◆密やかな恋
恋を、しました。
わたしにとって、最初で最後の恋を。
見ているだけで幸せな、恋でした。
* * *
私、如月律花の朝の日課は3つある。
ひとつは、前日に図書館で借りた本を、誰もいない早朝に返すこと。
ひとつは、誰もいない教室の窓を全開にして、朝焼けの広がる空を眺めること。
そして最後のひとつは、ある人の登校を見届けること。
気づいたらどれも習慣になっていたけど、最後のひとつはちょっと変わっていると自分でも思う。
今年の春――始業式からだから、実に3つの季節を数える間、その人を見続けていることになる。
その人は、ちょうど登校する人が増え始める、始業30分前くらいにやって来る。春も、夏も、秋も、そして冬になっても、規則正しく。
角度と距離の関係で、ちゃんと顔を見たことはない。
でも、多分人目を惹く容貌なんだろう。
ちらちら彼に視線を向けてる人もいるし。
……つまり、格好いいのかな?
使っている昇降口が同じだから、多分学年は一緒。3年生。
でも、教室のある階は違うみたい。
階が違えば接触もないし、今の今まで廊下ですれ違ったこともない。
だから、私はその人の名前すら、知らない。卒業を控えた、冬になっても。
朝の数分。
その姿を見るだけで、私はなんだか幸せな気分になれた。
それだけでいいと、思ってた。
「おはよ、りっか」
「おはよう、伶」
いつも通り感情に乏しい声音で挨拶してきたのは、幼なじみの伶。
『りっか』というのは、伶だけが呼ぶあだ名なんだけど、実際の読みとほとんど変わらないから、なんだか舌っ足らずのようにも聞こえる。
実際、ちゃんと『りつか』と発音できなかった小さい頃の伶がそう呼んでいて、今もそのまま呼び続けてる、というのが背景にある。
挨拶したきり動かない伶を不思議に思って見上げると、立ったまま眠り始めていた。
お休み3秒を地でいくのはすごいとは思うんだけど、正直登校した矢先からこうなのはどうかと思う。
「伶、立ったまま寝ちゃだめだよ。ほら、せめて荷物下ろして自分の机で寝なきゃ」
「……ん」
一応返事をして、伶はふらふらと自分の机に向かっていった。
伶は朝が弱いから、この時間帯は大抵ぼんやりしているんだけど、ただでさえ普段からぼやっとした印象を受けるから、朝はさらにその5割増くらいに見える。
……でも、その状態が神秘的に見えるっていうから、女の子の心理はわからない。
私も女の子だけど。
伶は顔なんて見飽きるほど見てる私でも、時々感心するくらい綺麗な顔をしてる。
あんまり感情が表に出ないからか、ミステリアスだとか神秘的だとか言われてる、らしい。
ちょっと小耳に挟んだことがあるだけだから、正確なところはわからない。
私からすれば単にぼんやりしてるだけに見えるんだけど、伶をよく知らない人からすればそんな風に見えるのだと知ったときは、人の見方というものの力にびっくりした。
何かのフィルターでもかかってるんじゃないのかな。
荷物を下ろしてそのまま眠るんだろうと予想してたのに、伶は何故かまた私のいる方へふらふら歩いてきた。
「寝ないの?」
「ん」
言葉少なに肯定して、伶は窓の外に目を向けた。
「何、見てた?」
「え?」
「また、例の『麗しの君』?」
「……その呼び方止めてって、言ってるのに……」
『麗しの君』というのは、私が毎朝見ている『彼』に伶が勝手につけた呼び名。
毎朝私が窓の外を見ている理由が気になったらしい伶が、あんまりしつこく聞いてくるから、根負けして話したんだけど……。
名前どころか顔すらちゃんとわからない人なんだと言ったら、それ以来話題に出すときは『麗しの君』と言うようになったのだ。
今のところ、伶は彼の姿を見たことがない。
何故だかいつもタイミングが合わないから。
顔さえわかれば名前もわかるのに、と全校生徒の顔と名前を覚えてる伶は言うけど、私は別に名前を知らないままでもいいと思ってる。
……いや、名前も知らないのに毎朝登校を確認してるのは、ちょっとストーカー入ってるかなって思わないでもないんだけど……。
でも、今のままでいい。
これ以上を望むつもりは、ないから。
だけど、予想もしなかった変化は、その日の放課後に訪れた。
「りっか、りっか」
「……伶?」
珍しく急かすように名前を呼ぶ伶を不思議に思って、帰りの準備をしていた手を止めて振り返る。
終礼が終わった途端、いつになく俊敏な動きで教室を出ていったから、何か緊急の用事でもあったのかと思っていたんだけど、この様子だと違うみたい――
「…………」
思考が、止まった。
目の前には、どことなく誇らしげな表情の伶(とは言っても、長い付き合いの私でも『そんな気がする』ってくらいの変化だけど……)と。
ものすごく不機嫌そうというか、不本意そうというか、不愉快そうというか……とにかく、どう贔屓目にみても好意的でない表情の、男の子がいた。
そしてその男の子の顔……というか、全体的な雰囲気を、私は知っていた。
間違えるはずがない。
顔はちゃんと見たことがなくても、毎朝その姿は見ていたんだから。
私の好きな人――伶曰くの、『麗しの君』。
正にその人が、目の前にいた。
「りっか?」
固まった私を不審に思ったんだろう、伶が僅かに首を傾げて名前を呼んだ。
ハッと我に返る。
だけど、目の前の情景は変わらない。
……なんというか、すごく嫌な予感がする。
伶と彼が友人関係にあったとは思えない。それだったらいくらなんでも気付く。
そもそも、伶は『友人』と呼べる人が極端に少ない。
色々特殊な事情があるから仕方ないといえば仕方ないんだけど、それ以前に本人に作る気がないみたいだし……。
それはともかく。
わざわざ私の前に来たってことは、私絡み以外の理由は考えにくい。
その上、褒めて褒めてと言わんばかりの伶の表情。
導き出される答えは決まったようなものだ。
「……ええと、あの」
何を言えばいいかわからなくて、意味のない第一声になってしまった。
好きな人の前で初めて発する言葉としては間違いなく不合格だと思う。自分でも。
気のせいでなければ、ただでさえ不機嫌そうな表情だったのが、さらに凶悪な目つきになったような……!
一応これがファーストコンタクトになるはずなんだけど、正直ときめきを感じる余裕がない。
不機嫌を擬人化したような状態の人にときめくことができるほど、私は根性が座っていなかったらしい。
「……遠矢」
「……?」
「遠矢水城」
「??」
「俺の名前」
不機嫌そうな顔のまま、何故か名前を告げられる。
「あんたは?」
「き、如月律花」
反射的に答えたものの、彼――遠矢くんは、ものすごく不承不承と言った様子で尋ねていた。
どう考えてもおかしい。不自然だ。
……伶……一体何したの……。
言いくるめたならまだしも、脅迫とか……してない、よね?
