幸せの重さ

志葉九歳

第1話

 暖かいお湯に浸かりながら考える。

 どれだけあなたから与えられても、掬いあげる度に私の指の隙間から零れていく『これ』は一体何なのだろう。下を向くと、私の貧相な胸と鍛えてはいないが太くはない腹と、それを見つめる自分の間抜け面が見える。




 私は中学まで風呂の入り方を知らなかった。小学校では臭い不潔だと言って虐められていた。中学の入学式の前日、両親が蒸発した。入学式に来ていない私を心配して、学校の先生が入学式の次の日に、ほぼ廃墟同然の市営アパートの一室、私が残された部屋に来てから、私はそのことを悟った。そのまま父方の叔父の家に育てたれることになった。入学式に行かないうちに転校することになった。叔父の家から疎まれていることはすぐに分かった。食事にしろ風呂にしろ、マナーを知らない私に根気強く叔母は注意してくれたが、深夜になると叔父と叔母が激しく口論しているのが聞こえた。「だからあんなやつの娘なんかを世話するのはごめんだと言ったんだ」という叔父のセリフは今でも鮮明に思い出せる。それでも叔母は貰い物でボロボロだった服を買い直してくれたし、毎食温かいご飯を食べてくれた。しかし、私の大人に対する不信感は消えなかった。私にとっての大人は気に食わないことがあればすぐに手を上げるし、おとなしくしていても機嫌の悪い日には理由もなく殴ってくるものだと思っていた。『今はただ、機嫌がいいだけ』それか私の叔母に対する感想だった。現に、叔父はいつまでも私のことを虫のような目で見てくる。よほど私が憎いのだろう。私はなるべく神経を逆撫でしないように、家では草木のように呼吸の音すら立てないように過ごした。

 2年になった頃、両親が逃亡先で死んだことを知った。いつものように夜遅く家に帰ると、叔母がこちらを見て何か沈痛そうな顔をしていた。何があったのか聞きたかったが、私はそれを自重したつもりだった。しかし、私からの視線を察したのか、「伝えるか悩んだんだけどね……」と前置きをしてから語り始めた。心中らしい。それを聞いてようやくこの世界の真理を知った。

(あの人たちは馬鹿だから死んだんだ)

 そう気づいてからは、私は今までしてこなかった勉強を始めた。小学校の頃は筆記用具すらまともに与えられなかった。だけどそれが手に入る今、勉強しないことは甘えだと思った。あの人たちみたいに馬鹿みたいに生きて馬鹿みたいに死ぬのは嫌だ。その思いだけで毎日の居残りも休日の図書館通いも苦じゃなかった。それまでつるんでいた馬鹿どもとの交流も切った。すると、意外にも半年で成績が伸びてきた。それもぐんと。有数の進学校は無理だったが、地元のそこそこ有名な高校にそこそこの成績で入った。大学入試の頃までになると、私の成績は高校の中でもトップ。全国模試でもかなりの偏差値をたたき出せるほどになった。もちろん教えてくれた先生や、その間サポートしてくれた叔母、冷ややかな目も些かマシになった叔父のおかげもある。そんなこんなで何とか名門一歩手前の大学に入学できた。落第一歩手前だった中学時代とは大違いだ。反面、何となく、かっこよくて真面目に見えそうという理由で法学部に入ったが、法律なんて特に興味はなかった。むしろ、そこで人生を変える出会いがあった。

 ギターだ。先輩による新入生の勧誘にまんまと引っかかった私はホイホイついて行って、その日のうちに入部届けを提出した。その頃から、私の中の社会に対する反骨精神のようなものが芽生えていたのかもしれない。遅めの反抗期とも言える。大学の出席もそこそこに私はギターにのめり込んだ。言ってしまえば、1つ上の先輩に惚れたクチだ。その先輩は、中学からギターをやっているらしく、大学の軽音サークルなんかで留まってちゃいけないくらいのレベルだった。実際レーベルから声がかかってたらしい。だけどその先輩は「ギターは青春の思い出で、ロックはその道筋だから」という、私たちが大学を卒業する代になっても後輩たちの間で受けてるような、擦られてるような、そんな謎の決めゼリフと共に誘いを断ったらしい。そんな姿に私は惚れた。そして告白した。これが先輩の卒業前、私が3年の時の話だ。

