第11話 パンケーキ
五月十七日、金曜日。
体育祭まで十日を切ったが、僕はいまだに美穂と踊れてない。理由はクラスのみんなのダンス練と美穂の早退。ここ一週間は毎日だ。うちの学校は単位制で、出席には厳しくない。胡桃も仕事の関係で遅刻・早退することは多い。とはいえ、これほどではない。
美穂は一体、早退して何をしているんだろう。反対に、何で朝はわざわざやってくるんだろう。今日こそは、確かめようと思う。ペアダンスの約束も!
そのためには、最初が肝心。
「おはようございます、師匠!」
「おっ、おう。おはよう」
麦茶牛乳を渡すまでの僅かの間、美穂は僕を師匠と呼び、僕は美穂と呼ぶことが許される。けど、クラスメイトがいるのにファーストネームで呼ぶのは恥ずかしい。口ごもってしまい、出鼻をくじかれる。
「では、師匠。こちらのタンブラーは持って帰らせていただきます」
あとに続く言葉は『おやすみなさい』というのがいつものこと。けど、今日はちょっと違ったんだ。
「あっ、そうだ。お昼、一緒に来てほしいんだけど」
美穂から誘われるとは思ってもいなかった。あまりのことに、僕は驚きを隠せない。お昼にすることっていえば、この時期、ペアダンス以外にない。クラスのみんなが本気になっている。息を合わせて練習している。特訓したとはいえ、僕たちだけがサボッてていいはずがない。
早退の理由は兎に角、ようやく叶うんだ。美穂と、踊れる。
「じゃあ、おやすみ」
僕の返事を待たずに、美穂は眠ってしまったけれど。
お昼。
椅子が床に擦れるキーッという音が聞こえる。背後を向く。荷物を全部まとめた美穂がこっちを見ている。
「おそい。こっち」
短い言葉に、僕はギリギリ反応、美穂に続こうとする。
「お弁当、持ってかないの?」
「あっ、あぁ。そうだね」
慌てて弁当とタンブラーを持って、美穂に続く。お昼って、お弁当? 選択肢にも上げてなかったけど、時間は充分にありそうだ。今日こそダンスに誘う。
階段を駆け降り、玄関で革靴をピックアップし、渡り廊下を歩く。先にあるのは体育館。人気の弁当スポットの一つだ。美穂は、体育館も素通り。裏門の直ぐ近くの木まで進む。スクールバッグの中から小さいレジャーシートを取り出す。
「はい」
と、僕に渡す。自分で拡げようとは思わないようだ。さすがの女王様気質。
「この辺で、いいか?」
「冗談。私は木陰がいいのだけど。日焼けはイヤ」
『なら自分で拡げなよ』と言う代わりに息を吐き、リクエストにお応えする。美穂が膝を崩して座る。スクールバッグの中から弁当箱を取り出す。胡桃のよりも小さく、きれいなオレンジ色をしている。どうしても近くなってしまうが、適当なところにポジショニングする。脚が不意に触れないように、正座だ!
「私が作ったのよ。食べて!」
という掛け声とともに、オープン。入っていたのは、黒焦げの物体だった。
「なんだ? お煎餅?」
「失礼ね、ホットケーキよ。何日も練習したんだから、食べて」
ホットケーキ、美穂らしい表現だ。
美穂は自画自賛だが、お世辞にも美味しそうと言えない。なんの罰ゲームかとさえ思ってしまう。はなしを合わせておだてるべきか、はっきり真実を伝えるべきか、悩ましい。少なくとも見た目は、胡桃の初期のパンケーキにそっくりだ。
そうだ。昨夜、胡桃とはなしたことを思い出した。僕は胡桃の作るパンケーキを文句を言わずに食べた。なるべく元気に、美味しそうに食べた。そして味から成分を分析、卵はしっかり撹拌しようとか、粉はざっくり混ぜようとか、一度に一つアドバイスした。結果、パンケーキは胡桃の得意料理にまでなった。
美穂にだって通用するはずだ。黙って食うべし!
「いっ、いただきます」
料理は見た目じゃない。味だ。食べる前に尻込みしていては、はじまらない。勇気を出してフォークを刺す。その時点で不味い。空気感が皆無。
食べる。予想を裏切らない味だ。全部食べるのにも難儀しそうだ。
「で、どうだった? 一応、感謝の気持ちを込めて作ったんだけど」
当たり前だけど、感想を求められてしまう。感謝って、麦茶牛乳のことだろうか。分からないが、美穂の努力には報いたい。
「全部食べてから言うよ」
卵の撹拌具合はまあまあ。焦げが苦手な人にはムリな味だ。ちょっと甘過ぎる。かと思うと苦い。意外に複雑な味だ。
「何人にも味見してもらい、昨日、はじめて全部食べてくれる人が現れたのよ!」
「そう、なんだ」
「その人は卵を充分に撹拌するようにと教えてくれたの。だから、自信ある!」
なくて結構。それまでの何人かは、途中で挫折したんだろ。美穂は気付いてないが、破壊力があり過ぎる。昨日、全部食べた人を恨まずにはいられない。
「他の人たちは食べ掛けで『美味しい』とか言ってくれたんだけど、信用できない」
「そう、だよね」
全部食べてくれる人がいるからって、美味しいとも限らないじゃん。たしかに、いいアドバイスをもらったんだろう。真摯に向き合い改良した美穂も偉い。あと七、八回アドバイスを繰り返せば、美味しいパンケーキになるかもしれないし、ならないかもしれない。
頑張って、完食する。
「で、どう?」
美穂は片付けるなり、言う。大きめの黒縁メガネの奥の瞳が真剣に僕を見る。正しいことを言わないと失礼にあたる。かといって、言い方を間違えれば言葉が届かない。こういうのは苦手だけど、必死になって褒めるところを探す。
「うん。小麦の香りがするね。あとは、ふっくら仕上がればいいんじゃないかな」
「たしかに。でも、ああいうのってプロならではの技なんでしょう」
なっ、なにぃー。
「冗談じゃない。家庭用のコンロでだって、ふっくらさせることができるよ。たとえば、粉を混ぜ過ぎないようにする。あまり混ぜるとグルテンがたくさんできてしまい、重曹が負けてしまうんだ。それから、表面を焼き過ぎないようにするのも大事。火が通り過ぎると水分が逃げてしまうんだ。どうせひっくり返すから、表は焼き色が付く程度でいいんだ。それからそれから、隠し味程度にマヨ……」
しまった! 言い過ぎた。冷めた目付きの美穂を見て気付く。これでは聴く耳を持ってくれないだろう。
「隠し味に、何ですって?」
おやっ、意外に聞いている? 目付きは鋭いけれど。
「マッ、マヨネーズを少々、入れるといいんだ。美味しくなるよ」
「よーく分かったわ。私のホットケーキが不味かったってことが」
美穂はご立腹のご様子。何を言ってもむくれっ面は変わらないのだろう。取り付く島がない。少なくとも、ダンスに誘うきっかけはなさそうだ。っていうか、言い過ぎたことを謝らないと。
遠くからチャイムが聞こえる。弁当タイム終了と三十分の昼休み開始の合図。美穂が急に動き出す。素早い!
「いっけない! もう、こんな時間。私、帰るから!」
「え? レジャーシートは?」
「いつかリベンジするから、それまで持ってなさい」
「えーっ……」
こうして美穂は裏門から一目散に帰ってしまった。早退するなら言っといてくれればいいのに。僕が美穂と踊れる日は遠そうだ。
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