第18話 エアペアダンス
五月十九日、日曜日。午前七時。
ホテルの部屋。
「お兄ちゃん。寝不足とか最悪だよ」
「すまん、胡桃。緊張して眠れなかったんだ」
胡桃にウソをつく。本当は、緊張なんかじゃない。僕は突然の号泣事件に巻き込まれたんだ。泣いたのは聖子さん。
「セーちゃん、セーちゃん。しっかりして!」
言いながら聖子さんに駆け寄る美穂。はじめ、聖子さんは全く応えないで、泣いてばかりだった。そのうちに、妙なことを口走るようになった。
「ミーちゃん。いたよ、私の王子様」
「セーちゃん、まだ、そんな子供のときのことを……」
何のことだかさっぱり分からないが、それは僕だけのようだ。美穂にも聖子さんにもはっきりと分かっている。その証拠か、美穂は僕のところに寄ってきた。
「セーちゃんがあんなだから、お願い、今日は部屋に戻って」
と、いつものように僕に有無を言わせない。それでも僕は引き退らない。
「何だよ。理由があるんなら、説明……」
「……お願い。退いて!」
二度目となると、従わざるを得ない。
「分かったよ。なんかあったらライナー送れよ」
「……」
美穂は無言だった。エレベーターに乗るときちらりと見ると、美穂が聖子さんに肩を貸していた。
部屋に戻ってしばらくは、ソファーに座り、ライナーを待った。夜中の三時をまわってから、美穂は一度だけライナーのチャットに連絡を寄越した。
『こっちは心配ないから、早く寝なさい』
素直に信じることはできなかったが、直ぐに『連絡、ありがとう。おやすみなさい』とだけ返事をしたんだ。そのあとも、ほとんど眠れなかった。
で、現在に至る。
「まぁ。気持ちは分かるけど……」
寝不足の理由について、疑われることはなかった。
「……兎に角、眠気覚ましにSPAへ行こう」
「うん。そうだね」
本当は、部屋から出たくはない。十八階に降りるなんてもっての外だ。もし、聖子さんと鉢合わせになったら、僕はどうすればいいんだ。皆目見当がつかない。美穂が悪い。そばにいながらほとんど様子を教えてくれないんだもの。
十八階。ちらりとフロントに目をやる。男性の職員が立っているのが見える。聖子さんはいない。ホッとする自分に腹が立つ。何で僕は、聖子さんのことをもっと心配してあげられないんだろう。
「……お兄ちゃん、お兄ちゃんってば」
「何だよ、胡桃」
「何度呼ばせたら気が済むの?」
「二回、かな」
「九回だよ、九回。本当に大丈夫?」
愚かにも胡桃にまで心配をかけてしまう。しっかりしないといけない。
「ごめん。今度からは二回以内に返事をするから」
「二回ねぇ。頼みますぞーっ、カメラマン氏!」
「そうだった。カメラ持ってきてないぞ。どうしよう」
「そんなの、スマホで充分じゃない?」
「高性能カメラ付なら兎に角、僕や胡桃のじゃ解像度が悪過ぎる」
「環奈ちゃんが持ってるのを借りればいいんじゃないの」
「それでも、一台じゃ足りないよ」
「どうして?」
「環奈ちゃん用に胡桃用に、食材用」
「たしかに。じゃあ、買っちゃいますかぁ!」
胡桃は、普段は節約家だけど、ここぞというときには財布の紐を緩める。思い切りがいい。だが、僕に言わせれば、今は買い得ではない。
「やめておこうよ。おまけのA4ポスターはなくなっただろうし」
「だったら直接、スマホにサインして貰えばいいじゃん!」
「サインのお願いなんて、できないよ」
「婚姻届じゃあるまいし、サインくらいしてくれるって」
命知らずだな、胡桃は。
九時過ぎ。
僕たちはスマホショップにいる。
「それでは、こちらの高機能スマホ、二台でよろしいですね」
「はい。よろしくお願いします」
胡桃は二つ返事だけど、僕の目玉は飛び出そうだ。二機分とはいえ、七桁の買い物なんて、はじめて。胡桃ったら、一体、いくら溜め込んでるんだ!
「ボディーカラーはこちらの十二色からお選びください」
「私は緑色。お兄ちゃんも好きなの選んで」
言うや否や、胡桃はアクセサリー売り場へ行って物色しはじめる。
僕はひとりで色見本を見る。仮にだけど、環奈ちゃんがサインしてくれるとして、何色のボディーが映えるか、考えてみる。最悪なのは、一番上にある黒。サインが目立たない。白もダメ。目立ち過ぎだ。
そうしているうちに、ちょっとした違和感を覚える。
「あのー、他の色はないんですか?」
「当店はメーカー品の全色を取り揃えております」
そんなバカな。わざわざ塗り替えるような真似を美穂がするとは思えない。
「おかしい。あるはずなんです。上品なオレンジ色のスマホ」
「はぁ。そういえば、試作機の一つがオレンジ色だって聞いたことがありますが」
試作機? なんで美穂が持ってるんだ? 違和感が、大きな疑問になる。
アクセサリーを選んでいた胡桃が呼ぶ。
「お兄ちゃん。早く選ばないと遅刻するよ!」
違いない。色のことなんてどうでもいい。僕は慌てて一番上の色を指差す。
「黒ですね。お待ちください」
しまった。一周まわってサインの目立たない色を選んでしまった。もし仮に、サインしてもらえる流れになっても、サインが目立たないじゃん。色を変えてもらおう。うん、そうしよう。シルバーがいい!
店員さんが戻る。
「お待たせいたしました。こちらをどうぞ」
言いながら黒いスマホとおまけをくれたんだ。筒型の容器に入ったおまけだ。
「えっ、A4ポスター!」
「はい。なぜか黒は人気がなく、初期ロット生産分が一つだけ残ってたんです」
なんという偶然か、ラスワンをゲットしたんだ。
十時ちょっと前。ヴィラの一室が僕たちの楽屋代わり。
「参った。変な汗、かいてきた」
「ポスターにサインもらうだけで、どうしてそんなに緊張できるの?」
「だって……だって……だって……」
もう直ぐ環奈ちゃんに会えると思ったら、兎に角、緊張する。
「サインのおねだりなんかしたことないし、相手は環奈ちゃんだし」
「環奈ちゃん、お兄ちゃんとは同い歳だよ」
「だって……だって……だって……」
会いたい。けど、逃げ出したい。いつどこから見ても美少女って、目のやり場がないじゃん。あー、緊張する。緊張して、筋トレせずにはいられない。
「お兄ちゃん。どうせなら踊ったら、体育祭のダンス!」
胡桃は言いながら、スマホから音を出す。ダンスナンバーだ。僕の身体は反応してしまい、体育祭のペアダンスを踊りはじめる。ソロで!
「二曲目、いっちゃおーう!」
「おい、胡桃。人を操るんじゃないよ」
「いいから、いいから。レッツダーンス」
「レッツって、ひとりじゃん!」
「文句言わないの。変な汗より余程いいから」
「たしかに。そうかもしれないな」
こうして、僕のエアペアダンスは続いた。はじめは必死で固い動きだったけど、次第に身体がほぐれて馴染んでくると、頭も冴え美穂に教わったことを先回りして思い出せるようになった。そしてついには自分でも納得のダンスができるようになった。
実に五回目のダンスが終わったとき、僕は拍手に包まれた。
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