鼓動を知りたい

 例え噂が流れようが、それによって落ち着かない気持ちが存在しようが、西山くんと二人でいる下校時間だけは、お互いが寄り添い合う穏やかさを保ち続けた。

西山くんにも思うところはあっただろうが、噂に言及して何か言うことはなかった。

もちろん、私もだ。

私たち二人の間に、すごく目立つような変化はないままだった。


 でも、ある日。

これはある意味で、私と西山くんには影響力が大きかった。

 菅野と、西山くんのことが気になっていた女子が付き合い始めたのだ。

つまりは、情報屋と情報屋の雇い主が付き合い始めたということだ。

二人ともクラスの中心にいるタイプだったから、その交際の注目度も高く、私と西山くんのことは表向きには目立たなくなっていった。

 その女子は、西山くんをやめて、菅野に切り替えたのだろうか。

私の知らないところで、西山くんに振られてから、切り替えた可能性も考えられる。

 そして、完全に私の思い込みだが、まるで菅野が、私たちの噂を掻き消すために交際を始めたみたいなタイミングに思えた。

例えば、好きだった春子の親友の私を助けるかのような・・・

 情報屋の雇い主は菅野にとって、初めての彼女だという話を他クラスの中学の同級生に聞いたし、反対に菅野の彼女は、交際経験が多いモテ女だという噂も聞いた。

春子を忘れるためにしては、豪快な相手を選んだように思えたが、菅野の浮かれっぷりからすると、本当に恋しちゃってるようにしか見えなかった。


 季節が変わっても、私達はそのままで居ようとし続けた。

お互い、優しさと穏やかさを常に抱きながら。

 それでも敢えて変化を挙げるとすれば、夏だと、


「もっと涼しいと思ったのに」


と、西山くんが、北海道の夏の暑さにがっかりしていたこと。

それぞれアルバイトを初めたから、一緒に学校を出るものの、同じバスに乗らない日ができたこと。

 冬に近い秋には、雪虫が大量発生して、西山くんが初めて東京に戻りたいと嘆いたこと。

 

 とにかく、菅野と彼女のお陰なのか、ふたたび前の感覚に戻ったような日々が続いた。

もちろん、いつも二人で下校する私たちに、完全な潔白の目が向けられることはなかったはずだが、裏で何を言われようが、私たちに届いていないのであれば、それは言われていないことと同じに思えた。


 そんな穏やかな時間の中で、西山くんに少しの試練が訪れたのは冬。

東京生まれ、東京育ちの西山くんが、雪道を歩く姿は正直、すごく可愛かった。

防寒は私なんかよりも完璧で、手袋、ニット帽に、マフラーはぐるぐる巻き。

顔はほとんど隠れている状態で、顔の半分、目と鼻以外に肌が見えている箇所はなかった。

それに比べ私は、手袋もせず、当たり前の冬をやり過ごそうとしていた。


「ただ雪が積もってるだけならいいけど、ツルツルに凍ったり、ザクザクになったり、積もったばっかりの雪の下に氷が隠れてたりして、大変なんだよ。気温によっても全然違うの」


