第3話 Re:地獄の沙汰も

 煙草の煙が揺れる。とある天守閣のてっぺんに腰をおろしたまま、風に吹かれる。

『腹が立つか』

 後ろからの声に蹴りを放った。誰もいない。からんっと瓦を鳴らす。

『離れたところで意味はないぞ』

 咥えている煙草が曲がる。食いしばった歯にフィルターが潰された。

 ややあって立ち上がる。閻魔が消えたあと、ぐしゃぐしゃになった紙巻煙草が瓦屋根の上を転がった。

「地蔵菩薩様、それはまことでございますか」

 破魔山の寺内で坊主は眼を丸くした。眼前には地蔵菩薩が正座しており、うんと肯いた。

「だとすれば、天界、地獄、現世でそれぞれ……」

 顎を触る坊主に菩薩は眉をさげたまま問いかけた。

「大王がもうおひとり、おられると先程仰いましたね」

 軽く身を乗り出す仏に視線を戻す。

「ええ。ただ迷惑をかけるからと早々に立ち去ってしまいまして」

 菩薩はそれにうんうんと肯きつつ姿勢を正した。

「世界は違えど流石は大王でございますね。という事は今そのお方はおひとりという事ですか、心配だ……」

 その言葉に坊主は頭をさげた。

「地蔵菩薩様、よろしければそのお方を」

「顔をおあげなさい」

 優しい染み渡るような声音に従った。にこにこと朗らかな笑顔で肯く。

「見つけましたら雀を飛ばしましょう。おりちゃんも心配でしょうからね」

 慈悲深い姿に坊主はお礼を言い、地蔵菩薩は寺の山門をくぐった。一息吐く。ぴりぴりと肌に嫌な邪の気配を感じつつ、閻魔の残り香を追った。

 彼は人の少ない場所を狙って移動を続けた。クトゥルフの気配は微かにある、だがなかなか近づけない……。

 ただぐるっと円を描いて戻ってきたところを見ると関東平野のなかにいるのは確実だ。はあと肩を落とし、木の上から地面に降りた。その時、地蔵菩薩と出会った。

 小さな錫杖を手にした菩薩は閻魔を見つめ、ふっと笑った。

「閻魔様、良くぞこの世界へおいでくださいました」

 地蔵菩薩から粗方事を聞いた彼は煙草を咥えながら遠くを眺めた。

「クトゥルフは確実にこの辺りにいる。だがそう簡単に姿は見せないだろうな。あのおりという娘らを狙ったように、何かをしようと企んでいるはずだ」

 煙が流れる。

「ふむ。閻魔様、無礼を承知で言わせて頂きますが、そう考えるのであれば尚更あの人間の傍におられる方がよろしいかと」

 振り向く。指の間に挟んだ煙草から灰がこぼれる。

「なぜだ。娘の方は酷く泣いていたぞ。我が助けた時も」

 ぎゅっと着物を掴んで離さなかった。それに菩薩は微笑んだまま続ける。

「おりちゃんは精神力の強い子でございます。わたくしが寺を後にする時、あの子はあなた様の事を心配しておりました」

 冷たい風が吹くなかで少女は「もし良がっだら、戻ってきてくだせえって……」と遠慮がちに言った。

「だが、」

 吸わずとも煙草は燃える。灰が更にこぼれた。

「あの子は死なない。父親は関東一、いいえ日の本一の僧でございます。それに龍ノ王の加護もある、勿論わたくしもおります」

 生きたまま地獄に行けると彼は言っていたが実力は分からない。閻魔は視線を遠くにやった。少し考える。

 ややあって軽く笑って煙草を咥えた。

「ふざけやがって」

 低く呟く。煙草の頭が赤く灯った。

 自分が無意識にクトゥルフを怖がっている事に気づいた。クトゥルフのせいで関係のない子供が死ぬかも知れない、その事を怖がっている事に気がついた。

「戻ろう」

 白煙を吐く。その表情はいつも通り無表情だったが僅かに苛立ちがあった。

 然し彼が破魔山に戻った直後、一つの城下町に黒い人影が出現した。あの、閻魔を痛めつけた人影と同じだ。ただ頭の一部や身体の一部が欠損しており、繋ぎ合わせたような痕もあった。

