7.路上の邂逅
それから三日後の週が明けた月曜日。
ぼくの記憶からあのカラスの出来事はようやく少し薄れかけていた。
放課後、ぼくは凛太朗とファストフード店にいた。いつものようにどうでもいいくだらない話をしながら、時間を過ごしていた。
「あのさ、付き合い始めたって言ってたあのナースとはどうなったの?」
ぼくはふとその出来事を思い出して凛太朗に訊ねた。でも返ってきたのは怪訝な表情だった。
「え……それって何……?」
「何って、妖怪生気絞り取りの美人ナースだよ!」
「妖怪……? 俺、そんなこと言ってたっけ……」
「妖怪ってのはぼくが言い出したんだけど……あー、もうなんかいいよ、既に忘却の彼方にあるみたいだし」
「ああ、今思い出した、あの時の彼女ね……なんか彼女、俺より親父の方に興味持ったみたいでそっちの方にアプローチかけ始めたから放っておくことにした」
「え? 与一さんに?」
「でも親父は今も母さんのことが忘れられないからすぐに振られてた。で、それっきり。俺の所にも戻ってこなかった……」
「戻ってこなかったって、戻ってきてほしかったわけ?」
「それならそれでよかった。身体の相性とか結構よかったし」
「あ、そう……」
ぼくはいつものなんだかなぁと思ってしまう結末に行き着く凛太朗の話を聞きながら、ちょっと納得のいかない思いを抱きつつも少し安堵していた。
暗黒のような出来事は一方では起こっているけれど、このどうでもいい空間では以前と変わらぬ時間が流れている。何かが起きたとしてもまたここに戻ってくることができるのであれば、いつでもまだ取り返しがつくような気がして、そんな希望も抱かせてくれる。現実がそんな甘くないことも分かってはいるけれど、今のこの間だけはそう感じていたかった。
そのあと小一時間ぐらいどうでもいい話をして、本屋に寄ると言った凛太朗と別れるとぼくは家の方角に向かって歩き始めた。今日は一日天気もよく、夕方になってもまだ明るさは残っていた。カラスの件もより忘却の彼方に追いやることができそうで、歩く足も軽やかだった。
「かなめー」
「可奈子?」
その声に振り返ると可奈子がいた。部活に所属している可奈子とは帰り時間が一緒になることは滅多にない。通学路でもない場所で出会したのは偶然が重なった希有な出来事だった。
「可奈子、今日は帰りが早くない?」
「うん、今日は部活を早めに切り上げて、みんなでアイス食べに行ってたんだー」
可奈子は笑顔を見せながらぼくの隣に並んで歩き始めた。食べたアイスが余程おいしかったのか、部の仲間と過ごした時間が余程楽しかったのか、その表情に余韻を残していた。
「要はどうしてたの、こんな時間まで」
「凛太朗と馬鹿話してたらこんな時間になった」
「そっかー、楽しかった?」
「まぁいつものとおり」
「いつものとおりかー、でもそういうのが一番いいよねー。ねぇ要、時雨ちゃん、もう帰ってきた? この前確か三、四日で戻るって言ってたよね」
「ああ……うん、そう、だったよね……」
三、四日で戻る、そう言っていたのは時雨本人だった。けれど彼女はまだ戻っていない。いなくなって既に五日目で、当然の如く何の連絡もない。ぼく自身も詳細がよく分からないこの件に関しては可奈子にどう答えていいか分からず、ぼくは思いついた適当な言い訳を口にした。
「えーっと、なんだか色々あって帰るのが少し伸びてるみたい。だけどもう何日かすれば戻ってくると思うよ」
「そうなんだー、でも時雨ちゃんがいないとやっぱり寂しいよね。要もそうでしょ?」
「う、うん、そうだね……」
寂しいというのは確かにそのとおりではあるけれど、ここで大きく同意してしまうと完璧にその事実を肯定してしまいそうで、それは憚られた。ぼくが淀んだ返事を戻すと可奈子は無言になった。賑やかな通りをしばらく二人黙って歩いていた。
「要……ごめんね」
「えっ?」
信号待ちの交差点角。俯いた可奈子の小さな声が突然届いた。けれどその謝罪の意味が分からなくて、ぼくは困惑を返した。
「えっと……ごめんって、何が?」
「この前……急に打ち明け話をしたこと。あんなことを相談されても迷惑なだけだよね」
そう言われ、ぼくは忘れたかったけれど全然忘れかけてなどいなかったそのことを脳裏に蘇らせた。でもこのように再び切り出されても何と答えればいいか分からない。咄嗟でなくても熟考した後でも多分分からないはずだった。故にぼくはとても適当な相槌を返した。
「あ、ああ、それね、うん、全然気にしてないよ、それで草野とはどうなったの?」
