クマさんと馬鹿と愛しき者(一)

 シスイと別れた山の中。私は傷を治す為に魂の静養に努めた。

 地獄での身体は魂が具現化した姿。魂の疲労回復さえできれば、身体が受けたダメージも元通りになるそうな。案内してくれた鳥の言だけだったらとても信じられない現象だが、シスイも似たようなことを言っていたので本当なのだろう。

 現に管理人に蹴られて折れたと思われた肋骨、体感で二時間経った今は息をしても全然傷まなくなった。これならサエに刺された傷もじきに完治するだろう。


 ドドドドドド。


 ん?

 横向きで寝転んでいる私の耳が、地面が微かに振動する音を拾った。何ぞや?

 気になったことはすぐに調べるのが忍びの鉄則だ。私は上半身を起こして周囲を見渡す…………までもなく、山道の登り方面から誰かがバタバタと駆け降りてきた。


「うおっ、女ぁ!?」


 道の端に座る私を見つけたのは二十代と思われる青年だった。健康的に日焼けした黒い肌を持つ彼は、脚を止めて数秒間私を凝視した。この視線には既視感が有る。いろいろな男から向けられたエロ目線だ。

 しかし思い出したかのように青年は後ろを振り返り、私へ叫んだのだった。


「姉ちゃん、今すぐ死ぬ気で逃げろ!!」

「……はい? 何で?」

「説明は後だ! ああっ、駄目だもう来た!」


 青年の焦りと呼応するかのように、ドドドドドドドドドと大きな足音を轟かせて、真っ黒な熊が四つ足で向こうから走り寄ってくる。かなりデカイ。

 青年は熊に追い掛けられているようだ。馬鹿たれめが私を巻き込んだな。


「こっち、登って!」


 私は近くの大きな樹へよじ登った。青年も続いたが不安を漏らした。


「……なぁ、熊って木登りできるんじゃなかったっけ?」

「そうだね。でも走っても熊の方が速い。とにかく高く登って!」


 私と青年はえっちらおっちら、一本の大樹を二人で登っていった。

 樹の根元まで来た熊は上へ逃れる私達を確認した後、前足を樹に回し自分もスルスル登り始めた。


「ぎゃああ、下っ、下見て! やっぱり熊も登ってきてるぅ!!」


 喚く青年。私は隣の樹を目視した。距離は約二メートル。行けるな。

 太く頑丈そうな枝を足場にして、私は隣の樹へ華麗に飛び移った。


「…………えっ」


 驚く青年に呼び掛けた。


「さあ、あなたもこっちへ!」

「………………!」


 青年は私が踏み台にした枝へ、自分も足を乗せてからそっと下を覗いた。地面までおよそ十メートル。飛び移りに失敗して落ちたらただでは済まない。


「できるかぁぁぁぁぁ!!!!」


 青年は樹にしがみ付いた。まぁそうだろうなとは思った。こんなことができるのは忍者か曲芸師くらいだよね。

 私はただ、狙い撃ちがしやすい状況を作りたかっただけだ。十字手裏剣をホルダーから取り出して気づいた。シスイが言っていた通り、管理人戦で使って放置していた分が戻ってきていた。凄いな地獄。


「あああああ、お姉ちゃん見せてぇ!!」


 すぐ下まで熊に迫られた青年が、突如おかしなことを叫んだ。


「…………はぁ?」

「俺はここで終わりだ! 最後にイイもの見て死にてぇ! おっぱい!」


 どうしよう、見捨てたい。

 しかしコイツは私に「逃げろ」と言った。何も知らない私を熊の餌食にして、その隙に自分だけ逃げる選択も有ったのに。


「おっぱい! おっぱい!」


 どうかしている人物だ。だけど悪人じゃない。私は青年を助けることに決めた。


「グオォウ!!」


 投げた手裏剣が木登り中の熊の背中へ突き刺さった。もう一本。今度は肩に刺さり、手を放した熊は地上九メートルの高さから落下した。

 ドーンと大きな音がした。


「ガウオォッ……グゥルルルル!!!!」


 手裏剣二本と地面への激突でけっこうなダメージを受けたはずなのだが、手負いの熊は大きく咆哮して私を睨みつけた。

 完全に怒ったな。降りて戦う前にもう少し生命値を削っておきたいところだが、ここから手裏剣を投げても弾かれそうだ。さてどうするか……


 ド────ン!!!!


「うわっ!?」


 考えている途中なのに、熊が私の居る樹に体当たりしてきた。凄い力だ。樹が揺らされて落ちそうになった。

 もう一撃ド──ン。手裏剣を投げるどころじゃない、樹にしがみ付くしかできなくなった私。


「おっぱいちゃん!」


 隣の樹の青年が私の心配をした。名前はおっぱいじゃねーし、まだ見せてもいねーよ。

 ドド──ン。三度目のクマさんアタックで樹が傾げた。おいおいおい、このままじゃ大樹ごと倒される? そっちの方向に倒されたら崖なんですけど。

 熊はそれを企んでいた。数歩下がり、また体当たりの準備をした。


(ヤバイ、落とされる)


 そう思った瞬間だった。横から二本の矢が美しい放物線を描いて飛び、熊の頭と胴体にそれぞれ突き刺さったのは。


「ガッ……」


 頭に命中した矢が致命傷となったようで、熊の四度目の体当たりは直前で取り消された。奴はヘナヘナとその場に倒れて動かなくなり、やがて発生した黒いモヤと共に霧散したのであった。


(完全に死んだら……こうなるのか)


 モヤの後に残った小さな光。それが地面に吸い込まれるのを見て、私は一歩間違えれば自分もそうなっていたのだと恐怖した。


「姉さん、樹が折れそうだ。いつまでもそこに居ると危ないよ」


 ほうけていたら、知っている声が優しく私の身を案じた。


(今の声は……まさか!)


 私は視線を移し替えた。熊が消滅した場所から、矢が飛んできた方向へ。

 そして心臓が飛び出るくらいに驚いたのだ。


「エナミ…………?」


 そこには弓を携えた愛する弟エナミと、隠密隊前隊長だったシキが居た。

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