 勿論城下町は騒然とする。悲鳴がこだまし、それに呼応するように人影は足を踏み鳴らした。

 地獄だった。そしてその直後、大きな地震が関東を襲った。

 局地的なものだがかなりの揺れだ。寺は龍ノ王の結界もあって無事だったが振動は感じる。くノ一はおりを抱きしめ、戻ってきて早々の出来事に閻魔は外に出た。

 息を吸う。風が揺れる。

 気配が充満しているのが分かる。その時、馬の蹄の音と共に商人の格好をした男が現れた。

 どこからともなく現れた男は閻魔を見ると眼を丸くし、山門から馬で駆け上がってきた女は慌てて綱を引いた。

「熊吉! りん!」

 坊主が名前を呼びながら駆けてくる。閻魔は彼らから視線を外し、充満する気配の出処を探った。

 熊吉は片膝をついたまま意識を坊主に向け、城下町が謎の巨大な鬼のようなものに襲われた事を告げた。要点だけを読み上げた声に眉根を寄せる。

「それで、りんは」

 巫女の格好をした女は馬に乗ったまま答えた。高く結んだ黒髪が揺れる。

「変な黒い、ぐにょぐにょとした何かが大量に湧いて出てきたんだ。破魔矢で村は守ってきたけれど、ここに来る道中にも大量にいた」

 坊主の脳裏にクトゥルフの名前が浮かぶ。振り向いた。

「閻魔様」

 彼は背中を向けたまま着物の上を脱いだ。龍の模様が見える。

「来る」

 少し上の方を見ながらそう呟いた。刹那。

 空から蛸のような頭を持った巨体が降ってくるのと、閻魔が腕を出して脚を広げたのと、くノ一が咄嗟に投げた錫杖が坊主の手に戻ったのはほぼ同時だった。

「熊吉はおりの傍にいろ! くノ一と一緒に守れ!」

 しゃりんっと錫杖の頭を鳴らしながら叫ぶ。この異様な状況下でも男は「へい!」と答え、その場から消えた。

「なにこの気配……」

 りんの乗っている馬が後ろにさがる。閻魔が受け止めたクトゥルフの姿は恐ろしく、神と同じ威圧感があった。

 坊主は懐にある札を探りながら眉根を寄せる。邪神とは言え神、妖怪に効いても神には効かない札も多くある。

 一か八かだと一枚取り出し、閻魔が押さえているあいだに投げた。

 その時、山門の下から黒い何かが迫ってきているのにりんが気がついた。坊主を呼ぼうにも訳の分からない巨体に集中している、彼女は歯を食いしばり弓を手にとった。

 破魔矢を番え、引き絞る。放たれた。

 瞬間、クトゥルフが呻き力が弱った。それを感じた一瞬に閻魔が拳を叩き込み、坊主が飛ばした札を発動させた。

 ばりんっと轟音を響かせてクトゥルフの身体が白い雷に包まれる。閻魔は咄嗟に危険を感じて飛び退き、ずざざっと石畳の上に着地した。

 痙攣する身体。効いたかと坊主はほっと息を吐いた。

「……」

 閻魔は前髪をあげながらりんの方を見た。突き刺さった破魔矢に黒い何かが近づくたびに弾け飛んでいる。そしてクトゥルフを見ると連動するように反応があった。

 最初、あの世界で黒い人影を子供達が攻撃し、うち一体をその場で殺した時。対峙していたクトゥルフが若干顔を歪ませて離れる行動をとった。

