月の歌姫

鈴音

月の歌姫

月の歌姫

 ガタンと、コーヒーマグが音を立てて倒れ、中身がこぼれる。

 机の上に広げていた原稿用紙は、ただでさえ鉛筆で黒くにじんでいたのに、もはや使い物にならない。

 個人の趣味でやっているだけの創作だが、もうすぐでいいものが出来上がるというのに、なんという仕打ちか。

 やるせない気持ちで吐いたため息は、眠気とともに欠伸を誘い、落ちかけのまぶたの重みを増す。

 時計を見れば、すでに日をまたいでいた。寝ようかとも思ったが、頭に溢れるアイデアが睡眠欲を抑えつけてくる。

 何度目かわからないため息の後、上着と帽子を手に取った。こういう時は、外の空気を吸いながら散歩するのが一番いいのだ。

 サンダルをつっかけて外に出ると、夜風が少し、ひんやりと足首を撫でた。が、その刺激で目が覚めた。

 空を見上げると、可愛らしいうさぎが餅をつきながら、私を見下ろしていた。雲一つ、星一つも無い晴れ空は優しい光で包まれていた。

 財布も携帯も持たずに出てしまったので、歩いてしばらくの川まで行って、形のいい石でも探そうか。それとも、草でもむしりながらだらだらと過ごそうか……どちらにせよとっとと寝ればいいものを、無駄で埋める楽しみで蹴飛ばし、調子外れの鼻歌を連れ立っていく。

 ぶらぶらと、ときおり通り過ぎる車を運転する人間が何者か、勝手な妄想を膨らませて歩いて、いつもの散歩道にたどり着く。

 少し盛りあがった堤防のような形の土手に登り、両手を広げ、落ちないよう気をつけながら歩いていると、暗くて気づかなかった人影を見つけた。

 その人影は、どうやら傘をさしているらしい。くるくるりと回しながら、空を眺め、小さく何かを口遊くちずさんでいる。その歌声は、私のところまで聴こえてきた。

 どこまでも響いていきそうな、か細くも美しい、優しいソプラノの声。群青に染まったこの空間がまるで、その人のためにあつらえたホールであるかのように、そこにいることが当たり前のように、彼女は歌っていた。

 息を、瞬きをすることも忘れ聴き惚れていた自分に気づいたのか、その人ははたと歌うのやめ、こちらを向いた。月明かりに照らされる白磁のような肌に、空の星を全てちりばめたかのように輝く黒髪。にっこりと微笑む彼女は、どこか人ならざる気配を感じさせた。

「こんにちは。えと、そこにいると、危ないですよ。今夜はお星さまが降ってきますから」

 鈴を鳴らしたようなその声に気を取られ、すぐには理解できなかったが、彼女は今、星が降ってくると言ったのか?

「えぇ、そうですよ。今日は一年に一度のお祭り。私の会いたい人は遠い昔に亡くなってしまいましたが、それでもここにやってくるのは、流れてくる星を眺めるため。地球から見る星は、美しいのです」

 遠い目をする彼女をよく見ると、なぜすぐ気づけなかったのだろう、柔らかい紫の着物を、纏っていた。

 もしかして、彼女は……口にして、聞こうとした、そのとき。

「ほら、来ました。頭上注意です」

 彼女が指差した先。先ほどはまったく見えなかった星空が見えたかと思うと、それらはちかちかと瞬いて、次第に輝きを増していく。そして、次々にあちらこちらへと光の尾を引いて飛んで行った。

「宇宙の力持ちたちが、星のかけらを拾っては投げていくんです。彼らのせいで星は見えなくなっちゃうけど、こんなにむちゃくちゃな光景が見えるのも、彼らのおかげなんですよ」

 息を飲んだ。流れ星が右へ左へ。どころかぐるぐると回る姿なんて、異常にもほどがある。だが、それ以上に、踊っているかのように輝く姿が美しく、この異常なんて気にするのも馬鹿らしくなる。

「もうすぐ、終わりです。しっかり空を見ていてくださいね、最悪死にますから」

 ……死ぬ? 最悪死ぬって、なんだ? 彼女は突然、何を言い出したのだろう。傘をしっかりもって、地面にうずくまりながら、身を隠す。私は理解できず、立ち尽くしていると。

 どごん!

