第8話 二兎

 風薫る五月の三日。午後八時過ぎ。


 リビングのソファーをベッドにして、僕は水着一丁で腹ばいになる。上には胡桃が乗っている。


「で、お兄ちゃんはかわいい妹をなんだと思ってるの?」

「しかたないだろう。ダンスっていうのは筋肉を使うんだから」


「だからって一週間も連続で胡桃にマッサージをさせるなんて、酷い!」

「ポスターの埋め合わせ、何でもしてくれるって言ったよね」


「それは言ったけど、お兄ちゃんの鬼!」

「あとで代わってやるから。それに、鬼はもっと怖いぞ」


「お兄ちゃん。今、熱狂的なくるみーごを敵にまわしてるよ」

「なんでだよ」


「胡桃にマッサージしてるなんて言うからよ」

「事実じゃん。小学生のころ『胸が大きくなるツボ押してーっ』とか言って」


「それそれ。結局一度も押してくれなかった。どこなの、お兄ちゃん?」

「自分で調べろよ。少なくとも僕が押すことはないよ」


 胡桃の手が緩む。横目に見ると、素直にスマホで調べているが、表情がみるみる変わる。顔が赤くなる。


「なになに、檀中・乳根・天渓って、しっ知らない!」


 胡桃にはちょっと刺激が強過ぎたようだ。




 身体はバッキバキだけど、明日も美穂と特訓する約束をした。今はゆっくりと身体を休めるしかない。胡桃には悪いが、しばらくマッサージを続けてもらう。


「胡桃、ダンサーに必要な要素、知ってるか?」

「一に見た目、二に見た目。三、四がなくって、五に見た目。とか?」


「いいや、違うんだ。ダンサーに必要なのは情熱と根性なんだ!」

「なに、それ? マジレス?」


「僕も技術って言われるかと思ったら違ったよ」

「情熱と根性。聞いてた橋本先輩のキャラと違うね」


「そこなんだよ。教室で眠ってるときは魅せるっていうか、癒される」

「眠れる教室の美少女!」


「それがビデオ通話では豹変するんだ! おっかない鬼に」

「ふーん。お兄ちゃん、楽しそうだね」


「楽しくなんかないぞ。クズだのノロだのと罵られてばかり」

「何かに目覚めちゃった?」


「まさか。でも、身体を動かすのは、やっぱり楽しい」

「じゃあさ、昔みたいに……」


「いいんだよ。僕はのんびり暮らしたいんだから」

「草食系だねぇ。そのうち、肉食系女子に喰われちゃうぞ」


「そんな子、いないって」

「いるかもよーっ。ビーガンの鬼って聞いたことないし」


「たしかに、鬼は肉食系だな。指導するのに、僕は鬼にはなれなかったよ」

「胡桃は聞き逃しませんよ。今、『なれなかった』って言ったよ」


「そうなんだ。僕、橋本さんに麦茶牛乳の作り方を教えたんだ」

「あんまり威張れないね、麦茶牛乳じゃ」


 胡桃の言う通りだ。


「でも、お兄ちゃんの作る麦茶牛乳には、魔力があるんだよ、きっと」

「そんなの要らないけどな。美味しければいいんだ」


「その美味しさが魔力なんだよ、きっと」

「それなら、胡桃のパンケーキにも魔力があるんじゃないか」


「いやー。まさかの敗北を喫しましたよ」

「というと?」


「環奈ちゃんに差し入れしたんだ」

「パンケーキと麦茶牛乳をか?」


「うん。環奈ちゃん、麦茶牛乳のことめっちゃ気に入ってたよ」

「そうなのか?」


「はじめての味とかで、妙に不思議がってた」

「そういう情報は早く教えてくれよ」


「代わりにパンケーキには目もくれなかった」

「前の日のおやつと被ったんじゃないか」


「かなぁ。だといいんだけど」

「麦茶牛乳の作り方、教えなかったのか?」


「そうそう、それよ! 胡桃には作戦があるんだから」

「なんの作戦だよ」


「麦茶牛乳をエサに、環奈ちゃんを連れ込む」

「エグいな、胡桃」


「名付けて『麦茶牛乳作るから、兄もいるけど家に来ませんか? 作戦』だよ」

「長いな、その作戦」


「じゃあ、麦乳作戦?」

「音的にヤバいな、その名前」


「どうしろと?」

「麦茶牛乳作戦!」


「それ、いい。麦茶牛乳は地球を救うんだよ」

「滅亡の危機だからな!」


「怪人キンニクツー、とどめだっ。えいっ!」

「いっ、いててててててっ」


 きくーっ。




 攻守交代。今度はいつも通り僕が胡桃にマッサージする。


「はぁーっ。こりゃ極楽、極楽ですわ」

「相変わらずオッサンのリアクションだな、胡桃は」


「お兄ちゃんが悪いよ。天国過ぎる」


 どうやら胡桃には宗教観がまるでないようだ。


「そういえば胡桃は環奈ちゃんのIDを知らないだろ。どうやって誘うんだ?」

「その点は抜かりないよ、お兄ちゃん。胡桃ね、来週もアポ済み」


「先に言ってくれ」


 いいな、芸能人は!


「お兄ちゃんもモデルか役者にでもなればいいじゃん」

「そんな簡単じゃないだろ。なるとしても裏方かな」


「分かった、カメラマン!」

「いいや」


「じゃあ、マッサージ師?」

「違うな」


「じゃあ、何よ。勿体振らずに教えてよ」

「そうだな。環奈ちゃん専属の麦茶牛乳ソムリエ!」


「なに、それ?」

「体調や気分に応じた麦茶牛乳をご提案いたします」


「うん、うん。お兄ちゃんが芸能界の裏で暗躍する姿が目に浮かびますぞ」

「ははっ。オッサンくさいぞ、胡桃は」




 取り留めのない会話が急変する。


「お兄ちゃん、知ってる? 二兎を追う者は一兎をも得ずってことわざ」

「進路と青春と恋愛の全てを手に入れたと豪語する胡桃様のセリフか?」


「全然違うって。二兎を追う恋愛は絶対ダメってこと」

「環奈ちゃんにガチ恋なのは認める。けど橋本さんを追ってなんかないぞ」


「橋本先輩だって、胡桃は一言も言ってないよ」

「今の僕の状況では、それ以外にあり得ないだろう」


「冷静だねぇ。でも、胡桃の勘は当たるよ!」

「本当に、橋本さんとはなんともないんだ」


「パートナーじゃなかったっけ?」

「それは、言い直しただろう。ダンスパートナーだって」


「向こうはどう思ってるか知らないよ」

「弟子の一人くらいにしか思っていないだろう、どうせ」


「筋肉の動きを意識させるためとはいえ、水着で肌を露出したりする?」

「あいつは血も涙もない。鬼なんだ。指導のためなら手段を選ばない」


「分かってないな。手段を選ばないってとこだけには激しく同意するけど」

「二兎を追ってないことにも同意してくれ」


 こうしてお互いにマッサージしあった僕たちは、ゆっくり休むのだった。

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