8.家族の形、あっという間のさよなら、望まない「再会」

 次の日は純菜の部屋には入れてもらえた。しかも部屋のカーテンは全て開け放たれ、前回の時とはまるで別の部屋のように明るかった。

 白色とピンク色が陽の光に映える室内には、お茶とお菓子も用意されている。歓迎ムードと取っていいようにも思われるその様相には、少しの安堵を感じる。でも人生は何が起こるか分からない。油断は禁物と心に言い聞かせて、ぼくは前と同じく指定されたクッションの上に腰を下ろした。


「ねぇ、そのクッキー、私が作ったんだよ」

「えっ、そうなの? すごいね」


 ぼくは感嘆しながら、ミニテーブルの上の白いお皿に載せられた焼き菓子に目を移す。見た目のイメージでなんとなくお菓子の手作りなんかには無縁そうだと勝手に思っていたけれど、それは単なる思い込みでしかなく、口に運んだそのクッキーはちゃんとした、と言うよりかなりおいしいクッキーだった。


「これ、すごくよくできてる。おいしいよ」

 そのように伝えると純菜は目を逸らして、「当然だよ」と少しぶっきらぼうに応える。愛想のない受け答えではあるけれど、最初の日に声を荒らげられて部屋を追い出されたことを思えば、かなりの前進だった。純菜が淹れてくれたコーヒーを飲みながら少しくつろいでいると、普段ほとんど鳴らないぼくのケータイが珍しく鳴った。「ごめん」とぼくは彼女に断ってから、その時雨からの電話に出た。


「はい、どうした?」

『悪いが帰りに玉子を買ってきてくれないか。買い忘れた』

「へぇ、珍しいね。分かったよ」

『すまないな』

 短いその通話を終えて顔を上げると、純菜がこちらを見ていた。言葉はすぐに飛んだ。


「誰?」

「え? 電話? 同居人からだよ」

「同居人? もしかして要君、同棲してるの?」

「ええっ、まさか。言葉どおりの同居人だよ」

「ふーん、そう……全然そんなふうには聞こえなかったけどね」


 純菜は呟くように言うと、微妙な表情でこちらを見ている。帰りに玉子を買うという色気も素っ気もないその短い会話のどこにそんなものを感じたのか。疑問に感じながらそんなことをのんびり考えていると、いつしか部屋の中には初日の時よりも不穏な空気が立ちこめ始めていた。


 純菜を見ると彼女はそっぽを向いて黙り込んでしまっている。これはもしや取り返しのつかない感じになっているのではないかと、そう思いたくはないけれどそんな感じがしていた。逃げ出したい! と思わずそう思ってしまったけれど無論そうする訳にもいかず、ぼくはこの息苦しい空気と拒絶の気配をどうやって取り払おうかと、床の上で思案した。


 じろじろと見るなとまた言われない範囲で部屋の中を見回して、何かきっかけを探すことに勤しむ。ふと目を留めたクローゼットの上には、リビングにあったのと同じ家族写真が飾ってあった。彼女達の両親は二人とも優しそうな人達で、曽田さんが彼等が純菜のことを心配していると言っていたそのことは多分間違いないのだろうと思った。


「その写真、リビングにもあったね。いい写真だよ」

 ぼくは写真を示して声をかけた。その呼びかけに純菜は顔を上げて、写真をちらりと見た。

「……そう?」

「そうだよ」

「ふーん、そんなに気に入ったんならその写真、あげようか?」

「え? あげようかって、いらないとは言わないけど人の家の家族写真をもらっても仕方がないよ」

「あ、そう」


 話すきっかけにはなったけれど、噛み合わないやり取りをしただけでより雰囲気が悪くなって終わる。でも諦めずにもう一度声をかけた。


「あのさ、曽田……お姉さんとはいつもどんな感じなの? 仲はいいの?」

「別に……どうって訳でもない。だってお姉ちゃん、ちょっとウザいし」


 再び会話を試みたけれど、そこでぶった切られて終わる。再々度困窮して視線を移すと、家族写真の隣には友達と写した思しき写真がある。でもそれはほとんど原形を留めていなかった。純菜以外の三人の女の子の顔や身体にマジックペンでいたずら書きがされてある。チョビ髭や豚鼻や頭や肩に載せられたう×こ、なかなか念入りに情念入り混じる感じで描かれていた。


「何、笑ってるの?」

「いや、そこの写真がさ、ちょっとすごいなと思って」

 つい気が弛んだ笑顔でそう答えてしまって、純菜の顔が先程とは別の方向に瞬時曇る。しまったと思ったけれどもう遅かった。


「この子達、私、大っ嫌い。急に私のこと無視し始めてさ。私が美香みかに横顔が少しブスだよねって言っただけなんだよ? たったそれだけのことでいちいち怒る?」


 真顔で同意を求められたけれど、ぼくはちょっと言葉を失って、女子でなくてよかったとかなり思う。現実逃避のように今話に出た美香というのはこの前カフェで会った黒髪の子かな、とかぼんやり考えていたけれど、純菜の方は完全にスイッチが入ってしまったみたいで、その唇からは湧き出る言葉の羅列が始まった。


