第26話 みかん
家に帰る。胡桃と聖子さんは仕事で不在。つまり、僕は今、推しの環奈と二人きりだったりする。長い黒髪は艶がありサラサラしている。キメ細かい肌に、大振りな瞳。ついでに胸も大振りだ。
「足りない足りない足りなーい! 三歩じゃ全然、足りなーい!」
と、環奈が僕を責め立てる。理由は、手を握るのが遅かったこと。頬を思いっきり膨らませて怒る環奈もかわいい。
「明日は、家を出るところからずっと手を繋ぎたーい」
「分かったから。そんなに顔を近付けないで」
顔中が熱くなって、頭がおかしくなりそうだ。
「そんなに投げやりに言われると傷付く。私ばっかり求めてるみたい」
環奈はプライドが高い。僕がしっかりして、ちゃんと満足させてあげないといけない。けど、環奈の手を握れるなんて、控えめに言ってサイコー!
「ちょっと、恥ずかしいって」
「じゃあ、練習しよう。今、直ぐ!」
と、環奈が笑顔で僕に手を差し向ける。ここは僕の家なのに、まるで推しの握手会に参加しているようだ。そうだった。環奈は超絶人気アイドルだった。
「美穂は、握手慣れしてるかもしれないけど、僕は慣れてないんだ」
「あら。私だって慣れてないよ」
中山環奈はアイドルなのに握手会もハイタッチ会もしてない。コメ返やおはなし会でさえ皆無。その辺のアイドルと一緒にしてはダメなんだ。
「そうだった。でも、どうして他のアイドルみたいに握手会しないの?」
人見知りなところはあるけど、僕ほどではないのに、なぜ? 環奈リストとしては是非とも聞きたい。
「社長が言うには、価格の折り合いがつかないんだって」
ビジネスのウラ事情だった。
「どういうこと?」
「はじめて油田をもらったとき、契約後に五十秒ほど握手したの」
「油田、もらったんだ」
はじめてってことは、何度かあるんだろう。
「小さい方だけどね。握手の秒単価を計算すると、油田の資産価値が……」
「……もう、いいよ。なんか、すごいことだけは分かった」
さすがは世界的な超絶人気アイドルだ。僕とは住む世界が違う。
「でも私、思うの。握手とか思い出って、プライスレスだって!」
ハードルがよけいに上がった気がするが、僕は頑張って環奈の左手を握ったんだ。とてもやわらかくて、あったかだった。
手を握り合う僕たち。何もしなくても大きな瞳を潤ませる環奈。
「勲君。家ではこの姿でいるから、環奈って呼んでほしい」
決して僕の沸点が低いわけじゃないのに、グツグツしてしまう。
「でっ、できないよ、そんなこと」
緊張してしまうのもあるが、呼び間違いを防ぎたいという理由が大きい。環奈の平穏な高校生活を守るためにはやむを得ない。
「私のこと、本当は嫌いなの?」
「そんなはず、ないよ。大大大好きだよ」
好き過ぎるし、今の状況が幸せ過ぎる。
「それって、ライク?」
「ラブです! ラブ!」
即答だ!
「じゃあ、環奈って呼んでよ」
顔を近付けないでくれ! 上目遣いしないでくれ! 瞳を潤ませないでくれ! 僕の膝に、右手を添えないでくれーっ!
「やっぱり、ダメだよ。自信、ない」
と、抱きしめたい気持ちを抑え、他所を見て言ったんだ。
「自信?」
「そう。自信がない」
「それって、私の愛を受け止められない的な? 料理が下手だから?」
「その点に関しては絶対の自信がある。料理のことだって、何とかなる」
環奈が作らず・よそわず・運ばずの、料理しない三箇条さえ守ってくれればいいだけだ。
「じゃあ、どうして自信がないなんて言うの?」
不安そうに訊いてくる。
「学校でうっかり環奈って呼んじゃったら、拙いだろう」
「じゃあ、勲君は私が平穏な高校生活を守るために、環奈って呼ばないんだね」
「そう、だね」
環奈は肩を下ろす。
「ごめんなさい。私、あさはかだった」
「いけないのは僕だよ。器用とはいえないから」
「ううん。勲君が二人のこと考えてくれるのに、私は私のことしか考えなかった」
と、しょぼくれる環奈。僕がもう少し上手く立ちまわれる自信があれば、環奈をこんな風にしょんぼりさせずに済むのに。何か、いい方法はないだろうか。
思案する僕の目に映ったのは、環奈の部屋着姿。スマホやタンブラーと同じ上品なオレンジ色。
「そうだ『みかん』って呼ぶのはどう?」
「みかん? 私はみかんが大好きだけど、どうして?」
「美穂の『み』に、環奈の『かん』で、『みかん』だよ」
「なるほど。それならいつどこにいても同じ呼び方でいいんだね!」
大発明だ。環奈がオレンジ色のアイテムをたくさん持っているのもプラスに働いてくれることだろう。
「じゃあ、早速。みかん?」
「なーに、勲君!」
「みかん」
「勲君!」
「みかん」
「勲君!」
楽しい。
カップルが長持ちする秘訣に、共通の趣味というのがある。僕と環奈に共通の趣味って何だろうか。体育祭に向かうときは、ダンスが共通項だった。だから、僕は環奈とダンスが踊りたくって、言ったんだ。
「ねぇ、みかん。ダンス教えてよ」
「勲君! ダンス上手になりたいの? だったらいいトレーナー紹介するよ」
親切過ぎて、思惑が外れてしまうが、へこたれない。
「みかんは教えてくれないの? 一緒に踊りたいのに」
「レベルが違い過ぎるでしょう。それに、初心者に人気の先生の方が上達が速い」
「違うよ。僕はみかんとダンスを踊りたいんだ」
「どうして? (あんなに低レベルなのに?)」
声に出てる! コレでも体育祭で優勝する程度には上手いんだ。
「みかんと共通の話題というか、趣味がほしいって思ったんだ」
「それが、どうしてダンスなの?」
「みかんはダンスが好きだろう?」
「うーん。強いて言えばキライかな。特に、誰かと踊るのはちょっと」
「ウソーん。あんなに上手なのに!」
言いながら、聖子さんの言葉を思い出す。環奈がダンスパートナーと呼んだことには、大きな意味がある的なことだ。体育祭優勝のためとはいえ、僕は環奈とダンスパートナーになったんだ。
「逆に、勲君はダンスが好き?」
「強いて言えばスキかな。特に、みかんと踊るのはとても!」
「ウソーん。あんなに下手なのに!」
少なくとも、ダンスは僕たち二人の共通項ではなさそうだ。と、なると。他の話題を探すしかない。何か、いい共通項はないだろうか。
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