第2話 Re:鬼

 現世。関東某所。名も無き坊主は黒い着物に使い古した菅笠、それと百八十近くもある重たい錫杖を片手に歩いていた。

 シノビの熊吉から新たな妖怪の情報を貰った彼は、山奥の寺に娘を残して城下町の方へ向かった。腰につけた瓢箪と竹の水筒がぶつかり、小気味よい音が響く。

 暫く歩いていると賑やかな声が大きくなり、城下町に足を踏み入れた。ざっと辺りを見渡しつつ熊吉の言葉を思い出す。

「そこのお殿様が鬼を捕まえたらしい」

 質素と言えば質素な城を見上げ、息を吐いた。ただの人間が鬼を捕まえるなど無理な事だ。今回もまた嘘か勘違いだろう。

 名も無き坊主は名こそないが、かなりの法力を持った僧侶だというのは広まっている。三十という歳で老いた陰陽師と肩を並べる程だ。百七十と当時にしては大柄な体格に城の主は驚いた。

「その鬼は一体どこに」

 僧侶としての仮面を被りつつ訊いた。

「地下牢に繋いである」

 どうせ鬼みたいな見た目をした人間だろう……内心軽く苛立ちながら、さっさと済ませようと腰をあげようとした。

「ああ待て」

 呼び止められ、仕方なく座り直す。偉そうな奴だ。

「鬼だがな、その……」

 視線を泳がせる様子に手を揉む。

「なにか」

 丁寧にする気もなくなり、少し素に戻った。男は「いや、」と前置きしてから顔をあげた。

「自分は“閻魔大王だ”と最初に名乗ったらしくてな。今は随分と大人しくしているが」

 閻魔大王、その名前に眉根を寄せる。

「この先におります」

 少年の案内に錫杖を鳴らす。よく響いた。

「君は戻りなさい」

 軽く振り返って言った。「然し」とすぐには応じない。坊主は錫杖の頭をさげて視線をやった。

 少年はびくっと肩を震わせ、頭をさげると慌てて階段をあがって行った。ややあって視線を奥にやる。

 蝋燭の火だけが灯る暗い地下牢。だがふっとあがった片眼は赤く、蝋燭の火を反射していた。

「……お前、僧侶か」

 静かに反響する声。淡々とした酷く冷静な声音に坊主はすぐに反応出来なかった。

 その眉根は深く皺を作っており、鎖に繋がれた男を凝視していた。

「大王……?」

 小さく呟く。鎖が揺れ、音が鳴った。

「分かるのか」

 蝋燭の火が大きく揺らぐ。

「あ、え、ええ。然し、」

 ぽたりとどこからか漏れ出ている水が水たまりに落ちた。

「閻魔大王は二人もおりませんが」

 坊主の言葉に彼、閻魔は黒い手で鎖を掴んだ。

「ええっと……話を整理しますと、」

 名も無き坊主が所有している山奥の寺のなか、ぱちぱちと弾ける囲炉裏を囲み閻魔と対峙していた。七歳前後の孤児の娘はくノ一と一緒に城下町に行っており、寺には二人と一匹だけだった。

「そのくとるふ、というのがあなた様をこの世界に飛ばしたという事でしょうか」

「ああ。恐らくな」

 一先ず城から閻魔を連れ出しここまで連れてきたが、坊主は綺麗に剃りあげた頭を抱えていた。鬼だと言われて見せられた相手が閻魔大王と全く同じ気配で、しかも本人曰く別世界の閻魔だと……。

「はあ、なにがおきてんだ一体」

 遂に顔を覆ってしまった彼に、閻魔は外に続く廊下の方を見た。

「……あれは、龍か?」

 そこには猫程の大きさの黒い龍がおり、腹を向けて寝転んでいた。坊主は顔を覆ったまま肯く。

「お気になさらず」

 この寺には高僧が陰の妖怪だった龍ノ王を封印した仏具が眠っており、長い年月をかけて陽に転じた今は時々こうして、小さな姿で不意に現れたりする。とはいえあまりにも寛いでいる姿を見て気にしない方が無理な話だ。

