冷え込む朝
寒くて眠れない。
そう彼女は僕に告げた。
飲み終えたコーヒーのカップに触れながら、彼女は罪を懺悔するように俯きながら語った。
彼女は、今年の春からこの街で暮らし始めたらしい。
理由は多く語られなかったが、旦那の転勤についてきたのだということはなんとなく察することができた。
知り合いもいない。土地のこともよく知らない。肝心の旦那もあまり家に寄りつかず、転勤をしたというのにあちこち出張ばかりしているらしい。
ジンは、雪が降り積もり春まで溶けないこの地に怯えていた。
短い夏を過ぎたあと、空気は一気に冷え込んだ。
夜はもう布団なしに眠ることができない。長くこの地に住む僕にとってはまだまだ快適な季節だったが、慣れない彼女にとってはつらい夜が続いているらしい。
どんなに毛布をまとっても眠れないのだと彼女は訴える。
薬を飲んでも、どんな方法を試しても効果はない。月に数度、旦那が帰ってくる日だけは眠ることができる。でも、どこで何をしているかわからない彼を待ち続けるのはつらい。
だから、一緒に寝てほしいの。
そう最後は囁くような声で告げた彼女は、小さな子供のように震えていた。
以来、どうしても眠れない夜が続いたあと、彼女は僕を呼ぶようになった。
僕は彼女と一緒に毛布にもぐりこみ、彼女が眠るのを見守る。
彼女が指定した時間になったら、僕は彼女を起こす。ジンが僕に要求したのは、それだけだった。
ホテルは空調が使えるし、部屋が冷え切るということもない。だが、実際彼女は、傍に誰かがいないと眠らなかった。
時折、僕を待っている間にうたたねしていることもある。でも、それも僕が来るとわかっているから安心できるのだという。
最初は十分、二十分の仮眠だった。
それがいつしか数時間になり、旦那が帰らないとわかっている日は一晩のこともあった。
彼女の呼び出しに応えるうちに、僕は正式に信頼されたらしい。気がつけば彼女の家に招待されるようになり、そこで僕は一晩中、眠りにつく彼女の傍にいる。
どんなに涼しい土地といわれても、この街にだって春夏秋冬は存在する。
基準より数か月遅く来る夏はちゃんと暑いし、なくなりつつあると言われている秋は心地いい季節だ。冬は長いけれど、耐え忍んだ分だけ春は美しい。
なのに、ジンにとってこの街は、一年中真冬のようなものらしい。
厳しくて寒い、寂しい場所。彼女がこの地をそう感じていることは、言葉の節々から感じられた。
多分、彼女は寒いのではない。
ただ、さみしいのだと、思う。
だから、ぬくもりを感じていたいのだ。
僕に女を抱く趣味がないと知ったとき、ジンは少しだけ涙を流した。
諦め、悲しみ、安堵。
全ての感情が詰まったような涙を見たとき、僕は彼女が好きになった。
自分を切り売りするつもりだったのは、ジンの方だったのだろう。女性が寂しさを埋める方法はいくらでもあるが、負担が大きいことも僕は知っている。
ジンが望むなら、僕は彼女を抱いただろう。
だが、彼女はそれを望まなかった。望まなくていいとわかったときの笑みが、一番美しかった。僕は、彼女が声をかけたのが僕でよかったと思えたのだ。
彼女の元に足を運び、彼女の横で小舟を漕ぐ生活は、案外僕にとっても悪いものではなかった。
元々、生活リズムはあべこべだった。
好きな時に起き、好きな時に眠っていた。それが不規則になるのはどうってことなかったし、定期的に彼女に呼びされていると、外出する理由ができた。
仮眠の契約が一晩になったとき、彼女は僕に多すぎるほどの報酬を支払った。
僕は何もしていないと断ったのに、結局は紙束を強引に押し付けられた。恋人の家に持ち帰った紙幣は僕の生活費になって、毎日でなんとなく消えていく。
僕の存在に慣れたジンは、僕が拍子抜けするほどあっさりと、深い眠りに沈んでいくことが増えた。
彼女は裸でベッドに横たわる時、いつも小さく震えている。
寒さや緊張、不安や孤独だけが理由ではない。何もかもから解き放たれるという安堵に近いのかもしれない。
蛹が成虫になるためには、硬い殻を破って、羽を広げる必要がある。
自由になる喜びや期待で全身を震わせて、ありったけの力を出す。
旅立ちの瞬間を待ちわびている間は、受ける苦痛に拘泥していられない。その瞬間の生命力を、弱さや孤独だと語る人はいない。
彼女は、瞼を降ろすだけでそれが出来る。
僕はジンが眠ったあと、ベッドの横に腰掛けて彼女が羽を広げる姿を観察する。
彼女は、眠ったまま時折、指をしゃぶる。
子供のような仕草で、まるで口づけをするかのような音を立てる。
彼女が旦那の唇を愛撫する時、その口内は同じ様な音を奏でるのだろう。彼女をほったらかしにしている旦那の痕跡を探しながら、僕は彼女を眺める。
そうしている間に朝が来て、彼女はまた人の形を取り戻す。
美しい羽をしまい、欠伸をする。
無防備な笑みで僕を振り返り、多すぎる謝礼を支払う。僕は抵抗するのをやめ、綺麗な封筒に入ったそれを今日も恋人に渡すのだろう。
僕が全く反応しないとわかってから、彼女は僕にも服を脱ぐように要求した。服の感触が肌にあたると痛いらしい。僕は素直に要求を呑んで、欲情し合わない身体を重ね合う。
近頃、僕の方が寒さに震えているのかもしれない。
一晩つけたままにしていた暖房も、朝の冷え込みには足りなくなってきた。服を着て共に朝食を食べる頃、寝不足でふらついているのは僕の方だ。
彼女に見送られて朝の街に出る頃には、すっかり息が白くなっていた。
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