汚れた過去は消えない



 ここのところ、彼女は忙しいようだ。

 夜に呼ばれることは減った。その代わりに、仮眠のためにしょっちゅう呼び出される。

 僕は何食わぬ顔でフロントを通り過ぎ、彼女に会いに行く。

 起き上がったジンは、備え付けられている電気ポットでお湯を作った。溶かすだけなのに香りのいいコーヒーを二杯作って、僕にも振舞う。

「こういうところの備品は使わない方がいいって言うわね」

 彼女はクスクスと笑う。

 僕は首を傾げて、彼女の言葉の意味を尋ねた。

「おかしなものを煮沸消毒するのに使う人がいるらしいの。こんな、電気で沸かした程度のお湯で煮沸できるとは思えないけど」

「でも、毎回洗っているよね」

「気持ちの問題ね。汚れた過去は消えないと考えるか、洗い流してしまえば関係ないと考えるか」

 ビジネスホテルは好きだ。

 狭い空間に何もかもが揃っている。

 大きなベッド。枕元のボタン。心地のいい音楽を流すテレビ。

 誰かが使う度に掃除されているだろうが、それでも微かな痕跡は残り続ける。汚した過去が消えないというならば、ホテルでくつろぐことができなくなる。

 僕は挑戦的な気持ちでコーヒーを飲む。

 その辺りで売っている水で作ったコーヒーは、何の変哲もない味がした。僕が肩を撫でおろすのを見て、ジンはまた軽やかに笑う。

 出張であちこちのホテルを使っているという彼女も、抵抗なくカップに口づけた。

 慣れた仕草でビニールに包まれたリモコンを手にし、テレビから流れる音楽を変える。

 スローテンポな当たり障りのない曲を聞きながら、コーヒーを飲み干す。

 最初と違うのは、僕らが並んで腰かけているのがベッドということと、ジンが、寝不足で酷い顔色を隠さなくなったことだろうか。

 彼女の完璧な化粧を剥がすと、青ざめた隈が顔を出す。

 ジンが美しい人であることには変わりないが、疲れた彼女は最初の印象よりも更に老けて見えた。

 僕はくたびれた彼女を盗み見ながら、眠る為のカフェインを取るジンと呼吸を合わせる。


 ジンは空調をいじったあと、着ていたジャケットを脱いだ。

 シャツのボタンを外し、ストッキングを脱ぎ捨てる。婉曲した素足のフォルムは、スカートを脱ぐとより際立った。引き締まっているのに、どこか柔らかいジンの足は美しい。

 ジンが下着を脱ぐ。

 日差しが差し込む部屋で裸になった彼女は、最後に長い髪を背に流した。

 歳を重ねてきた身体は、若い頃と比べれば衰えた部分も多いのだろう。

 黒ずんだ乳首や服でこすれて変色した肌は、もう昔のようなまっさらさを取り戻すことが難しい。刻まれた皺や傷は彼女と共に深くなっていく。それでも、彼女は綺麗だった。

 僕は惚れ惚れとしながら彼女を眺め、最後に彼女が僕を呼ぶのを待つ。

「南音くん」

 僕は、彼女の髪に手を伸ばした。

 ゆっくりと撫でて、息を吸う。

 吸って、吐いて、また吸って。

 ジンの呼吸が穏やかに整うのを待って、抱きしめると細い身体を包み込む。

 僕に体重を預けたジンが、静かに瞼を閉じる。

 子供のように小さくなっていく彼女を見下ろす。

 やがて、寝息を立てはじめるジンの身体は熱い。僕はそのぬくもりと壊さないようにそっと彼女をベッドに寝かせ、服を脱いでいく。



 いつか、ジンが僕に問いかけたことがある。

「全ての女性が、膣で快楽を得ると思う?」

 男女で異なる部分において、女性を語るのはタブーのような風潮が不思議だ。

 女性は堂々とペニスの話ができるのに、男性がヴァギナの話をするのは下品で下劣なことのように世間では扱われている。

 だから、僕は正直困ってしまった。彼女には女に興味がないことを告げたばかりだったが、彼女は僕が男に見えていることは気づいていた。

「さあ。人によるんじゃないの」

 当たり障りのない返事をする。

 全てのゲイがアナルセックスをしたがるわけではないのと同じで、向き不向きがあるのはなんとなく知っていた。

 ジンは、聞き分けの悪い部下を許すような顔をした。

 まだ若い新人を、眩しいもののように扱う仕草だ。社長のときの彼女はそういう表情をよくしているのかもしれない。そういうとき、僕の知っているジンは彼女にとってほんの一部分にすぎないと自覚する。