「そんなことより要君さ、お姉ちゃんに頼まれて私に会いに来てるんだよね? それってさぁ、なんか悲しくない? 彼氏でもないのにいいように使われちゃってさ。あ、でももしかして代わりに手でも握られた? それともキスぐらいしてくれた? あーもうそんなので簡単に乗せられちゃって、男って本当にバカだよねぇ。ホントにかわいそう」


 とりあえずの矛先は今一番近くにいるぼくに向いたみたいだった。彼女の行き場のない苛ついた気持ちがびんびんに伝わる。残念ながら言葉のチョイスが好みじゃなくて全然アガりはしないのだけれども、だからと別に腹が立ったりもしなかった。けれど手でも握られた? のところでどきりとする。何も反応できず挙動不審になっていると、彼女の怒りの矛先は別の方に向き始めていた。


「ねぇ要君、お姉ちゃんてさ、一体何考えてるのか全然分かんないよねぇ。いつもひんこーほーせーで、優等生ぶっててさ。それに要君、私の家っていつも人の気配があんまりしないと思わない? それってさ、お父さんもお母さんもほとんど家にいないからなんだよねぇ。お姉ちゃんはいい子ぶって私達のために一生懸命働いてくれてるんだからって言うけど、結局はほったらかしだよね。二人とも私のことなんてどうでもいいと思ってるし、心配してるって言ってるのもただのフリ。大人ってみーんな嘘つきだし、みーんなおんなじ。ひきこもりの娘を心配するどころか、もしかして世間体が悪いとしか思ってないかも? あー、こんな家に生まれてこなきゃよかった。もっと別のいい家に生まれてこればよかった。なんかさぁ、今からでもどうにかなんないかなぁ。あ、そうだ、要君、さっき写真見ながら物欲しそうにしてたよね。要君の家の両親と私の親、取り替えっこしない? 私さぁ、もううんざりなんだよ。あんなお父さんもお母さんも、大っ嫌……」


 その言葉の続きをぼくが聞くことはなかった。

 突然部屋の扉が開いたと思ったら、風のように曽田さんが駆け込んでいた。

 パン。

 と、続けて小気味よい音が響いた。純菜の頬を曽田さんが思い切り引っぱたいていた。

 

「私のことはどれだけ悪く言ってもいいけど、お父さんとお母さんことは悪く言っちゃダメ!」


 曽田さんの大声が響いて、その場にいた全員が立ち尽くしていた。扉の向こうに目を移せば、粉々に割れたティーカップが床に散らばっている。曽田さんはお茶を持ってきて、恐らくそこで純菜の声を耳にしたのだろう。

 ぶたれた純菜の目には涙が湧き上がってくる。けれども彼女は怒りもせず反撃もせず、いつものような口答えもしなかった。今まで堪えていたものが溢れるように言葉が零れ出た。


「……お姉ちゃん……ごめん」

「私こそ、ぶってごめん……」


 二人は決死の殴り合いの果てのように力強く抱擁する。

 見たこともない弱々しい表情を見せた純菜は、曽田さんの胸で泣きじゃくっている。曽田さんの方は全て受け入れるような慈しむ優しい手で、妹の髪を静かに撫でている。ぼく自身はあまりにもここにいる必要がないことを実感して、こそこそと部屋を後にした。


「ごめんね」

 と、曽田さんは言った後に、

「ありがとう」

 と言った。このやり取りはぼくが純菜の部屋を出てから二十分後に交わされた会話で、言われた場所はマンションのエントラスだった。あれからの時間は凪いだ海のように過ぎて、役目を終えたぼくはもうここには来なくていいと感じていた。向かい合う曽田さんの表情もそう言っているようで、それは確かなのだと思った。


「御蔵島君、本当にありがとう」

 曽田さんはそう言って右手を差し出した。ぼくは差し出されたその手を軽く握り返して、すぐに離した。

「御蔵島君に会えてよかった、言ってよかった……って言った方がいいのかな?」

 訊ねる彼女にぼくは頷く。「さよなら」と告げた彼女に、ぼくも「さよなら」と言ってその場を離れた。一度振り返ると彼女はまだマンション前にいた。けれど再び歩き始めてもう一度振り返った時にはいなかった。


 ぼくは暗くなった道を独り歩いた。

 偶然の再会と早い別れを思い返しながら帰路を辿っていると、正面から一人の若い男性が歩いてきた。その人は遠目で分かるほどにきれいな顔立ちをしていた。彼とはじきにすれ違ったけれど、すぐに背後で足を止めたのが分かった。


「君」


 呼び止められて、ぼくはゆっくりと振り返る。

 見返した相手の唇がゆっくりと動いた。


「君、何か変わってるね」


 男はそう告げると、再び前を向いて歩いていく。

 ぼくも帰り道に戻りながら、再びここに来る必要がなくなっていたことに感謝していた。

 何か変わってるね。

 言われたその言葉はそのまま男に返したかった。

 彼はあの日、暗がりで土を掘っていたあの男だった。

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