね」


 璃里耶に風呂場へ案内され、一通りの説明を受ける。

 下洗い用の洗面器を渡されると「じゃあ、ごゆっくり」と璃里耶は扉を閉めた。


 もともと学生寮だったためか、脱衣所はそれなりに広く、洗面台もふたつあった。

 静かな脱衣所でひとりきりになったことで、ようやく気持ちが落ち着いてくる。

 思いきって入居を決めてしまったが、本当にこれで良かったのかな。

 とはいえ、他に行くあてもない以上、しばらくはここで暮らすのが最善と言えるだろう。

 とりあえず、いまはとにかく身を綺麗にして、人並みの生活に戻るべきだ。

 衣服をすべて脱いで素っ裸となり、汚れた服を下洗いすることにした。


 すると、脱衣所の扉がとつぜん開く。


「え?」

「は?」


 扉を開けた少女と目が合う。

 璃里耶ではない。

 黒のロングストレートヘアーの、幼い顔つきをした女の子だった。

 手元には、バスタオルと着替えらしきものがある。

 いまから入浴しようと入ってきたに違いない。

 時間が止まったかのように、お互いの動きが止まる。

 驚きに見開いた少女の目が、ゆっくりと下に向かっていく。

 童顔が茹で蛸のように赤くなった。


「いやああああ!!」


 つんざくような悲鳴が脱衣所どころか、アパート中に響き渡った。



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