「その前の世界、くとるふが用意したであろう世界ではかなりのその、」

「旧支配者」

「を倒したと」

「ああ。我の身内らが助けにきてくれてな」

 かなりの激闘だった。クトゥルフは取り逃したが、その時息子達が止めてくれなければ恐らく宇宙に放り出されていた事だろう。クトゥルフが逃げた直後に世界は壊れはじめ、閻魔達はすぐに元の世界へ引き返した。

 だがクトゥルフは諦めが悪いのか、それとも狂ったのか、彼らの世界に現れた瞬間閻魔を別の世界に飛ばした。その飛ばした先がここだ。

「新しく創造するだけの力はなかったのだろう。そのクトゥルフ自身も我を追ってこの世界に来るはずだ」

 変わらず淡々とした調子に坊主は額から手を離した。

「なかなか、有り得ない話ではありますが。生きたまま地獄にゆける私が言う事ではありませんね」

 ふっと諦めたように肩を揺らす。

「だから分かったのか。我が閻魔大王だと」

「ええ。最初は驚きました。あのお方がなにゆえこんな所にと」

 とはいえ、世界は違えど同じ神だ。坊主はここが現世ではないような妙な感覚に少し座り直した。

『娘が帰ってくるぞ。そこの、どうするつもりだ』

 いつの間にか起き上がった龍ノ王がふわふわと寄ってくる。年老いた男の声に坊主は少し考えたあと、閻魔には娘が来ない部屋で待っていてもらう事になった。

「ああ、構わん。幾つの子だ」

「え、七つか八つ頃かと」

 坊主の答えに閻魔は少し口角をひいた。

「大変な時期だ」

 おりとくノ一は食料を抱えて帰ってきた。勿論出迎えるのは坊主のみだ。龍ノ王は幻を消しており、本体である仏具のなかで本格的に眠っていた。

 形のおかしな大根を貰ってきたとくノ一が笑いながら見せる。おりは感情を表現するのが苦手なようで無表情だったが、坊主にはほんのりと笑っているのが分かった。

「おり、向こうで遊んでこい」

 閻魔のいる部屋とは反対の方を指して言った。ぶっきらぼうな言い方には慣れており、おかっぱを揺らして肯くととたとたと去っていった。

 一つ息を吐く。主の僅かな違いにくノ一が小声で問いかけた。

「なにか事でも起こりましたか」

 質素な格好だが、袖や襟元から覗く身体には筋肉の筋があり坊主と並んでも遜色はない。それでも村や城下町では少々体格のいい娘として馴染む事が出来る。

「いや、少しな。また暫くいねえかも知れねえ」

 首筋を撫でる様子にくノ一は眼を伏せた。自身が彼の事を好いているのもあるが、あまりおりに寂しい思いをさせたくない。

「分かりました」

 そのまま頭をさげる。

「また頼む、おりのこと」

 坊主は閻魔のいる部屋に行き、静かに襖を閉めた。座りつつ形式ばった謝罪の言葉を告げる。

「話の続きですが、」

 クトゥルフは確実に閻魔を狙ってくるだろう。既存の世界に飛ばしたのも、彼の身内が助けに来る危険性を加味してのことだ。

 だが奴が純粋に狙ってくるとは考えられない。この世界がどうなろうと構わないだろうし、確実に巻き込んでくる。そうなったら厄介だ。

「一旦、こちらの大王に伝えておいた方がいいでしょう」

「お前さんと一緒に地獄に行けないのか」

 閻魔の問いにかぶりを振った。一応現世のどこかしらに地獄の大門に繋がる場所がある。元々あれは黄泉の国の大門だからだ。だが流石に場所は知らないし、イザナキでさえ今はどうなっているのか把握していない。