 あの頃の僕はまだ、彼女の存在にまだ緊張している部分があった。

 これから迎える長い夜にナーバスになっていたのだとも思う。

 まだジンは眠るのが得意じゃなくて、僕は一晩中起きていなければならない日も多かった。数日徹夜する程度はどうってこともないが、昼夜逆転の生活に慣れていなかった頃は彼女の呼び出しが憂鬱なときもあった。

 相手を喜ばせる返答をしなかった僕は、彼女には意地悪に見えたのだろう。

 ジンは、いつになく優しい仕草で僕に触れた。

「そうね、人による。セックスが楽しくない女性なんて、珍しいものではない」

 彼女曰く、女性が感じるためにはある程度の訓練が必要らしい。

 男同士のセックスでも同じことだが、僕は口を噤むことにした。僕の性事情など、彼女には興味がないことだと思ったからだ。

 女性にとって、自分を慰めることは悪いことではない。ホルモンを活性化すると美容にもいいし、恋人と楽しく愛し合えれば精神的にも落ち着くことができる。

「でも私は、そこまでしてセックスやオナニーがしたいと思えないわ」

「じゃあ、全然しないの」

「夫とはできたわ。それは彼のことが好きだからよ。自分のことは別にそこまで好きじゃない」

 あっさりとした調子で告げた彼女は、僕に触れた指先を静かに動かす。

 猫でも撫でるように僕の首筋を撫でた彼女は、僕の冷えた肌をなぞっていく。

「南音くんも同じでしょう?」

 頬に硬い金属が触れる。ジンの指輪は、もう何年も磨いていないかのようにくすんでいた。

 女性の年齢は手の甲に出る。浮き出た血管や弛みは、ファンデーションやコンシーラーでは隠しようがないらしい。

 男性の手は生殖器を連想させるもののようだが、女性の場合はどうなんだろう。

 僕は明後日のことを考えながら、彼女が僕の身体を弄ぶのを眺める。

「自分を大事にしている子が、こんなことを許すはずがない。こんなものをつけているのに、恋人以外に身体を触らせて悪い子ね」

 ジンのひんやりとした指先が、僕の指輪に触れる。

 僕の薬指で回転したそれを、僕は定置に戻す。


 僕の恋人は、とても優しい人だ。

 僕があちこちに目を向けても、少しも責めることはしない。

 僕に指輪を贈ったのも、周囲への牽制や独占という感情からは無縁の行動のようだ。どちらかというと、すぐに迷子になってしまう子供につけるハーネスに近い心境だと、彼自身が語っていた。

