みていて



 ジンに引っ越しが決まったのだと告げられたのは、その数日後だった。

 いつもメールで用件を済ます彼女から、珍しく電話がかかってきた。

 僕はいつもの服屋にいて、着信に気づくのが遅れた。

 地下にも電波は来ていたが、念のため地上の階に行く。非常階段の傍に立ってかけ直すと、彼女はすぐに電話に出た。


 旦那の栄転が決まったのだと彼女は語る。

 つまり、本社に戻るのだ。

 彼女も会社を畳み、彼についていく。だから、もう会うことはないかもしれない。

 そんなようなことを淡々と告げた彼女は、最後に会いたいと僕に言った。

「この間、ちゃんと報酬を払えなかったでしょう。渡すついでに、少し話せないかしら?」

 彼女はまるでビジネスパートナーに語るように言った。

 電話では細かなニュアンスは伝わらない。それに、電話の傍にはほかの誰かがいて、彼女の声を聞いている人がいるのかもしれない。

 それでも、僕はその冷たい響きが悲しかった。


 何と言って電話を切ったのかは、覚えていない。

 わかっていたのは、僕は彼女の決めた待ち合わせには行かないということだけだった。

 買うつもりだった服も忘れて、僕は建物を出た。

 そのままふらふらと歩いて、いつもの地下鉄に乗る。地面や壁がぐらぐらしているように感じたのは、僕の身体が震えていた所為だろう。

 冬の太陽は、暮れるのが早い。

 つい何週間か前までは、この時間も、青空が広がっていた。

 雲の形を見ながら帰宅をするのが習慣だったのに、いつの間にか、空は黒く塗りつぶされている。

 外の明暗でスイッチが入る街灯は、地面や周囲をオレンジ色にする。柔らかな色に包まれて歩いていると、心細くて寂しい深夜にいる気分になった。

 恋人の家の良いところは、駅から数分足らずで辿り着くところだ。

 合鍵でオートロックを解除する。

 午後は無人のエントランスで、エレベーターが待っていてくれていた。ここのマンションの住民は、自分が使ったあとのそれを一階に戻す習慣がある。機械にとっていいことかどうかはわからないが、少なくとも帰宅した人をすぐに出迎えてくれるのは素敵だ。

 しんとした廊下を進み、恋人の部屋の扉を開ける。

 細かい動作が億劫だ。

 靴を揃えることもしないまま、僕は、恋人が待つ部屋になだれ込んだ。

 僕のいつになく乱暴な様子に、恋人は、ぎょっとした顔をした。

 清潔な彼のシャツが見える。

 上品な眼鏡は僕が彼の為に選んだものだ。

 いつだって切りそろえられた爪は僕を傷つけることなく、僕を抱きしめてくれる。

「貴弘、」

 彼の名前を呼ぶ。

 僕を受け止めてくれた彼は、あたたかな部屋の匂いがした。

 上品なホテルや、薄暗い部屋の匂いじゃない。

 僕が好きな、生活感の溢れた香り。恋人の優しい眼差しそのものの香りだ。

「どうかした?」

 気がつくと、恋人の手でコートを脱がされていた。

 目の前にあるのは、しゅんしゅんと蒸気を出す古い型のストーブだ。

 なかなか点火しないのに、一度点けば汗をかくほど部屋を熱くする。どこかの中古屋で見つけたというそれを、僕の恋人は、何年も大事に使っている。

 この部屋に辿り着いてからの記憶がない。

 恋人はどうやって僕を引っ張り上げて、コートを脱がしたのだろう。

 首を傾げる僕に、彼は尋ねる。

 僕は視界がぼやけているのに気がついて、自分が泣いていることをようやく自覚する。

「ジンが、」

「うん」

「ジンが、もう僕と会わないって。もう僕は、必要じゃないって」

 しぼりだした声は、みっともなく動揺していた。

 身体が酷く冷えている。

 頭はぼんやりしているのに、何かが僕を殴り続けているかのように叫んでいた。ガンガンと響くのは、ジンの声だ。

 もう会えない。

 僕を誘ったときと同じように、あっさり離れていく声。

 理不尽に僕を使ったくせに、少しも未練を感じさせない冷静な響き。


 あんなに僕を求めたくせに。

 あんなに必要だと言ったくせに。

 子供のような僕が頭の中で暴れ回って、彼女を思いつく限りの言葉で罵倒する。

 そのうち、怒るのに飽きた僕は、僕の浅はかさを笑いだした。

 旦那がいるってわかっていたくせに。旦那の身代わりだって知っていたくせに。

 勝手に傷ついて、悲しむ僕を、子供の僕があざ笑う。

 全部わかっている。それなのに彼女との別れがつらい。僕にも帰ってくる家があって、抱きしめてくれる恋人がいる。僕を愛してくれる人がいる。全部全部、わかっている。


 なのに、彼女にはいつまでも不幸でいてほしかったと、我儘な僕が叫ぶ。


 恋人が僕を抱く力が強くなった。

 実際の僕も叫んでいたと気づいたのは、彼が僕の声を覆うように僕を包んだときだった。

 彼の胸に飛び散った唾や罵倒に、はっとする。

 慌てて見上げるが、彼は、優しい笑みで僕を見守ってくれていた。

 彼は、何も言わない。

 勝手に傷ついて、勝手にパニックになって、勝手に暴れる僕を、ただみていてくれている。

 それに気づいたとき、やっと、苦しかった息が落ち着いた。

「貴弘、」

「うん?」

「貴弘は、僕のことみてるよね?」

 僕はこの寒い街で生まれ育った人間だ。

 冬は長くて寒くて嫌になるときもあるけれど、冬が来ないと落ち着かない。

 暖かい毛布で汗をかくよりも、彼の氷のように冷たい瞳の方が安心する。


 あなたは不思議の国の住民のようだった。

 ジンは、僕を見つけたときのことをそう語った。

 男の子のような健康な匂いがしない。かといって子供であるといった不完全さは感じない。

 指輪にはすぐに気づいた。でも、大量の服に囲まれぽつんと立っていた僕は、彼女と同じくらいかわいそうに見えたらしい。

 不思議の国で大きくなったり小さくなったりするアリス。

 でもここは摩訶不思議な世界じゃないから、僕は簡単に元の大きさには戻れない。

 恋人の胸でやっと僕になった身体を、自分で抱きしめる。

 まだ身体は冷えていた。

 でも、少しくらい寒くても平気だ。だって、冬は贅沢なコートを着ることができる。温かな部屋で恋人と抱き合うことができる。白い息を吐き合って、冷たい口づけを交わすことができる。

 僕は恋人の香りを胸いっぱいに吸い込む。


「僕は、南音のことをちゃんとみているよ」

 恋人がそっと囁く。

 それはいつか聞いた警告のように、僕に目覚めの時刻を告げる響きだった。





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みていて 伍月 鹿 @shika_novel

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