言葉を受け取った可奈子は何も言わず、寂しげな表情で首を横に振る。ぼくの方はただどうにも微妙な気分を腹の底に抱えるだけだった。
彼等の状況は日が経っても変わっていないようだった。ぼくが思うに可奈子と草野、二人は互いにボタンの掛け違いをしたみたいに今は気持ちがすれ違っている。でも誰かの助言があれば、それはボタンのようにまだかけ直すことができるようにも感じていた。
事情を知るぼくがその役目を果たすべきなのかもしれない。けれどぼくは二人に何かを言うこともなく、その役目自体からも目を逸らそうとしている。
このまま二人が破綻してしまえばいい、と強く思っているならこの状況は望むべきなのかもしれないけど、可奈子が悲しむようなことは全く望んでいない。可奈子が悲しむところは見たくないけど、二人がうまくいくように働きかけたくもない。齟齬と矛盾と碌でもない結論だけが胸の奥に鬱々と積もっていくだけで、こうなったらいっそのこと、お節介ババアのように胸までどっぷりと関わって馬に蹴られてどうにかなってしまった方が楽、とも思う。
「あー、そっかー、でもそのうちきっとなんとかなるよ、うん」
でもぼくはその整理のつかないぐだぐだな思考をどっかに蹴り飛ばすと、そう返していた。うわー、クソ偽善者だなー、とぼくの中でぼくに対する悪態がぐだぐだと溢れ出そうとしていたけれど、ぼくはそれも蹴り飛ばした。
「そうだね要……ありがとう……」
可奈子は適当すぎるその言葉を受け取って、弱々しいけれどいつものような笑みを返す。
歩行者信号が青に変わり、ぼくはその笑みに心臓が潰されるような感触を味わいながら彼女の肩を軽く叩いて横断歩道を渡ろうとした。けどその時、ぼくを呼び止める声が背後から届いた。
「あれ? 御蔵島君だよね」
その声にぼくの足はブレーキをかけたように止まり、視線がゆっくりとその方に向く。
「奇遇だねぇ」
そう言いながらこちらに歩み寄る男は城崎だった。笑顔を浮かべる相手を前にこのまま挨拶だけをして立ち去っていい雰囲気でもなくて、ぼくは少し重い気分で彼の到着を待った。
「今学校の帰り? いいねぇ、放課後って」
「ええ、まぁ……」
望まない奇遇は本当に望むところではなかった。でも彼をあからさまに避ける道理もなくて、ぼくは普通に見えるように振る舞った。
「そちらは御蔵島君の友達?」
彼が背後にいた可奈子の存在に気づくのは当然だった。ぼくは動揺を心の奥に追いやって、無言で頷いた。
「どうもこんにちは。僕、城崎
「あ、はい……私、櫻井可奈子です」
「可奈子ちゃんか、可愛いね。僕、歯科医をやってます。御蔵島君の歯も診させてもらってるんですよ」
「えっと、歯医者さん、なんですか?」
「そうだよ。よく見えないって言われるけど、でもちゃんとした歯科医だよ。可奈子ちゃんも治療が必要になったらどうぞ来てください。お待ちしてますよ」
そつないセールストークを続ける男をぼくは見守ることしかできなかった。けれど状況はすぐに静観などしていられないものになっていた。
「でも……可奈子ちゃんの歯は随分きれいだね。これなら僕の所に来る必要はないかもしれないね。残念だよ」
そう告げた城崎が可奈子の頬に手を伸ばす。
今にも触れそうになるその白い指とあの夜のカラスの死体がなぜか重なって見えた。その時にぼくが感じたのは恐れでも怒りでもなかった。でももしかしたらそれらがない交ぜになっていたかもしれない、そんな感情だったかもしれなかった。
「要……?」
「すみません、城崎さん。ちょっと急ぐのでこれで失礼します」
ぼくはその感情に突き動かされて、可奈子の手を引いていた。そのまま男に背を向けて歩き出す。
「うん、分かった。また今度だね。御蔵島君」
背後からは城崎の穏やかな声が聞こえてくる。
「要、一体どうしたの?」
隣からは可奈子の怪訝な声が届いたけれど、何も答えられなかった。彼女が声で指摘するとおり、らしくない行動だとは分かっていた。けれど点滅になった信号を強引に駆けて渡り、道の向こうへと行こうとした。
できるだけあの男から遠く離れたかった。だけどその訳を可奈子に答えられなかったのは、それがぼくにもよく分からなかったからだと思う。でも彼が可奈子の存在を知ってしまったことに、耐え切れられないほどの不安を覚えていた。それは確かだった。
急ぎ足で歩く脳裏には再びあのカラスの死体が浮かぶ。
ぼくは可奈子の手を強く握って、歩き続けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます