第10話 首尾

 五月九日、木曜日。


「で、首尾は?」


 胡桃に麦茶牛乳を渡しながら言う。


「随分と雑だね、お兄ちゃん」

「疲れてるんだ。ここんとこ、ずっとダンスの特訓だから」


「あれ? 鬼のダンス練はゴールデンウィークで卒業したんじゃなかった?」

「胡桃、僕と橋本さんだけがキレッキレのダンスをして、勝てると思うか?」


「たしかに、厳しいかもしれないね」

「だから今は、僕がクラスのみんなにダンスを教えてるんだ」


「お兄ちゃんが、ダンスを? それは大変だね」

「師匠の命令だ。胡桃、少しは兄の偉大さに気付いてくれたか」


「胡桃は元々、お兄ちゃん肯定派だよ」


 うれしかったから、胡桃の頭を撫でる。


「で、首尾はどう? 麦茶牛乳作戦!」

「お兄ちゃん、この麦茶牛乳にかけて言うよ!」


「おっ、おう……バッチコイ!」


 身構える僕に胡桃は真顔だった。だから余計に素っ頓狂な声をあげてしまう。


「失敗!」

「へ?」


「だから、大失敗。兄妹揃って轟沈したよ。さっぱりしたーっ」

「うれしそうに言うな」


「考えてみなよ、お兄ちゃん。麦茶牛乳って、誰にでも作れるでしょう」

「たしかに」


「環奈ちゃん、麦茶牛乳の入ったタンブラーをそれは大事そうに持ってたよ」

「まじか」


「胡桃の勘だけど、きっとカレシか思い人が作ったやつだよ」

「そう、なのか」


 環奈ちゃんにカレシがいても、一つもおかしいことはない。僕が環奈ちゃんと会えると思っている方がおかしい。だけど、環奈ちゃんのカレシがどんなヤツか、想像したくはないものだ。


「上品なオレンジ色のタンブラー。ちょうどそこにあるようなやつ」

「あー、それは橋本さんのだ。同じのを二つ持ってるらしい」


「さすが、橋本先輩専属の麦茶牛乳ソムリエ!」

「よしてくれ、その呼び方。不本意でしかたない」


「いいじゃん。お兄ちゃん、モテるぅ。ヒューヒューッ!」

「麦茶牛乳作らされて、ダンスのコーチをやらされてモテてるとは言わない」


「誰だって好きな人の作ったものを口に入れたら、幸せを感じるはずだよ」

「そういうの、感じるようなやつじゃないんだぞ」


「そうかなぁ。環奈ちゃん見てたら、絶対にそうだって思ったけど」

「嫌なことを思い出させるんじゃないぞ、胡桃」


「お兄ちゃんが惚気顔だったから、揶揄いたくなったんだよ」


 一本取られた。取られたら取り返すつもりで言った。


「そういえば、兄妹揃って轟沈って言ってなかったか?」

「耳ざといね、お兄ちゃん。理由は二つ。一つ目はID。ゲットに失敗したよ」


「轟沈だな」

「かなりガード固いよ。ここにもカレシの影が迫ってる」


「なんて黒い影だ! うらやま……許せない」

「本当、ドス黒いね。ま、交換したあとブロックされるよりマシだけど」


「発想が捻くれ過ぎだぞ。で、二つ目は?」


 胡桃が下を向く。元気なくぼそぼそと言う。


「パンケーキ」


 ぎりぎり聞き取れる。


「また持ってったのか?」

「いいや」


「作り方、教えたのか?」

「いいや」


「じゃあ、何でパンケーキなんだ?」

「もらったの、環奈ちゃんの手作り!」


 まじか! 全然、敗北じゃないじゃん。むしろ勝ち組だ。環奈ちゃんの手料理をご賞味させていただけるなんて、羨まし過ぎる。ただし、ネットの噂だと環奈ちゃんは大の料理下手。噂だけど。


「おいっ。胡桃、お土産はあるのか?」

「ないよ。一人一枚しかなかったから」


「いやっ、普通に羨ましいぞ。僕だったら、たとえ不味くてもお代わりする」

「本当に? あれは度を越してたよ。さすがにお代わりする気にはならない」


「そんなにか?」

「胡桃以外の誰も完食しなかった」


 そんなにだった。噂以上なのかもしれない。


「胡桃は完食したのか」

「もちのろん」


「偉いな、胡桃は」

「まぁ、味に関してはとやかく言うつもりはないよ」


 これは、相当に不味かったんだろうな。腕を組みながら胡桃が続ける。


「環奈ちゃんが一生懸命作ってくれたんだから、最後までいただく」

「だったら、どうして敗北?」


 分からないが、胡桃がフゥーッと息を吐くのを見て、深刻さが伝わってくる。


「『胡桃さんって、ホットケーキはお好きかしら?』って言われたのよ」

「それは……辛いな」


 先日、胡桃は差し入れにパンケーキを持って行った。誰からも褒められる胡桃の得意料理だ。ライナーで交換したという写真にも、思いっきりパンケーキが写っている。豪快にガブりつく姿だ。


 ところが、環奈ちゃんはすっかり忘れていたのだろう。記憶の欠片が微塵もないのだろう。あるいは、胡桃と会った記憶ごと。


「動画一本で数億稼ぐ環奈ちゃんにとって、胡桃なんか眼中にないってことだよ」


 芸能界のヒエラルキーはよく分からないが、胡桃の落ち込みは激しい。


「胡桃。僕は胡桃のふわふわもちもちなパンケーキ、大好きだぞ、うん」

「本当?」


「もちのろんだ。僕は胡桃のパンケーキの歴史を知ってるからな」

「そうだよ。私だって最初はヘタクソだった」


「でも、一度だって不味いと思ったことはないよ」

「お代わりしてほしくって、試行錯誤したんだ」


「だから僕はパンケーキが大好きなんだ!」

「お兄ちゃんのそういうところ、胡桃、大好きっ!」


 麦茶牛乳作戦は何者かの黒い影に阻まれ失敗に終わったけど、僕たちの兄妹仲は今まで以上に深まった。

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