第13話 エンカウント

 五月十八日、土曜日。午前九時十分過ぎ。


 名古屋の高級ホテル。


 僕は、なんてバカなんだ。胡桃が思い詰めているとき側にいないだなんて。胡桃の苦難を少しでも背負ってあげないといけないのに、欲望に負け、SPAに行った。そして、スマホを忘れてしまったんだ。




 昨夜、僕と胡桃は部屋の豪華さに目を奪われた。慣れてからはベッドにダイブしたり、ウォークインクローゼットに寝転んだり、やりたい放題だった。そして胡桃がテーブルの上に一通の手紙を見つけたんだ。


 手紙にはこうあった。


『遠路、ご苦労様です。

 明日の正午から午後四時まで、以下のところで会いましょう。

                             中山環奈』


 丁寧な手紙には続きがあった。住所だ。胡桃は検索すると、直ぐにスマホを落としてしまった。


「どうしたんだ、胡桃」

「お兄ちゃん、どうしよう。環奈ちゃん、このホテルにいないかもしれない」


 どういうことかと、胡桃のスマホを見る。地図が示しているのは、大きなヴィラ。このホテルよりも格段に豪華で、広い。ぬかった。ホテルでは一位でも、宿泊施設全体で一位ではなかった。


「どうしよう。やっぱり私、芸能界から消される。今日が、最後の晩餐」


 動揺している胡桃を、何とかして励ましたい。


「そんなことないよ。環奈ちゃんはこのホテルにいるに決まってる!」

「だったら、どうしてこんな豪華なヴィラに呼び出されるの?」


 胡桃はその場でしゃがみ込んでしまった。肩を抱いてベッドに移し、眠るまでそばにいたのは、昨夜のことだ。


 今朝になって、胡桃は元気に振る舞っている。けど、僕には分かる。本当はまだ、落ち込んでいる。僕に心配かけまいと、元気に振る舞っているだけ。空元気だ。だから、少しでも長く、そばにいてあげたかった。それなのに僕は、胡桃に勧められるままにSPAに行ったんだ。それがいけない。


 全部、僕のせいだが、後悔してもはじまらない。一刻も早くスマホを見つけ出し、胡桃の元へ戻るんだ。




 一階からのエレベーターは全て十八階止まり。ホテルの部屋に行くには、一度エレベーターを降りて、ホテル専用のエレベーターに乗る構造になっている。スマホを忘れたSPAは十八階にある。営業時間は午前九時まで。清掃中で入れないかもしれないが、直接向かうことにする。


 十八階にはフロントもある。SPAに忍び込むのにホテルの人に気を取られている暇はない。素通りしようと思ったが、そうはならない。


「あっ、お連れさん。どーしちゃったの?」


 美人のフロントさん。とてもフレンドリーだが、油断は禁物。相手はホテルの人。営業時間外のSPAに行くと知られたら、つまみ出されるに違いない。


 慎重に言葉を探す。


「ちょっと、SPAに行こうと思いまして……」


 しまった! 一周まわってSPAって言っちゃった。忘れ物と言えばよかったのに、どうしよう。きっと、つまみ出される。


「ミーちゃんもさっき向かったよ。しっかり背中を流してきてね」


 え? ミーちゃんって誰? 忘れ物のことは言ってないのにどういうこと? 背中を流してきてって、入浴OKって意味? SPAに行っていいってことだよな。きっと僕を誰かと勘違いしてるんだろう。


「ありがとうございます。それでは行ってまいります」


 深々とお辞儀。胡桃が心配だから余計な詮索は抜きにして、先を急ぐ。かといって走るのは危険だし迷惑だから、急いで、ゆっくり進む。帰宅部でよかった。


 背後から。


「あっ、待って、お連れさん!」


 ピタリと足を止める。急ぎ過ぎて怪しまれてしまったに違いない。そっと振り向き、いろいろと言い訳を考える。どうしよう、どうしよう、どうしよう。


「はい」


 先ずは短く、様子をうかがう。もちろん、スマイル、スマイル。


「お楽しみには、これが必要でしょう!」


 言いながら渡してくれたのは、バスタオルとハンドタオル。アメニティもたっぷり。あれ? ますます分からない。本当に入浴していいの? この時間、SPAは清掃中で立入禁止のはずなのに。


「あっ、ありがとうございます?」

「いいよ。それより、ミーちゃんのことよろしくね」


 いろいろな誤解を解きたいけど、今はそれどころじゃない。胡桃を一人で待たせてるんだ。急がないと!