私は、自慢することじゃないのに、どこか誇らしげに語ってしまう。

西山くんはゆっくり歩きながら、


「きっと歩くコツがあるんだね。みんなすごいよ」


と、臆病そうに言う。

危なかしい西山くんの腕を掴んであげたかった。


「慣れたら大丈夫だよ。まあ、こっちの人も全然転ぶけどね」


「そっか」


「冬は、早く行動するのが大事。バスが遅れるのは当たり前だから、いつもより早く家を出なくちゃダメだし」


「今朝、遅刻しそうになったよ。冬は大変なんだね」


 私たちは、一緒に下校するものの、一緒に登校したことはなかった。

多分、学校帰りはまだ自然な流れで一緒に帰れるけれど、登校となると、違う場所から来るわけだから、同じバスの時間を選び、約束する必要がある。

それは違うとお互いに思っていたんだと思う。


 普段から特別速いとは言えない歩みの西山くんの、雪道を歩く丁寧さは、その分一緒にいる時間が増えるということで、私にとって好都合に思えた。

それにバスが遅れてくるのも合わさって、冬は、他の季節よりも西山くんと会話できる季節だ。


「おっ」


西山くんが足を滑らせ、バランスを崩した。 

私は素早く西山くんの腕を掴む。

私までバランスを崩しそうになるものの、なんとか持ちこたえた。


「ありがとう」


西山くんに自分から触れたのは、この日が初めてだった。

涙を見せたあの本当の春の日。

西山くんが私の手を引いて、歩いてくれた時。

それ以外で私たちは、会話や視線以外の接触を避けていた。

触れないことを意識していたのはきっと、私だけではないように思う。


 コートを着ているにも関わらず、西山くんの腕の細さが伝わる。

その腕は想像よりも細く、少し頼りなかった。


「気をつけてね」


「うん。っていうか、ヒヤッとして心臓バクバクしてる」


西山くんは右手を心臓の位置に当て、恥ずかしそうに笑っていた。


「どれ?」


私は一歩近づくと手を伸ばし、西山くんの右手の隙間から、私の右手を滑り込ませた。

コートを通してでも、鼓動が伝わる。


「本当だ。西山くん、ビビリだね」


私は、茶化すように笑うことで、どうにか平静を装う。

手袋をしない私の右手は、西山くんの鼓動と手袋をした右手に挟まれる。

途中、自分の鼓動が邪魔をして、西山くんの鼓動を感じるのに集中できなくなった。

西山くんの顔を見ることもできない。


「そりゃあ、転びそうになったらビビるよ」


西山くんの右手が、私の右手を掴んだ。

そして、自分の胸から離れさせると、


「どうして手袋しないの?前からちょっと気になってた」


と聞いてきた。

手はまだ、握られたまま。


「うーん、若いから?」


「理由になってないよ」


西山くんは、いつものように優しく微笑む。

その表情はまるで、子供をなだめる母親みたいだ。

さっき、転びそうな西山くんを支えた時は、私が母親みたいだと思ったのに。

私の突拍子もない行動のせいで、西山くんを困らせているのかもしれない。

それでも私はどうしても、西山くんの鼓動を知りたかった。


「これからはちゃんと、手袋します」


「寒さに強いからそうなの?とりあえず僕のを・・・」


西山くんが手袋を脱ごうとした。


「いいよ。そのまま。道産子だから大丈夫。明日からちゃんとするから」


「道産子とか関係ない・・・」


「大丈夫だから。ね?」


「うん、分かった」


どうしてあんなに拒否したのか、自分でも分からなかった。

でも多分、これ以上の接近を拒もうとしたのだと思う。

鼓動に触れ、温もりまでも堪能してしまったのなら。

私は自分の中でちゃんと答えを出すより前に、ありきたりなところに流れ着いてしまいそうだったから。


「ごめんね、西山くん」


「え?何が?」


「なんとなく、謝りたかったの。分からないや」


「謝ることなんて、何もないよ」


出会った中で、一番気まずい時間が流れた。

私たちは、気まずさを避け、穏やかさだけを追求してきたのに。


「いくら冬でも、そろそろバス来ちゃうかな?」


穏やかさを取り戻すように、西山くんが腕時計を見ながら言った。

私はスマホで時間を確認し、


「本当だ。少しだけ、急ごっか」


と、歩き始める。

西山くんの足元を心配しながら、気づかれないように気遣いながら、私たちは並んで歩いた。


 ずっとこのまま、という選択がこの世に存在しないのなら。

雪道に愛しく揃う、私たちの足跡が必ず消えてしまうものなら。

春子が日記を意図的に残さず、見せなかったように、私の確信できない気持ちも、見せなくたって良いのかもしれない・・・

そんなことを思っていた。

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