 そしてもう一体を再起不能までに追い込んだ時にクトゥルフは逃げ出した。

「影は全部、」

 タコ野郎の身の一部と言ってもいい。だがそれ以上は分からない。潰される時に痛みが走るだけで本体の体力は減っていないとか、色々な可能性がある。

 雷が弱くなっていき、坊主は次の札を取り出した。刹那、黒い手がどこからともなく現れ、吹き飛ばされた。

 宙に舞う姿を一瞥する。クトゥルフが起き上がりつつある。流石に人間だ、彼を助ける方をとろう。

 そう膝を折った時、龍の幻影がちらつきながら坊主の下に潜り込んだ。どんっと背中に落ちる。

 その状態で手に持ったままの札をクトゥルフの頭に素早く投げつけた。龍ノ王の背にしっかりと跨り、たてがみを掴む。

「閻魔様! 相手を地獄に引きずりこむ札を貼りました! これが効くかは分かりませんが、もし発動した場合は絶対に離れずそのまま一緒に行ってください!」

 坊主の声が反響する。クトゥルフは自分の頭の上にある札を剥がそうと爪を立てた。皮膚ごといくつもりだ。

 然し閻魔の脚が叩き込まれ、反射的に振り払うように手を動かした。着地する前に複数の腕を活用し、口元の触手を掴んで身体を捻って回転、踵を首辺りに落とした。

 クトゥルフの手が来る前にその場から消え、だが相手から離れないように動いた。破魔矢で黒い何かが殆ど消えたからなのか、丁度おりとくノ一を襲った時と同じ手が二本現れた。

 黒い手は縦横無尽に動かす事が出来るらしく、舞う着物の裾が触れる事もあった。だがそれでも掴まらず、攻撃をなるべく与える。

 その時、札が発動。クトゥルフの足元の地面が開眼するように割れた。ふわっと閻魔にまで浮遊感が伝わる。

 底から幾つもの太い縄が現れ、クトゥルフの身体に纏わりついた。それらを振り払おうとするが札の効果は凄まじく、ぎりぎりと縄が食いこんだ。

 札は貼られた相手のみを認識する。閻魔に危険はないが、水のなかにいるような僅かな反発感を覚えた。

 太い縄が巻き付けられ、締め付けられていく手が空を掴もうと藻掻く。然しずんずんと地面の底へと沈む。

 そうしてクトゥルフの呻き苛立った声と共に閻魔も地の底へと消え、地面はめきめきと音をたてて閉じた。静寂が流れ、りんのほっとした声が漏れる。

『良かったのか坊主』

「ああ。現世で暴れられるよりかは幾分か良いだろうよ」

 あの気配と雰囲気、流石に名も無き坊主でも耐え難い。錫杖を握る左手は震えており、速い鼓動がよく聞こえた。

 地面に降り立つとすぐに寺のなかに戻り、地蔵菩薩に伝えた。菩薩は承知すると六道巡りの力で地獄へ向かった。

「っ……」

 ざっと硬い地面に手をついて立ち上がる。顔をあげて息を吐いた。

 落ちたのは洞窟のような場所で、点々と鬼火らしき灯りがちらちらと揺らめいていた。地獄のどこなのか、自分が知る地獄と似ているのか、何も分からないがクトゥルフが動き出した気配に視線をやった。