 ちなみに先輩は女だ。曰く、「ごめん……私そっちの趣味は無くて……紡のことは可愛い後輩としか見れない」だそうだ。これで、私こと『岡田紡』の初恋はあっけなく終わった。私の名誉のために補足して置くけど、中高でそういう話──いわゆる浮ついた話がなかったわけじゃない。中学から大学までに、男子とは3人、女子とは1人付き合ったことがある。自分がバイなのは自覚していた。そんな中で、初めて自分から好きになって告白した、という意味での『初恋』だから悪しからず。




「雨だ……」

 気づけば口に出ていた。

 風呂から上がって、体を拭いている最中、ふと感じた。アパートの2階、その天井を雨粒が叩く音が聞こえてきた。

 昔から雨の気配に敏感だった。水に濡れることが、私は好きだった。小学校の頃、誰のかも分からない中古のスクール水着を着ながらしていた水泳の授業も、中学から入るようになった風呂の湯船も、登下校中の雨の中でさえも、私はそれらを愛していた。自分の中に空いた穴の中に水が流れ込んでくるような感覚と、水が満ちていくような錯覚。それらから離れたあとに感じる自分の体の熱。どれも私の冷たい心を揺らしているように感じたから。




「───い。はい……。申し訳ありません……。ありがとうございます。ご迷惑おかけします……はい」

 髪を拭きながらリビングに差し掛かると、リビングからは栞の声が聞こえた。少し低いトーン、落ち込んでいる、少し泣きそうな声。相手は上司だろうか、謝り倒している様子だ。キリッと胃が軋むように傷んだ。

「おかえり。今日もお仕事お疲れ様」

「ただいま〜!ほんとクタクタだよ〜。つむちゃんは今日はどう? なんかあった?」

「特に何も〜」

 元気な声で挨拶をする私の恋人。名を伊藤栞。社会人2年目の体にムチを打って私を半分くらい養って、半分くらいお世話をしてくれている恋人。そんな栞の満面の笑顔が私の胸に刺さる。

「も〜! つむちゃんたらまたドライヤーしてないでしょ〜。こっちおいで〜?」

 栞はそう言うと上着のジャケットを脱いでソファーの前に足を広げて座る。足の間に挟まれという意味らしい。促されるままにいつもの定位置にすっぽりと収まる。少し身長差のある私たちは、私が屈み気味になることでその問題を解決していた。

「やっぱつむちゃんの髪きれ〜だね」

 ぶおおおおおおお、と私の髪にドライヤーと櫛を通しながら呟く。流石の紡もドライヤーの仕方くらいはわかるが、面倒くさがりでいつも半乾きなので栞にやってもらっている。テーブルに置いた鏡越しに見る栞の顔はとても満足そうで……。この顔が見たくてわざとタオルドライだけですまそうとしてるのかもしれない。

「疲れてるのにごめんね」

 それでも恋人に対してかけるべき労いの言葉をかける。すると「ううん。つむちゃんの髪梳かしてる時が1番幸せかも〜」なんて言うもんだから「これからもっと幸せになるんだよ」って返してやった。栞は栞で嬉しそうだからまあいいか。

『そんな根拠もないくせに』鏡越し、鏡の奥の私がそんなことを言った。思わずスマホを投げそうになる。

「さっきの電話、誰?」

 少しずるい聞き方をする。相手を知ってるのに問い詰める。まるで浮気の尋問みたいで気が引ける。自分の性格の悪さに嫌気がさす。

「あぁ……上司の人。なんか最近私のミスが増えてるのはいいんだけど、説教長くてさ」

「そっか……」

「つむちゃんは気にしなくていいよ! こっちの話だから!」

「無理しないでね……」

 ドライヤーの爆風の中そんなやり取りだけをした。




私が作った少し味の濃い夕食を栞は笑顔で食べてくれる。私はもう食べ終わってしまって、食器を片付ける前に、幸せそうにご飯を頬張る栞を眺めている。

「つむちゃんいっつも見てるけど、私が食べてるとこそんなに面白い?」

「面白いっていうかさ、幸せだなって実感するよ」

「へへ、わたしもしあわせ!」

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