 直接話すのが手っ取り早いが、不届き者が侵入している状況で現世から眼を離せる程肝は座っていない。坊主は一先ず龍ノ王に結界を強めてもらい、寺自体を少し見づらくした。

 その上で閻魔のいる部屋を囲むように札を貼る。

「何かありましたら鈴を鳴らしてください」

 襖をすっと閉める。静寂が流れる。閻魔はややあって息を吐き出し、懐から煙草を取り出した。今回は新品の箱だ。

 火をつけ、煙を吐く。既存の世界という事は、もし誰かが死ねば魂は消えるという事だ。もしかしたら自分も後はないかもしれない。

「……ちっ」

 腹が立つ。白い煙を怒りと共に吐き出した。

「おりちゃん」

 顔を覗かせると娘は一人で筆を手に遊んでいた。そっと近づいて覗き込む。

「あら、可愛いね」

 墨で描かれた絵は、丸い角の生えた何かだった。

「昔、見たことあるの」

 様々な方言が混ざった独特な訛り方でそう言った。おりは普通の人間ではない。坊主側の人間だ。まだその力は弱いし本人も自覚はしていないが、所謂“寄せやすい体質”というやつだ。

「へえ、ふわふわ浮いていたの?」

 くノ一はあくまでも仕事、彼の命令で娘の姉のような母のような立場を演じている。然し今では本当の妹のようで、その丸い小さな背中に眼を細めた。

「うん」

 ぽたっと筆の先から墨が落ち、紙にじわりと広がった。刹那、彼女らの後ろにある壁が破壊された。

 真っ先に反応したのはくノ一だ。袖口に手を突っ込んだ。然しがっと掴まれる。

 それは鬼のように大きな手だった。眼を丸くする。ぐっと引かれる。

 娘のわっと泣き出すような声に視線をやった。小さな身体が乱暴に掴まれている。

「おり!!」

 腹から声を出す。首筋に血管を浮かばせ、どうにか片手を動かした。

 懐から坊主の札が貼られたクナイを取り出し、自身を掴む手に突き刺した。瞬間藻掻くように反応し、身体が解放される。

 それなりの高さだが上手いこと受け身をとって着地した。すぐに顔をあげる。

 おりの泣き声が離れていく。くノ一はすぐにもう一本取り出した。瞬間、黒い影が横切る。

 一気に空高く飛んだ手。おりはわんわんと泣いてくノ一と坊主と龍ノ王を呼んだ。

 然し来たのは見知らぬ男だ。ふわっと匂いがした時、指がもぎ取られた。手が反射的におりを離す。

 溺れる時のような感覚に娘の顔は固まり、思考が停止した。

 ただ視界には手を蹴り飛ばし、こちらに来る男の姿があった。髪が風であがり、左眼が見える。

 おりは無意識に腕を伸ばしていた。その細い腕が呪いと傷に塗れた手に掴まれた。

 閻魔は娘を抱きかかえ、空中で体勢を立て直すとそのまま地面に向かった。土埃をあげて着地する。

 慌てた様子の坊主が先に駆け寄った。

「おり!」

 閻魔が降ろすと娘は膝をついた坊主に抱きついた。それを抱きしめる。

「すまん。俺がいたのに」

 ぎゅっと拳を握る。

「坊主様、すみません。私、」

 崩れた着物のままくノ一が呟く。手には札の貼られたクナイが残っている。

「いや、お前はただの人間だ。限界があらあ」

 少し鼻を啜る。

「それより、閻魔様」

 視線をやる。彼は空を見上げていた。

「ああ。我でも気配を感じるのに時間がかかった。相手は本気だ」

 一番非力なおりとくノ一を狙ってきた。閻魔は一息吐くと歩き出した。

「ここにいたらお前達を巻き込むだけだ」

 それに坊主が慌てて立ち上がった。だが軽く手をあげて制する。

「世話になったぞ」

 ざっと土を蹴る。坊主は去っていく背中を見つめた。

「とっさま」

 おりがぎゅっと彼のごつごつとした手を握った。

「ああ。分かってる」

 雲が流れ、太陽光がさす。耳につけた鈍い金色の耳飾りが光を反射した。

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