 ――足元のコンクリートが砕け、舞い上がった破片が頬を掠める。さぁっと体の芯まで冷たくなるが、頬を伝う生ぬるい液体で、すぐに正気に戻った。

 よく見れば、こちらに向かってくる綺羅星はいくつもあった。私はそれを必死に避けながら、何とか彼女の方を見てみると、傘から透明なバリアのようなものを出して、身を守っている。なにあれずるい。

 ずどん、ずどん、ずごごごごご。みるみるうちに地面は穴ぼこまみれになってしまった。

「いやぁー、毎年恒例とはいえ、やっぱり雑ですね」

 雑ですね。どころではない気がするのだが!

「実はですね、私みたいな月から来た人間って地球にいっぱいいるんです。ほら、私昔罪を犯して地球に追放されて、それから成長してまた月に帰りましたよね? そのときは記憶全部消えちゃったんですけど、近頃私の物語が地球で流行っていると聞きまして。それに感化されて下って行った人がいっぱいいるんです。

 でも、みんな困ったことがあって、月のうさぎが作るお餅が食べられない! って大騒ぎしちゃって。それで、年に一回地球の周りのデブリを投げ飛ばして掃除してから、バリアで包んだ餅を地球に投下するんです。もちろん、衛星や望遠鏡とか、そういったものをジャミングしたり記録をクラッキングして隠蔽して。

 そうそう、壊れたコンクリートも綺麗さっぱり直せるんですよ。そう、月の科学ならね。でも、地球の人でもサバイバルとか好きな人、いるでしょう? 私たちからすればそんな感覚なんです」

 ……はぁ。

 出てきた情報が、ごちゃつきすぎている。つまりは、なんだ。彼女は正真正銘かぐや姫で、彼女に憧れた月の人が地球で暮らしていて、ホームシックになった彼らのために、隕石のように餅を降らしていると。はぁ。

「ちなみに、地球の人にばれた場合は、要観察対象になります。こんなもの見た! って言いふらしたら……」

 ……言いふらしたら?

「ふふふ。もうお餅は降ってきません。いっしょに食べましょう? せっかくのご縁ですから」

 怖い怖い怖い!! なに、どうなるの?

「さぁ、それは私も知らないんですよ。ま、言いふらさなければいい話なのですから、お気になさらず。お茶もありますよ」

 ひょいっと飛び上がり、ふわふわ飛びながら、彼女は芝生へ降り立った。そして、地面に座りながら、ぽすぽすと隣に座るよう促してくる。

 私は、改めて目の前にいるのが、小さい頃からよく知るかぐや姫であることをようやく飲み込み、そのうえでどう接すればいいのかわからないまま、拾い集めた餅を持って彼女の隣に座った。

 彼女が懐から取り出した水筒の中身は、温かい緑茶。魔法瓶の中身を紙コップに注いで、大気圏突入で温かくなったお餅を食べながら緑茶を啜り、空を眺めていると、月のうさぎが楽しそうに手を振っていた。

 ほぅ。と、家を出る前とは少し違うため息をついて、色々考えたあと、まぁ生きてりゃこんな縁も出来るかぁ。と思考を投げ出して、彼女に質問をしたり、雑談を楽しんで、気づけば地平線は白く染まっていた。

 かぐや姫……ではなく、私は強く残った最初の出会いから、彼女を歌姫と呼び、最後に一つのお願いをした。

 またいつか、もしくは来年ここで会えたなら、いっしょに餅を食べながら、歌を歌ってほしい、と。

 それに対する彼女の答えを聞き、私はわずかに温もりを残す、うさぎ型の餅を片手に、家に帰った。

「私のために、不老不死になってくれると約束してくれるのなら、いくらでも。来年までに、お題を考えておきますからね」

 ……はてさて、私はどんな秘宝を、取りに行けばよいのやら。

 

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月の歌姫 鈴音 @mesolem

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