 僕は、美人のフロントさんの死角に潜り込む。疲れた! 緊張のためか、足腰はガタガタだ。中腰になり膝に手をつき、上がった息を整える。


 そのときになって、胸騒ぎがしたんだ。角をもう一つ曲がった先に、途轍もない美少女を感じる。誰?


 僕は、次の角を曲がる。あり得ないエンカウントに、息を呑む。


 長い黒髪はツヤツヤでサラサラ。衣服からはみ出す肩や二の腕の肌は透き通るように白くてキメが細かい。後ろ姿でも角の手前の数倍オーラを感じる。問題は、衣服。環奈ちゃんのピンク色のステージ衣装だ。あっ、あり得ない!


「あっ、あれーっ」


 と、素っ頓狂な声をあげる。環奈ちゃんに聞いてもらう僕のはじめての声がこんなに間抜けだなんて、死んでしまいたい。死に戻って、角を曲がって直ぐに『こんにちは、お嬢さん』と、爽やかに凛々しく言い直したい。


 環奈ちゃんが足を止めて振り向く。バスタオルとハンドタオルに、たっぷりのアメニティーを抱えている。残念ながら顔の下半分は見えない。上半分は、間違いなく環奈ちゃん……じゃ、ない。


 たっぷりのアメニティーで気になるそばかすがいい感じに隠れてるが、大きな黒縁メガネは見慣れている。


 空気が張り詰める。遠く離れた名古屋の高級ホテルで、しかも営業時間外のSPAへ続く通路で、パンケーキの件以来の鉢合わせ。


「何で橋本さんが? しかもその衣装、ひょっとしてイベント参戦?」


 美穂は、僕の問いかけに特大のため息で返す。張り詰めていた空気が一気に吹き消される。


「はぁーっ。そう、サプライズイベントよ」


 環奈ちゃんのサプライズイベント! 上級者となればコスプレして参戦するって聞いたことがある。まさか、美穂がそうだったとは。しかも、環奈ちゃんのパーソナルカラー。自信がないと着れないやつだ。


「そうか、そうだったのか。それで早退してたのか」

「まぁ、ね。ここ最近、イベントが多くって大変なのよ」


「普段の上品なオレンジ色もいいけど、ピンクもガチっぽくていいよ」

「そう、かしら。私も本当はオレンジ色が好きなのよね。ありがとう」


 美穂は言い終わるや立ち止まっていた時間を取り戻すように早足に歩き出す。僕は追いかけながら言う。


「いやぁ、昨日は言い過ぎたよ。ごめんなさい」

「いいのよ。はっきり言ってくれる方がいい」


「あっ、そうだ。この先のSPA、営業時間外だよ」

「そうなんだ。でも大事な人に会う前にイベントでかいた汗を拭っておきたいの」


「つまみ出されるぞ! 僕は忘れたスマホを取りに行くだけだからいいけど」

「そうなの? 山のようなアメニティーは使わないの?」


「使わない。フロントさんにもらったんだけどね」

「あー、フロント」


「橋本さん。もし、つまみ出されそうになったら僕の名前を出して」

「宮崎勲って名前に、何かご利益があるのかしら」


 美穂が言い残して女湯と書かれた暖簾の奥に消える。僕は先には進めない。


「あるかもしれないし、ないかもしれないからー」

「へー」


「何か困ったことがあったら、ライナーで連絡しろよー」

「…………」


「二十五階の、ジュニアスイートツインだぞー」

「…………」


 もう聞こえてないのだろう。


 このあと、立ち入り禁止の看板が掲げられた男湯のSPAに侵入。スマホをみつけ、一階の胡桃のもとへと急ぎに急いだ。

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