鏡の国のアリス



 そんなやり取りを思い出しているうちに、ふと、先ほどの会話が蘇った。

 彼が僕を抱いたことで、僕は汚れてしまったのだろうか。

 行きずりの相手と寝るなんて今更だ。

 そうしているうちに恋人に出会ったというだけの話だし、恋人は僕の汚れなんて気にしない。

 汚れた過去は消えないと考えるか、洗い流してしまえば関係ないと考えるか。

 彼女の言ったことを考えているうちに、部屋は薄暗くなっていく。


 今日、彼女に指定されたのは五時間後の時刻だった。

 ホテルのチェックインと同時に部屋に入り、夜まで眠る。夜に仕事があるという彼女は夜中まで働いて、またこの部屋に戻って来る。その頃には僕はいなくなっているが、アルコールや薬の力を借りてジンも一人で眠るのだろう。

 それとも、そのまま朝を待つのかもしれない。

 僕はホテルのテレビを気まぐれに操作して、決して再生することがない映像のリストを眺めて時間を潰す。


 ふいに、視界の隅で何かが光った。

 正体を確認する前に、ベッドの隅に置かれていたジンの携帯電話が鳴り響いた。

 咄嗟に動いたジンの身体が、音に飛びつく。

 困惑する暇もなく、僕は彼女が電話に出るのを見守る。

 咳払い一つで普段の声を取り戻したジンは、寝起きとは思えない様子で相手と話し出した。

 口調から、仕事相手だとすぐにわかった。

 やがて完全に起き上がった彼女は、片手でホテルに用意されているガウンを拾い上げた。僕は彼女がしたいことを理解する。

 裸の彼女に硬いそれを被せると、彼女は狭い部屋の中を行ったり来たりし始めた。

 長い髪をかき混ぜながら彷徨わせる視線には、焦りのようなものが浮かべられていた。

 何かのトラブルがあったらしい。

 語る口調だけは、いつもの音を乱すことがない。

 熱心に電話の向こう側に語り掛ける声は、謝罪を繰り返しながらも穏やかだった。

 低く、落ち着いたトーンの声。

 女性の声帯は、酷使をするほど低い音が出るようになると聞いたことがある。

 男性と違って女には声変わりがないというが、実際には少しずつ変化していくものらしい。高い声の老婆が少ないのはその為で、最終的には皆しわがれた声になっていく。

 子供のようなソプラノボイスを捨て、大人へと変化していく。

 どこまでを成長と呼び、どこからを老いと呼ぶのだろうか。

 僕は右へ左へと移動する彼女のかかとを眺めながら、とりとめのないことを無益に考える。


「ええ、では、そのようにお願いします。はい、とんでもございません。よろしくお願いいたします」

 流れるようにジンは言う。

 僕が口にしたことのないような言葉たちだ。

 僕だって働いたことがないわけではないが、きちんとした言葉を使うような仕事とは無縁だった。

 てきとうにニコニコしていれば、僕が何を語ろうが相手は気にしない。そういう世界にしか暮らしたことのない僕は、彼女のような存在とは本来なら無縁だったのだ。

 十分ほど話をしたあと、ジンは携帯電話のボタンを押して、小さな機械を折りたたんだ。

 綺麗に彩られた指先を目で追って、互いに呼吸をつく時間を稼いでから顔を上げる。

「ごめんね、南音くん」

 その声を聞くための覚悟ができたとき、彼女は囁くように呟いた。

「仕事?」

「ええ」

「忙しいね」

「年末だもの」

 僕にとっての年末は、クリスマスが過ぎてからだ。

 ジンは、十二月に入ったばかりの今日を年末と呼ぶ。

 その違いが、僕たちの住む世界の距離なのだろう。


 ジンが、脱ぎ散らかした服を拾い上げた。

 僕も自分のシャツを探す。椅子にてきとうに積み上げたそれは短時間で冷え切っていて、身震いをしながら身に纏う。

 彼女と共に身支度をする間だけ、いつも、不自然な気まずさが流れる。

 身体を繋げたわけでもないのに、現実に返るかのような白々しさがある。互いに目が合わないように気をつけて、自分のことで夢中なふりをする。それでいて、相手を待たせ過ぎないように気を配り、殆ど同じタイミングで身支度が整う。

 まだ、この部屋に入ってから二時間も経っていない。

 僕は最後に靴を履くと、彼女よりも先に立ち上がった。

「じゃあ、行くね」

「ええ。また、今度」

 ジンは、穏やかに言った。

 早口気味だった仕事の電話とは異なる声に、僕は沈んでいた気持ちが少しは楽になった。

「風邪引いてない?」

 別れを少しでも引き延ばすための言葉は、随分と間抜けな響きで自分の耳に届いた。

「大丈夫。南音くんは?」

「元気。バイト先では流行っている」

「嫌な時期ね。気をつけないと」

 簡単に話を終わらせたジンは、長い黒髪をとかし始めた。

 もう瞳は、僕を見ていない。鏡に注がれた視線は熱心で、僕はどんなに美しく魅力的な人も鏡の前では女になるのだと学ぶ。

 自分の顔を覗き込む顔は真剣だ。

 そこにあるのが不思議の国だと気づいていない。現実ではない心地のいい世界。理想に歪められた自分しかいない世界。

 僕は何も言わずに部屋を出た。

 扉を閉める直前、クローゼットの中でジンの靴が倒れているのが目に入った。

 筋が細く浮かび上がった彼女の美しい足は、あのヒールを履いて初めて完成する。

 もう雪が積もりそうなのに、今日もジンのヒールは、折れそうなほど細かった。



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