 お揃いの指輪をつけていれば、僕らは外から見ても恋人同士だとわかるだろう。

 一緒にお酒を飲みに行けば、バーのママは二人の指先を見比べてそっとしておいてくれる。服屋で互いの服を選び合っていても、プレゼントですかなんて聞かれない。

 邪魔をしないでください。無言の主張は、二人の世界に没頭するのにとても役に立つ。

 こうして一人でいるときは、指輪が彼そのもののように思うことがある。

 だから僕はすっかり指に馴染んでいる相棒を魔除けと呼んでいる。

 名前負けだと恋人は笑ってくれた。

 今日も役立たずだった相棒は僕の左手薬指でくるくると回って、間に溜まった汗でぷかぷかと泳ぐ。

 恋人にも、ジンのことは話してあった。

 僕が時々出かけるのも、しょっちゅう携帯電話を気にして彼女からの連絡を待っているのも、全て承知の上で許してくれた。

 彼のそうした部分を話すと、大抵の人は怪訝な顔を見せる。

 恋人を嫌な奴のように考え、僕に警戒するよう忠告してくる。

 でも、この世界で、少なくとも僕が出会ってきた人間の中で、僕を一番理解してくれているのは彼だ。


 必ず帰ってくるのなら、それでいい。

 ジンの元で過ごす夜が増えた僕は、恋人に尋ねた。

 僕はこのままでいいのだろうかと。

 あっさりと妥協の姿勢を見せた恋人は、僕以上に、僕のことを理解した口調で続けた。

「君の優しさは、相手を助けてあげたいという同情心じゃないね。自分が助かりたいと思っているから、人を助ける。君はそんな傲慢な人間だよ」

 恋人は、時折かわいそうな人に声をかけられ、そのたびにあっさりとついていく僕をそう表現した。

 その時の彼は、残酷なほど優婉な笑みを浮かべていた。

 線が細くてどこかの図書館で本を読んでいるのが似合う風貌の彼は、実際、どこかのエリート高校の出身だ。

 だが、大学へ進学はせずに数年ふらふらとしたあと、専門学校に入りなおした。

 いまは年下の学生たちと一緒に二度目の青春を味わっているらしい。顔に似合わず酒もたばこも夜遊びもできる彼は、時々、ぞっとするようなことを口にする男だった。

 そういうときの彼は、普段の優しさがウソだったかのような顔をする。

 誰かに傷つけられたことがある人間の顔だ。どこをどう切り裂けば傷つくのか、よくわかっている顔。 

 戸惑う僕に彼は「酷い奴だ」と吐き捨てる。

 僕は静かに傷つきながら、正論だ、その通りだ、と思った。

 僕も、そこまで自分が好きではない。

 だから平気で知らない人について行けるのだろう。失うものが何もないから、相手に全てを差し出せるのだろう。

 でも僕は、恋人の為に訓練をした。恋人と一つになる方法があるのが嬉しかった。爪を切りそろえるたびに、恋人のことを思って胸を熱くできる。

 本当は、指輪なんていらなかった。

 毎日身に着けているのは習慣に過ぎない。僕は恋人を愛していたし、恋人も僕を愛していた。それで良かったのに、恋人は僕を鎖でつなぎとめた。

 本当は、全部を赦しているふりをして、彼も不安なのかもしれない。

 そう思うと僕は、彼を一層愛しく感じる。

 彼も多分、僕に惹かれてしまったかわいそうな人なのだろう。

 そのぞっとするような冷たさが、僕にはいつだって心地がいい。

 世界一大好きな彼への悪口を聞きたくないから、僕は人に恋人の話をしない。


 代わりに、少し前に出会った人のことを話すことにした。

「自分の恋人には抱けない人は、好きすぎて汚せないと言っていたよ」

 恋人のことが大事すぎて抱くことができない。

 彼女もそれを理解しているから、そんな彼を責めることはしない。

 でも時折、それが原因で口喧嘩になるのがつらい。そう彼はもらしていた。

 大事とか言って、本当は私を愛していない。

 大好きな人から愛を疑われるのは、どれほど悲しいことだろうか。

 僕を抱きながら涙を流していた彼を思うと、僕は今でも胸が苦しくなった。

 しょんぼりしていると、ジンが僕の頭を撫でてくれた。

「自分を好きになるのは難しい」

 彼女は、その男の人も、僕も自分も、この不可思議な世界に向いていないのかも知れないと静かに告げた。

「皆が当たり前にできることができないのは、孤独ね。でも、本当はおかしいのはこの世界かもしれない」

 終わらないお茶会。

 トランプのおかしな議論。

 そんなものが当たり前の世界がどこかにあると信じられているように。

「その人にとって南音くんは、白兎だったのかもしれないわね。ここから連れ出してくるおかしな目印」

「あの人、アリスって感じじゃなかったけど」

 どちらかというと、ハートの女王を護る騎士のような人だった。

 僕は彼の屈強な肉体を思い出しながら語る。磨かれた筋肉は僕の身体を圧し潰すように抱いてくれた。

 その荒々しいセックスが新鮮で印象に残っているのだと告げると、何故かジンは呆れたような顔をする。

 やっぱり、誰かの複雑な内面のことなんて話題にするべきじゃないのかもしれない。僕はあれ以来会っていない人に詫びながら、ジンが欠伸をするのを見守った。



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