第6話 Re:天国

 だが更に事態は悪化する。裁判所の上にクトゥルフが現れ、無数の手が降り注いだ。

 地獄の大門は破られており、門番である阿吽の鬼首はそれぞれ意識を失っていた。

「動ける者は全員動け!」

 裁判所は十王の結界で守られているからいいが、地獄自体はむき身だ。荒らされる訳にもいかないし、亡者達を危険に晒す訳にもいかない。

 クトゥルフは閻魔の気配を感じ取ったのか八岐大蛇の方に向かい始めた。大王とヤミーが後を追う。

 地獄の針山や煮えたぎる血の池を跳び越え、走りながら地形を変えて一直線に進んだ。その時、腕を出した閻魔が死体から飛び出してくるのが見えた。

 空中にいるクトゥルフに纏わりつき、相手に比べて小柄なのを活かして縦横無尽に動いている。その時ガブリエルが下から聖剣を投げた。

 真っ直ぐに飛ぶ剣。敢えて閻魔を狙ったそれは、彼が口角を引きながら避けた瞬間にクトゥルフの腹に突き刺さった。

 刺さった瞬間に侵食が始まる。触手のあいだから血が吐き出された。

 そのあいだに閻魔が肩を台に跳びあがり、叩き落とすつもりで脳天を狙った。然し黒い手が彼を狙う。

 掴まれるよりも先に踵を落とせ……視界に煙を纏った指が映る。

 どちらが先か、ぎりぎり手の方が速いか。その時下から赤黒い塊が高速で飛んできた。当たった瞬間、手が弾け飛ぶ。

 直後、閻魔の一撃が脳天に当たり、クトゥルフは勢いよく落ち始めた。と同時に落下地点に大量のかえしがついた針が出現。背中から落ちたクトゥルフの身体は一番大きな針にめり込んだ。

