8.段々近づいてくる

 次の日の夕方だった。

 帰宅したぼくはマンションのロビーに可奈子の母、裕子さんの姿があることに気づいた。

 彼女はちょうどロビーの柱の陰にいる誰かと話し込んでいるらしく、随分と楽しそうだった。

 ぼくは彼女に挨拶をするためにあまり深く考えないで近づいていった。けれど二人分の話し声が耳に届くまで歩み寄った時、ぼくの足は急激に速度を落とすことになった。


「やぁ、御蔵島君」

 そう言って柱の陰から姿を現したのは城崎だった。届いたその声を耳にして鳥肌が立つのを抑えられなかった。

「あら、おかえりなさい、要君」

 裕子さんもぼくに気づいて声をかけてくる。けれどぼくは何も反応できず、黙ったままでいた。裕子さんはこちらの様子に気づくことなく、話しかけてきた。


「タイミングがいいわね。ちょうど今、要君の話をしていたところなのよ」

「……」

「要君、城崎さんと知り合いだったのね」

「……え、ええ……まぁ……」


 鈍い返事をするぼくに裕子さんは事の次第を語った。

 彼女は夕方、事務のパートの仕事を終えた後いつものスーパーに立ち寄った。すると残り少なくなっていた米が特売になっていたのを目にして、つい後先も考えず購入してしまった。他の荷物とも合わせたその重さに「どうしよう」と困窮していたところ、その場を通りがかった青年(城崎)に「お手伝いしましょうか?」と声をかけられ、助けられたという。


「ご親切に家まで運んでくださって本当に助かりました、城崎さん」

「いえ、こんなことぐらいお安いご用ですよ。だけど次からは持てる量だけ買ってくださいね」

「ええ、本当にそうね、いやだわ、私ったら」

「でもまたそうなったらその時も助けますよ」

「あら? そんなふうに言われたら本気にしちゃうわよ。なんて、今後は気をつけます」


 裕子さんと城崎は軽い冗談を交わしながら和やかな会話を続けている。

 表情も声も穏やかな城崎は、初対面の相手であっても警戒させない雰囲気を持ち備えている。

 ぼくの目の前には、ぼくが城崎を知らなければ、ただ笑ってやり過ごせるであろう光景しか存在していない。けれど見た目どおりのそのことが起きているとは、どうしても思えなかった。ぼく一人がただそう思っているだけの妄想的杞憂だと信じたい。でもそう思い込むことが難しかった。そして胸の奥に留まる一つの疑念も消えていかない。


 城崎が裕子さんとスーパーで出会ったのは

 城崎なのだろうか……。


「あー、お母さん、それに要も!」

 その時届いた新たな声にぼくは一層身を固くした。

「おかえりー、可奈子」

 微笑む裕子さんは帰宅した娘に明るく声をかける。ロビーにいた母親と友人の元へと足取りも軽く歩み寄る可奈子は、その場にいたもう一人の存在に目を留めた。


「えっと……城崎さん、でしたよね?」

 その声に城崎は驚きの表情を垣間見せて、目の前の女性達を再度順に見た。

「もしかして裕子さんは君のお母さん……?」

「ええ、そうです」

「えっ、城崎さん、可奈子とも面識があるんですか?」

「そうなんですよ……と言っても昨日会ったばかりなんですけどね。その時は残念ながら少ししかお話しできなかったけど」

 そう語る城崎がぼくを一瞥する。その顔には含みを持たせた笑みが浮かんだ。

「昨日はね、僕がちょっと可奈子ちゃんに馴れ馴れしくしちゃったから、御蔵島君が心配しちゃったんだよね」

 続いたその言葉にぼくは追い詰められたような気分になって、しどろもどろに返事を戻す。


「そ、そんなことないです……」

「あら? その心配って一体どういう意味なのかしらねぇ。結構意味深?」

「もー、お母さん、野次馬みたいに話に乗っかかったりしないでよー、要が困ってるでしょ」

「……」

「あっ、ごめんなさいね、要君。要君の気持ちも考えずに悪乗りしちゃって……」

「あー、もしかして僕、空気も読まずに余計なこと言っちゃったのかなぁ?」

「……いえ、すみません、気にしないでください……それに昨日は……失礼しました……」

「ん? 昨日のこと? ううん。そんなの全然大丈夫だったよ。あんなことちっとも気にしてないから」


 意図せずぼくが曇らせてしまった場の空気は、城崎が上手く切り返したことで体裁を保った。その後まだもう少しぼくを除いた三人の会話は続いたけれど、それがふと途切れた合間を縫って城崎が声を上げた。


「それじゃ、お手伝いできるご家族も戻られたことですし、僕はこれで」

 場のお開きをスマートに促した城崎は最後に裕子さんに歯科医師の名刺を手渡すと、その場で彼女達を見送った。荷物を分担した裕子さんと可奈子はエレベーターの方に向かい始めている。その後を追おうとしたぼくの背後に素早く城崎が忍び寄った。


「ねぇ、君の周り、なんだか随分幸せそうで楽しそうだね」


 耳元で囁かれたその声が、鼓膜を伝って背筋まで震わせる。

 その場でどれくらい立ち竦んでいたか分からなかった。

 気づけば周りには誰もいなくなっていた。

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