怯えてる様子はないから大丈夫だと思いたいんだけど、伶ならやりかねないし。
そんなことを考えている間にも、時間は刻々と過ぎている。
つまり、居心地の悪い沈黙が周囲を包んでいるわけで…。
不意に、遠矢くんはすっと視線を伶に向けた。
伶はデフォルトの無表情でそれを見返す。
「……」
「………」
2人の間でどんなやりとりが成立したのかはわからないけど、数秒の後、遠矢くんは「じゃあ」と踵を返して立ち去った。
当然、そこに残されるのは私と伶ということになる。
「……伶」
「? なに、りっか」
「なに、じゃないでしょう……一体どういうつもりなの」
「違った?」
「え?」
「あれじゃなかった? 『麗しの君』」
ああ、やっぱり……。
「いや、違わないけど……その前に『あれ』呼ばわりは駄目」
「え、と……『あの人』で合ってた? ……でいい?」
……理解したなら言い直さなくてもいいから。
っていうか、普通聞くまでもないことじゃないだろうか。
……まあ、伶だし。その辺りは仕方ないんだけど。
年々ズレっぷりが顕著になっている伶の将来がちょっぴり心配になってくる。
心配しなくても、それを補って余りある才能……のような何かがあるから、大丈夫なんだろうけど。
何か考えるように、うろうろと視線をさまよわせていた伶は、ちらりと私を見た。
「喜ぶかと、思って」
ぽつり、と伶は呟く。
「りっかが、見てるだけで幸せなの、わかってる。だけど、知り合うくらい、いいと思う、から」
「…………」
私を気遣ってくれてのことだって、わかってる。わかってる、けど……。
「……知ってる、くせに、どうしてそういうことするの」
ちょっとの非難を込めたつもりの言葉は、思った以上に非難がましく響いた。
自分じゃあんまりわからないけど、やっぱり私、怒ってるのかな……?
内心首を傾げる私をよそに、伶は視線を下に向けて、困ったように眉根を寄せた。
「……ん。そう……だけど、」
駄々っ子のような声音で、伶は言い募る。
「せめて、名前くらい……知ってても、いいんじゃないかって」
……確かにこういうことでもないと、名前も知らないままだっただろうけど……。
余計なお世話だ、なんて思うのが、八つ当たりに近いのは自覚してる。
嬉しい。
嬉しくない。
正反対の思いが、同じくらいの大きさで浮かぶ。
……素直に喜べたなら、良かったのに。
多分、普通の恋する女の子は、好きな人の名前を知ることができるように尽力してくれた人に対して、こんな風に思うことはないんだろう。
だからって、その気持ちを伶にそのままぶつけようだなんて思わないけど。
伶なりに私を思ってしてくれたことだって、わかってるから。
……流石に、法に触れるようなことはしてないよね、伶……。
ちょっと不安かもしれない。
私を窺うように見る伶に、思わず苦笑した。
まるで怒られるのを怖がる子供みたいだ。
伶は私に甘い(ただし私の意思は結構無視する)けど、私も伶に甘い。
それは今更、変えられるようなことじゃないんだけど。
ふっと時計に目を向けて、また伶に視線を戻す。
「伶、そろそろ帰る時間でしょう。大丈夫なの?」
「……りっか、は?」
尋ねられて、珍しいこともあるものだと不思議に思う。
私の放課後の行動なんて、聞くまでもなくわかってると思ってたんだけど。
「いつも通り、図書館に行くつもりだけど……」
そう言うと、伶はちょっと目を細めた。
……あれ、なんか、怒ってる……?
「……駄目」
「え?」
駄目って、なんで?
伶と約束でもしてたかな、と思ったけど、心当たりはない。
考えてるうちに、また伶が口を開いた。
「……今日は、駄目。……連れて来いって、言われてる……」
「連れて来いって、」
「ゆうにい、怒ってた……」
……あ。
一瞬、思考が止まる。
……どうしよう、すっかり忘れてた。
『ゆうにい』。
伶がそう呼ぶ人は、一人しかいない。
伶の四つ上の兄――宮内夕。
私に定期的に顔を見せるようにと口を酸っぱくして言い聞かせた人物でもある。
顔を見せるようにっていうのは、必要があってのことなんだけど……ここ最近、それを思いっきり忘れてた。
意図的に忘れてた、っていう部分も無きにしも非ずだけど…。
……多分、一ヶ月くらい会ってない気がする。
私としては、そんなに重要じゃないっていうか、会わないなら会わないでいいと思ってるんだけど、夕さんはそう思ってないだろうし……。
……ああ、やっちゃった。
怒ってる、よね。
伶、『怒ってた』って言ったし。
夕さん、普段の態度もアレだけど、怒るとすっごく面倒なのに。
いや、その事態を招いたのは私なんだけど。
私は深く溜息を吐いて、渋々伶と一緒に帰ることにしたのだった。
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