 閻魔が着地し、静寂が流れる。

「ヤミー、用意しておけ」

 彼の言葉に力を使う。手中に赤黒い塊を軽く作りながら、大きな背中について行った。

 クトゥルフはまだ動いているようで、黒い手がどうにか脱出出来ないか試行錯誤していた。

「……」

 もう決着がついたようにも見える。然しまだ油断は出来ない。大王は右手を出し、針に向けた。袖を押さえつつその手を上にあげる。

 全体的に針が大きく成長し、胴体以外の皮膚にめり込み始めた。その時だ。

 クトゥルフの身体が消えた。全員驚く。大王は手を握りしめ、それに合わせて針が粉々に砕け散った。

 清く、澄んだ世界。真っ白な動物と魂だけが静かに暮らす世界。

 そこにどんっと不気味な巨体が落ちた。周囲にいた動物や魂は蜘蛛の子を散らすように逃げ、木々がざわめいた。

 ややあって手を突っぱね、起き上がる。歩き出した。

 歩く度に地面が揺れ、空気が澱む。そのうちに天国の中心部まで来た。

 そこには透明な水があり、中央に巨木と枝に支えられてがこんがこんと廻る、巨大な車輪があった。クトゥルフは黒い手をその車輪に伸ばす。

 六道の絵が描かれた車輪から魂が逃げる。黒い手の先が触れかける。

「アンタ、何をやってんだい」

 後ろから声が聞こえ、ぴたりと止まった。振り向く。

 そこにはイザナミの姿があった。ばりばりと空気が静電気を帯びる。クトゥルフは少し見つめたあと視線を輪廻転生の輪に戻した。

『貴様は用済みだ』

 冷徹な声音にばりっと音が鳴る。

「あたしを天国に飛ばしたのはお前だろう。この世の理に干渉して、ただで済むと思っているのかい」

 吊り上がった右眼で睨みつける。クトゥルフはややあってもう一度振り向いた。

『旧支配者が全ての世界の頂点だ。貴様は単なる一国の古い神でしかない。まあ、道を作るだけの価値はあった』

 更にばりばりっと雷が鳴る。先の尖った手を握りしめた。

「まさかお前、地蔵菩薩の通り道を」

『察しがいいなあ。流石、古い神というだけある』

 はははと不気味に笑う。

「ふざけた野郎だね。本当に、ふざけた野郎だ」

 ばりっと白い長髪が更に浮き上がる。

『ふん。そんなにこの小さな世界の理を乱されるのが嫌か』

 全てが鋭くなった歯を剥きだす。纏わりついている雷神の力を解放した。

 瞬間、稲妻を落とした。とてつもない轟音。水が振動で揺れる。

 然し無傷だった。イザナミは眼を丸くする。がっとクトゥルフ自身の手に掴まれた。

『死んだ神というのは、どいつもこいつも弱いな』

 嘲る声。イザナミは鼻に皺を寄せ、更に連続で雷を落とした。だが全て意味がない。

 息を切らす。雷の力は彼女自身のものではなく、輪廻転生の輪と同じなにものでもないなにかが同化して使えているだけだ。彼女自身の力は死んだ時点で失われている。

 クトゥルフはふんと鼻で笑い、手に力を加えた。もう道が出来ている以上、これに用はない。

 みしみしと身体が軋む。死ぬ事はないが痛みや苦しみはあるし、長い事意識も飛んでしまう。雷がばりんばりんと蠢くが緩む気配はなく、既に腕は潰されていた。

 だがその時、白刃が舞う。ざんっと音が鳴ったあとに、クトゥルフの腕がずるりとずれてイザナミごと落ちた。

 眼を見開き、輪廻転生の輪の方を見る。

「ここは天国だよ。貴方のような者がいていい場所じゃない」

 水の上に立っているのは、豪華な飾りをつけた大太刀の鞘と刀を手に持った女だった。打掛の裾が水の上を滑り、波紋が広がる。

 右手に持った刀の先が水を少し斬った。

「はあ、輪廻転生の輪が慌てているからと来てみたら……」

 困り眉を更に困らせながら溜息を吐く。

「こういうのはスサノオの役目なのに……」

 ぶつぶつと文句を言いながらクトゥルフのすぐ近くまで来た。橙色の瞳と眼が合う。

「なぜ天国なんかに来たのかね。天界に来ればスサノオに任せられたのに」

 声は特別大きくない。だというのにはっきりと聞こえ、次の瞬間には黒髪と打掛が舞い上がった。

 白刃が首を狙う。クトゥルフは間一髪で避け、距離を取った。宙に浮いた巨体を見上げ、アマテラスは息を吐く。

「それに天国は太陽がない」

 大太刀を片手だけで、しかも切っ先を地面につける事もなく持ち続けている。

「剣術は苦手なのに」

 まだぶつぶつと呟いている様子に、クトゥルフは顔を歪めると一気にしかけた。

 四方八方から黒い手が襲いかかってくる。その速度は桁違いで、閻魔でもぎりぎり対応出来るかどうか微妙なぐらいだ。

 然しアマテラスに当たる前に砕け散る。彼女の周囲には何もない。

 そのまま歩いてくる彼女から距離を取りつつ、何度も攻撃をしかける。だが全て当たる前に弾ける。

『な、なんなんだ貴様……』

 クトゥルフの声にアマテラスはその場から消えた。次に現れたのは眼前、彼女の後ろには反った刀身が見えた。

「この国の最高神だよ」

 ざんっと一際大きく音が鳴った。クトゥルフの姿は一瞬にして消えた。だが刀身にはしっかりと血がついており、切った感触で右腕が震えていた。

 すっと着地する。刀を振るい、鞘に納めた。

「もう一人別のところから来た者がいるけれど……」

 全く表情を変えず、ややあって踵を返した。小走りにイザナミのもとに向かう。

「母上」

 太刀を置き、そっと彼女の身体に触れた。

『くそ……治らん』

 クトゥルフは地蔵菩薩が六道を通ったあとを無理矢理使い、逃げていた。然しどんっと背中を押される感覚が走る。瞬間、地獄の景色が見えた。

「あまりわたくしを舐めない方がよろしい」

 すぐ近くで聞こえた声。振り払うように身体を動かした。背中を地獄に向ける。

 その時、視界にあの独特な影が映った。どんっと胸の上に乗られ、拳が引かれる。

 閻魔の打撃が顔にぶつかる度に、アマテラスに斬られた首の傷から血が吹き出す。意識が朦朧とする。

 クトゥルフが落ちてくる下では火車が待ち構えており、ある程度の高さまで来るとばきばきと音をたてて顎を外した。

 眼は上を向き、般若のような口は深海のサメのように大きく開かれた。それを確認した閻魔がクトゥルフの身体を蹴り、更に落下速度をあげる。

 大きな口のなかに吸い込まれていく。火車は毒物を飲み込む覚悟で顎を閉じた。

 ぶしいっと血が吹き出した瞬間、火車の悲鳴が轟きクトゥルフを投げ飛ばした。一瞬で少女の姿になり蹲る。

 ヤミーが駆け寄り、身体を抱えあげた。少女は口元を押さえ、眼を見開いて彼女の着物をぎゅっと掴んだ。

 投げ飛ばされたクトゥルフに閻魔が着地と共に蹴りを入れ、アマテラスが斬った傷に手を突っ込んだ。

「っ」

 クトゥルフの血は酸性の何かに変わっており、じゅっと溶ける熱さと痛みが同時に襲ってくる。然し折角の好機、閻魔は構わず手首まで入れた。

 瞬間、横腹に衝撃が走り、抵抗も出来ずに飛んだ。その先には煮えたぎる血の池が広がっており、慌てて体勢を立て直そうとした。

 だが間一髪で大王が壁を作り、閻魔はそれに叩きつけられる形で止まった。ずるっと地面に落ちる。けほっと咳を漏らして立ち上がった。

 背中の傷は治っておらず、勿論サタンとの対峙で出来た他の傷もそのままだ。悪魔や天使の力は持続性がある、それがじくじくと続いているのだろう。

 クトゥルフはのそりと立ち上がっており、ふらっと身体が傾いた瞬間、閻魔の腹を下から蹴り上げた。

 げぼっと吐き出し、宙に浮かぶ。体勢を立て直す。そのあいだに大王が自由自在に力を使い、クトゥルフに隙を作ろうとした。

 だがふわりと垂れた前髪が揺れる。閻魔が見開いた眼を向けた。

 大きな拳は結界によって阻まれていた。大王の前に手を合わせた地蔵菩薩が立っており、ぐっと力を強めるとクトゥルフを弾き飛ばした。

「危ないところでございました」

「助かった」

 弾き飛ばされたクトゥルフの身体は丁度閻魔の方に向かっており、着地してすぐに身体を回転させて蹴りを当てた。地面に転がり、うつ伏せになる。

 ふっと息を吐いた。かなり攻撃を加えているし、クトゥルフが消えた先でも誰かにやられているのは確かだ。首の傷もそのままだし腕も再生はしているがあまり使おうとしていない。

 前髪を押さえつけ、足を踏み出す。うつ伏せのままの身体に近づき、警戒しながら様子を見た。

「……は?」

 生きていない。死んでる。

 そんな唐突に?

「閻魔殿」

 大王も近づき、様子を見る。

「……」

 確かに死んでいる。だがだとしたらなぜ、世界は変わらない。

 二人の閻魔大王は視線を合わせ、ややあって同時にクトゥルフを見下した。

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