第9話 言葉

 ゴールデンウィーク中、僕はライナーを通してどれほどの新しい美穂に出会っただろうか。美穂は麦茶牛乳を作るとき、僕のことを師匠と呼ぶ。元々凝り性のようで、麦茶牛乳を作るためだけに、大袈裟にもエプロンを着けていた。


「何を言ってるの。衛生管理は大事よ」

「で、ですよねぇ」


 としか言えなかったが、この時点で下が水着のみなのは明らか。そばかすだらけの顔面に反してツヤツヤで瑞々しい肌が見え隠れしていた。癒しを感じる眠れる教室の美少女とは打って変わった、大胆な一面だった。


「そっ、それで。宮崎師匠」


 しおらしく言われたときも驚いた。これも美穂の新しい素顔だった。


「麦茶牛乳の作り方を教えてくれる間は、私のことを美穂って呼んでください」


 胡桃以外の女子をファーストネームで呼ぶなんてはじめてだ。


「わっ、分かったよ美穂。それじゃあ、まずは麦茶を用意して」

「はい。師匠!」


 こうして、麦茶牛乳教室がはじまり、あっという間に終わった。


「いただきます、師匠」


 右を向く美穂。コップを右手で抱くように持ち、下から左手を添える。一口毎に首が上がり、同時に腰から上が逸れていく。その結果どうなるかといえば、美穂の胸は自然と左側、カメラに向かう方向に圧し出される。エプロンの脇の隙間から、大きさと丸みがはっきりと分かる。つい、見入ってしまう。


「一味足りない気がします、師匠!」


 気合い充分だ。


「砂糖が少なかったんじゃないか?」

「さすがです。明日は砂糖多めに挑戦します。ご馳走様でした、師匠」


 明日もやると聞いて、心地よかった。


「それじゃあ、今度はダンス練! 頑張ろうな、美穂!」


 僕なりに張り切ってみせたのに、美穂の目つきが変わった。ちょっと怖い。


「師匠を呼び捨てにする弟子がどこにいるの。言い直しなさい!」


 怒られた。麦茶牛乳を作っているときはあまあまだったのに。ダンス練がはじまると、まるで鬼のように厳しい一面を覗かせたんだ。


「音をよく聞ききなさい」

「はいっ、師匠!」


「もっと情熱的に」

「はいっ、師匠!」


「一歩目から大きく、シャープに動く」

「はいっ、師匠!」


 美穂の指導は的確で分かり易いのに、驚きはない。ダンサーとして修練してきたことが分かるから。けど、驚くべきはカメラワーク。固定されたカメラの首を上下させたり、立ち位置を前後させるだけで、狙った筋肉が大写しになる。何年も修練していないとできないはずだ。どうやって能力を開花させたんだろう。


「余計なことを考えない。ダンスに集中!」

「はは、はいっ、師匠!」


 こんな具合に特訓はゴールデンウィーク中ずっと続いた。




 そして迎えた五月七日、火曜日。朝。


 教室の片隅。


 十日間に及ぶ特訓の成果で、コツを掴んだ僕はキレッキレのダンスが踊れるようになっていた。ダンス練、卒業だ。


 それでも今朝、美穂とビデオ通話をした。理由は麦茶牛乳作り。美穂はまだ美穂の目指す味に辿り着いていない。要領が悪いのか、理想が高いのか、あるいは僕の指導力不足。かわいそうだから差し入れする。


「はい、橋本さん。コレ飲んでよ」

「まずは、ありがとうと言っておくわ。で、なんなのよ」


 上からくるのは相変わらずだ。僕は棒読みで返す。


「どういたしまして。麦茶牛乳ですよ」

「そう。麦茶牛乳作りは難しいのよ。これが美味しいとは限らないわ」


 味の好みは人それぞれ。そのときそのときによっても違うもの。だけど、美穂に渡した麦茶牛乳は特別製、甘さ控えめのスペシャルブレンド。かつ、麦茶も特別な銘柄だ。自信がある。


「まぁまぁ。とりあえず、一口どうぞ」

「じゃあ、遠慮なく。いただきます」


 美穂は言い終わるやゴクゴクと飲みはじめる。はじめはゆっくりだったけど、徐々に豪快になる。そして、気付いたときには飲み干していた。


「ご馳走様、師匠!」


 あまりの飲みっぷりに、僕は唖然としてしまう。教室でもビデオ通話でも今までに観たことのない、美穂の素顔だ。


「おっ、お粗末様です」

「ところで師匠、そちらの黒いタンブラーは?」


 師匠呼びが続いている。警戒しなくては。


「むっ、麦茶牛乳だよ、僕用の」

「なるほどー。美味しそうですね、師匠」


 中身は同じ。


「まぁ、ね」

「美味しいに決まってますよね、師匠」


 僕のタンブラーを美穂がジーッと見つめる。


「分かったよ。これが最後だから、ゆっくり飲んでよ」

「師匠! ありがとうございます。念の為に聞きますが、口つけてないですよね」


 つけてません。


「もちろんだよ。お昼にとってあったんだ」

「そうでしたか。さすがは師匠です。お返しに、こちらをどうぞ」


 差し出されたのは美穂のオレンジ色のタンブラー。中身はグレープフルーツジュースとのことだ。口はつけてないと、念を押される。


「ありがとう」

「と、いうことで、宮崎君、あとはしくよろ。おやすみーっ」


 最後はタメ口で深い眠りについた。いつもの、眠れる教室の美少女。やっぱり美穂は、これでいい。




 眠れる教室の美少女を鑑賞できるのは相変わらず一日に数えるほどしかない。美穂のいつもの、最も美しい寝姿を観て思う。ちょっと物足りない。もっと動いたり、感情を露わにする美穂の姿が観たい。たとえ美少女じゃなくっても。言葉を交わすことなく、プリントをまわす僅かの時間に一喜一憂していたころは感じなかったことだ。


 僕は、美穂の前で美少女鑑賞者の矜持を忘れかけている。

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