第4話 胡桃とライナー

 四月二十四日、水曜日の夕方。


「ただいま、お兄ちゃん」


 胡桃が帰ってくるのに合わせて、コップを二つ用意する。麦茶と牛乳を注ぐ。砂糖はいつもより多め。よくかき混ぜてから胡桃に差し出す。


「おかえり、胡桃。で、首尾は?」


 無論、環奈ちゃんのA4ポスターについてだ。モデルの妹を持つと、世間の風当たりがどれだけ厳しいことか。耐えている自分を思うと、役得でポスターの一枚や二枚、もらえてもバチは当たらない。堂々と受け取る権利がある!


 胡桃は麦茶牛乳をグイッと飲み干してからVサインで応じてくれる。


「ばっちぐーってヤツだよ」


 さすがは我が妹。だけど、まだ安心はできない。ブツを拝むまでは。お代わり用の麦茶牛乳を作りながら、なるべく冷静に言う。


「で、どこにあるんだ?」

「どこって、何が? お兄ちゃん、顔、怖いよ」


 シラの切り方が上手過ぎる。その円筒形の容器は何だ!


「ポスター。環奈ちゃんのポスターだよ」

「あー、そのはなし? 胡桃はてっきり体育祭の順番の件かと思ったよ」


 そっちも気になる。少しは気になる。比べれば圧倒的にポスターが上。


 リビングに置かれた姿見に、僕の顔が映る。必死になって妹に言いよる兄の図は、決していいものじゃない。自重する。


「こほん。そうだよ。体育祭の件、どうだったんだ?」

「アルファベット順ってことで決まったよ」


「ってことは、A組が一番。僕たちが一番!」

「そうなるね。よかったね、お兄ちゃん」


 なんて有能な妹だ。あっちの方も期待してしまう。ポスター!


「うん、ありがとう。でっ、でっ?」

「節操がないねぇ。そう焦りなさんな」


「焦らずにいられると思うか?」

「我慢なさい。って、言ってもムリか」


「その通り!」

「しかたない。はなして進ぜよう」


「ありがたき幸せ! でっ、でっ、でっ?」

「環奈ちゃん、相当ズレてるわ」


 なんてことを言うんだ!


「ズレてるのは、胡桃じゃないのか!」

「推しには目がなくなるって言うけど、お兄ちゃんも相当だね。いいわっ!」


 胡桃が二杯目の麦茶牛乳を飲み干してから続ける。


「胡桃の会った環奈ちゃんについて、お兄ちゃんに全部、教えてあげる」

「おっ、おう」


 芸能人の裏の顔というヤツだ。そんなものには全く興味ないが、環奈ちゃんのことについては全て知りたい。いや、知りたくない。やっぱ知りたい。


「まぁ。一言で言うと、箱入り原始人、かな」

「そうかぁ。箱入り原始人かぁ。って、んーなはずあるか!」


「まぁ、聞きなさいって。ちゃんと解説するから」

「そう、だな。でも、信じないぞーっ。原始人とか、あり得ない」


「まずは箱入りってとこだけど。文字通りのお嬢様だね」


 子役でデビューし、アイドルになり、ライバーでインフルエンサーな環奈ちゃん。都市伝説ではアラブの富豪から一つの大きな油田をプレゼントされたとか。


「それに関して、異論はない」

「持ってるスマホはハイエンドモデルだったわ」


「CMに出演してるくらいだもんな」

「すごい売れ行きだってまわりの大人が騒いでたわ」


「インスタの画質、いいもんな」

「で、原始人ってとこもスマホ絡み。あれは全然使ってないね」


 そんなはずはない。


「ほぼ毎日、インスタに投稿があるんだぞ」

「自撮りはするみたいだけど、その他の操作は人任せみたい」


「なるほど。自分でやれないのか」

「必要ないんだろうね。周りがみんなやってくれるから」


 箱入りの原始人。しっくりきた。


「だけどお兄ちゃん、どうやら諦めた方がよさそうだよ」

「何をだよ」


「胡桃が環奈ちゃんを連れてきたって、チャンスはないね」

「チャンス? そんなの最初から期待してないって」


 いつもは上手な口笛も、ヒューヒューという空気の摩擦音にしかならない。


「だったらいいけど。カレシ持ちか、少なくとも思い人あり」

「カレシ? 思い人? アイドルは恋愛禁止じゃないか」


「夢は寝てから見なよ」

「違いない。でも、どうして分かるんだ?」


 僕だって現実は理解しているつもりだ。胡桃がそうであるように、仕事とプライベートの境目は存在する。環奈ちゃんにカレシがいても不思議じゃない。カメラの前では常に笑顔のアイドル・中山環奈だって、プライベートでは撮影をお断りすることもあるだろう。


 無頓着な僕と違い、胡桃は鋭い。ちょっとした仕草から何でも見抜く。


「それが、おかしいの。環奈ちゃん、ライナーのこと全く知らなかったのよ」

「そんなことって、あるのかなぁ。僕でも知ってるのに」


「本当。胡桃もビックリしたよ。説明に興味津々だったもの」

「胡桃が教えたのか?」


「もちのろん。連絡も取れなきゃ困ると思って」

「胡桃。ゲットしたのか、環奈ちゃんのID!」


 ポスターどころの騒ぎじゃない。


「残念ながら、交換には至らなかったよ」

「そう、なのか……」


「人生初のID交換、カレシか思い人としたいんじゃないかな」


 なるほど。その人が羨まし過ぎる。


「まぁ、しかたないよな。と、いうことでポスターをちょうだい」

「あー、それも諦めて。だって……」


 胡桃が口籠るなか、僕は強引にポスターを奪い、筒から出して広げる。


「なっ、これは!」


 黒いマジックで直筆のサインが書かれている。『仲良くしてね、くるみちゃん 中山環奈』と。


「ごめん。胡桃も環奈ちゃんの大ファンになっちゃったんだ」


 どうやら、ポスターはもらえないようだ。


「何でも言うこと聞くからさ!」


 あてにしないことにする。

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