やっぱり、みて。




 ジンは、ホテルの中で靴を履かない。

 備え付けのスリッパにも足を通さない。彼女が履いてきたのであろう高いヒールの靴は、いつもクローゼットの中で転がっていた。

 彼女の足は大きくない。

 彼女の華奢で小柄な靴を見るたび、普段あまり意識することのない性別の違いを実感する。


 今日、ジンが僕を呼びだしたのは、美しいビジネスホテルだった。

 ただ眠る為ではなく、眠るまでの時間を楽しむ余裕が感じられる場所だった。入るのは初めてだったが、何度か前を通りかかったことはある。いまどきホテルでしか見ないような回転扉は、眺めるだけで胸が踊っていた。いざ潜ろうとすると一人で動かすのは大変で、後ろからきた外国人が殆ど回してくれた。

 フロントは金と茶で統一され、下品すぎない程度の赤い絨毯が敷かれていた。

 いかにも高級ホテルらしい佇まいで、どこから清潔な香りがするのも気に入った。

 ゆったりとしたピアノの音楽が流れている。フロントは広々としていて、利用客がくつろげるラウンジも兼ねているらしい。

 エレベーターはフロントの奥にあった。僕は受付を通り過ぎて、まっすぐ客室へと続くそれを目指す。

 フロントで待機する人間が、目線だけあげて僕を観察しているのがわかる。

 僕はまるで宿泊客かのように背筋を伸ばし、彼らの静かな警戒をやり過ごした。

 行くべき部屋番号は、すでにジンから教わっていた。

 外出の際に鍵を預けなくてもいいようなホテルを彼女は選ぶ。

 セキュリティが強固すぎてルームキーがなくてはエレベーターも乗れないような場所も選ばない。

 古き良き、密会に使われるためのホテルを彼女は多く知っていた。だから大抵、ジンは部屋で僕を待っている。

 待ち合わせに使うためのフロントのソファーより、ベッドで寝転びながら相手を待つ。その贅沢を知っている人だった。


 エレベーターに乗り込み、指定された階のボタンを押す。

 この建物は、すべての客室からホテルの中庭が見えるようになっているらしい。

 眺望の分だけ、部屋の値段も上がっていく。彼女が選んだのは建物の中腹くらいだ。事前に眺めた料金表から、彼女が、眠るために用意した金額を推測できる。

 眺めが良すぎるわけでもないが、低すぎるほどでもない。

 中途半端とも言えたが、身の丈であると納得することもできる。

 廊下はひとけがなかった。

 部屋番号を確認しながら通路を曲がる。

 ふと、微かに扉が開いたままになっている部屋を見つけた。

 オートロックで閉まらないように何かを挟んだのだろう。もう一度だけ部屋番号を確認してから、僕はその扉に手をかける。


 室内は、廊下とは異なる色で満ちていた。

 床は濃い灰色。壁はリネンホワイト。照明は落ち着いたオレンジ。まだ日差しが高い所為か、カーテンの淡いクリーム色が部屋を温かみのある空間に見せている。

 扉を止めていたストッパーを蹴り飛ばす。オートロックの扉が静かに施錠され、室内に静寂を閉じ込める。

 細長い作りの部屋だった。

 評判の中庭はカーテンでよく見えない。眩しい陽光で白く光る窓に目を細め、ようやく室内を見渡す。

 よく見慣れたジンの靴が、備え付けられたクローゼットに転がっていた。摘み上げて起こしてから、扉が開いていた理由に微笑む。

 古い作りなのか、雰囲気作りの為にそうしたのか。

 玩具のような鍵が、ドレッサーの上に置かれてあった。その鏡に、彼女の豊かな黒髪が広がっている。

 ジンは僕を待っているうちに眠ってしまっていたらしい。

 ベッドスプレットさえ外さないままうつぶせに眠っている。その豊かな身体をすっかりマットレスに沈めているが、まだ服は着たままだった。

 ベッドの横に膝をつく。

 柔らかな絨毯の感触は、歩き続けてきた足に心地良かった。

「お待たせ、ジンジャー」

 最初の呼びかけは、囁き声になった。

 彼女の瞳が見たい。でも、彼女に見てほしくはない。

 僕は、眠る彼女を見るのが好きだった。

 その瞬間だけは、僕と彼女の間に横たわる月日を意識しなくても済む。眠りに落ちた彼女は子供のようにあどけなく、見守る僕は、母親のような気持ちになれる。

 愛しい我が子を見守る母。

 母と眠るのは、腰抜けのすることだ。外国にはそんな言葉がある。僕はその響きが好きだった。

 腰抜けにも愛がある。

 そう考えたらとても愛しい響きに思える。単に英語に疎いからそう思うのだとしても、未知のものにかっこよさを覚えるのは無知の特権だ。

 ジンの涼しげな白いシャツが、清潔で上品なシーツで皺をつけていた。

 ゴールドのベッドカバー。羽枕とパイプ枕。硬くごわごわしているのに、不思議と心地よい寝具。

 彼女の為に静かに乱れている上質を撫でて、最後に彼女の身体に触れる。

「ジンカイト、ジントニック? 待たせてごめん。起きてよ」

 彼女の熱。

 彼女の暖かい身体に触れる度、僕は子供であることを自覚する。

 口から出るのも、子供が甘えるような響きになってしまう。

「ねえ、僕をみて」

 おかあさん、僕をみていて。でも、みないで。やっぱり、みて。

 そう言って駄々をこねる子供のように、身勝手で我儘な声が清冽なホテルの部屋を満たして温める。

 何度目かの呼びかけのあと、やっと彼女の瞼が震えた。

 まだぼんやりと焦点の合わない瞳が彷徨い、僕を捉えてほほ笑む。

「南音くん」

「おはよう、ジン。お待たせ」

「あまり、待ってないわ」

 欠伸まじりにふわふわと話すジンは、とびきり可愛い。

 緩慢な仕草で起き上がった彼女の髪を梳き、温かい身体がこちらに身を寄せるのを受け止める。

 そっと腕を伸ばす。

 僕から抱きしめに行ったのに、いつの間にか抱きしめられているのはいつものことだ。

 僕はジンの香りを吸い込んで、家に帰ってきたような気分で目を閉じる。



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