 その時、鬼火で照らされた影が見えた。

「ん?」

 少女の少しかすれた声が響く。起き上がったクトゥルフがそれを見た。閻魔がすぐに体勢を立て直し、走り出したタコ頭を追いかけた。

 地獄の大門を通って来たのは少し大きい着物を着た少女だった。然しその身体には頬までびっしりと呪文のような模様が浮かんでおり、耳は獣のような形で横に伸びていた。

 そして少女の下半身は異形そのもの。まるで猫の脚と人間の胴体をくっつけたようで、重たい着物に押さえられた二本の尻尾が地面のすれすれを揺れていた。

 クトゥルフの手が引かれる。と同時に二本の黒い手が先に現れ、少女を上から狙った。

 一本にした三つ編みが揺れる。閻魔は跳び上がり、頭を後ろから締めあげようと腕を広げた。

 黒い手が近づく。刹那、少女の口角がばきんっと割れたと共に眼が吊り上がり、身体が大きく前のめりになった。

 水蒸気のような白い煙が湧き上がった。同時にクトゥルフの身体が止まる

 閻魔はびりっと肌に刺激を感じ、空中で身体を翻した。瞬間、その巨体が爆発したかのように吹き飛んだ。

 眼を丸くする。巨体は緩やかに曲がっている洞窟の壁にぶち当たり、轟音を響かせた。

『ぐるぁ、よそもん、じごくに、』

 少女に獣の唸り声が重なったような独特な声。

『じごくに、いれるな』

 どんっと炎を纏った獣の前足がおりる。

『おまえ、は、』

 ぐっと向けられた眼は仮面のように生気がなく、かっぴらいていた。閻魔は無表情に答える。自身の名前を。

 少女、火車はかくかくとまるで蟷螂のように首を動かして視線を外した。その身体は巨大な猫のような獣になっており、一部一部が骨で出来ていた。

 脚は六本、耳は四つ、尻尾は二本。彼女の周りには彼女自身と同じように火を纏った車輪が回転しており、それ自体もかなりの大きさだった。

『だいおう、だいおうふたり、』

 かくかくと首が動く。クトゥルフを見つめる。

 動きそうもない瞳孔がぐわっと広がり、かかかっと顎を鳴らした。瞬間、四つの車輪が弾丸のように飛び出し、壁にめり込んだままのクトゥルフにぶち当たった。

 その威力は凄まじく、がぼっと黒い血のようなものを吐き出した。

「……」

 幾ら自分が追い込んだ相手とはいえ、随分と弱くつまらない。閻魔は微妙な、本能的な違和感を覚えていた。

『よそもん、よわい、』

 かくかくと首が動く。車輪が順に戻ってくる。

 瞬きをし、火車を見た。口を開く。

 油断するな。

 そう言おうとした瞬間、火車の身体が吹き飛び地面を転がった。閻魔が反射的に避けようと動き出す。だがその前にクトゥルフ本体の手に掴まれた。

 舌打ちをかまし、力を入れる。瞬間ばきんっと自分の腕が折れる音が響いた。

 思わず声が漏れる。一瞬で握りつぶされたせいだ。身体全体が軋む。

 歯を食いしばり、顔をあげた。

『やあっと、調子が戻ってきた』

 腹の底からの重低音。更に握る手に力が加わり、片眼をつむる。

 その時、火車の口から地獄のような怨嗟の声が吐き出された。頭の中を支配する不気味で恐怖を感じる声。

『はなせえ』

 響き渡り余韻として残るその声に混ざって聞こえてくる。

『はなぜえ』

 六本の脚を踏みしめる。常に開かれた般若のような口からだらだらと涎が零れる。

『ほお、タフなものだな。地獄の妖怪とかいうのは』

 現れた黒い手は更に増えていた。一つや二つではない。まるで剣のように鋭い爪を一点に集めた手が、ざっと十はあった。

『だが所詮は妖怪だろう。さっさとそこを退け』

 瞬間、それらが飛び出す。と同時に、恐らく「はなせ」と言っているのだろう火車の咆哮が響き、車輪が高速で回転しながらクトゥルフに向かった。

 一直線に全ての車輪が向かっている。勿論手の幾つかは無事にすり抜け、火車のすぐ近くまで迫った。

 車輪よりも先に爪が突き刺さる。そう閻魔でさえ思った。

 一瞬にして下から地面が盛り上がり、火車に迫っていた手が天井と板挟みになった。直後、全く勢いが衰えていない車輪が四つとも当たる。

 クトゥルフは一瞬耐えたが腹や顔にぶつかった車輪は尚も高速回転を続けた。その力に負け、閻魔を手放しながら吹き飛んだ。

 盛り上がった地面はすぐに元に戻り、車輪も帰ってくる。崩れるように落ち、げほげほと血を吐く閻魔に火車が顔を近づけた。

「……ふん、まさか儂がもう一人おるとはな」

 ざっと草履を鳴らし、閻魔の前に来ると膝をついた。手を差し伸べ、彼の身体を抱えあげる。

「火車、お前も傷がある。地獄へ戻れ」

 肩に担ぐと来た道を戻る。火車は壁にぶつかったまま項垂れているクトゥルフと、その大男の背を交互に見た。

『だいおう、よそもの、』

「平気だ。地獄の大門は八岐大蛇であろうとも通す事はない」

 火車はクトゥルフを警戒しつつも足を踏み出し、男の後について行った。

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