ドリンク・ミー
ジンが僕を最初に誘ったのは、何てことのない喫茶店だった。
昔はお酒を出す接待を含む店が喫茶店、アルコール抜きの店を純喫茶と呼んだらしい。
いまはどちらも名前だけ残っていて、喫茶店よりも純喫茶の方が格式高いイメージがなんとなくある。
この店は喫茶店の看板を掲げているが、如何わしいところは何もない。
ごく普通にコーヒーが出てきて、ごく普通にくつろぐことができる空間だ。僕が住む街にも点在するし、旅行先でもつい入ってしまう見慣れた看板だ。
ジンは、カウンターで自分のコーヒーを受け取ると、あっという間に二階席へ向かってしまった。
残された僕は、怪訝な顔をする店員をただぽかんと見つめ返す。同世代の若い店員の瞳に僕を迷惑がる色が見えても、すぐに動くことはできなかった。
ジンは、いかにもお金を持っていそうな女性だった。
彼女は、とても美しかった。
だから僕は彼女の誘いに乗ったし、まだ日が高い時間に談笑をするのがそこら辺の喫茶店というのも、可愛らしくていいと思った。
だが、彼女の振る舞いは、年下の男を買うことを心得ていないそれである。
期待外れの気持ちがむくむくと湧き上がる。おかしな女に捕まったに過ぎないのだと気づき、僕は彼女についていく意味があるのだろうかと自問する。
辛抱強く僕の注文を待つ店員の顔を見て、僕は機械的にココアを頼んだ。この店に来たらいつも頼むメニューである。ふわふわのミルクが入っていない代わりに、最後まで甘い大好きな飲み物の一つだ。ついでにレジ横に並んだクッキーを手に取って、一緒に会計してもらうことにする。
僕が帰らなかったのは、好奇心が勝ったからだ。
それに、もし彼女にがっかりすることになったとしても、ここのココアは美味しい。それだけで台無しな午後を帳消しにする魅力がある。
僕は人よりぼんやりしているらしく、見知らぬ人に声をかけられることが多かった。
大抵は、道を知りたい観光客や何かを売りたいセールスだ。宗教の勧誘はしつこいのが厄介だが、そこら中の人間を罵倒して歩いている老人よりはマシである。
急いでいることが少ない僕は、大抵の場合、立ち止まって話を聞くことにしている。同じことを歓楽街でもやっていると、時々、僕を買いたいという人に出くわすこともある。
相手は男が多かったが、僕の見た目を気に入ってくれる女の子もたまにいる。僕がゲイだとわかると落胆して離れていく子が多いが、面白がって飲みに誘われることもあるにはあった。
女性の、しかも年上から声をかけられるのは、初めてだ。
ジンは、ビルの地下にある服屋で僕に声をかけてきた。
どこにでもある海外のブランドで、日本の服屋よりも値段が安い。メンズサイズだと大きすぎることの多い僕の身長でも、格好がつくサイズも売っている。だが、シーズンによって雰囲気がかなり異なり、その年のテーマによっては、気に入るものが見つからないことも多かった。
僕は春に着るジャケットを探していて、自分が満足できるものを探すことに疲れてきていた。
手触りが気に入ってもデザインが好みではない。
デザインが好みでも、色が僕に似合わない。
自分にしかわからないこだわりにうんうんと苦しみ、いっそ、ジャケットなんて着なければいいのではないかとすら思う。去年買ったコートがまだ着られるし、コートで暑ければシャツを重ねればいい。家のクローゼットを思い浮かべながら、誘惑と現実を行き来する。
無難で丁度良いものはすでに見つかっていた。
でも、最後の決め手にかけていた。
鏡と商品棚を行き来してると、ふいに、女性がこちらに近づいてきた。
僕が振り返るよりも前に、彼女は一着の服を僕に差し出した。
あなたはこっちの色がいい。
そう彼女は断言すると、ぽかんと口をあけた僕に、時間があるか訊ねた。
結局、ジャケットは買わないままだ。彼女が薦めてくれた服も話のきっかけにすぎなかったのだろう。そのまま服屋のラックに置き去りにされたそれが、どんな色をしていたのかも覚えていない。
注文したココアを待つ間、僕は殆ど無意識のうちに、左手につけた指輪を回していた。
買ってもらったのは去年の冬だ。あれから少し痩せたのか、最近少しだけ指輪がゆるい。
恋人と揃いの指輪だ。毎日欠かさずつけていて、僕にパートナーがいることを主張してくれている。でも、僕に声をかけるような人は、不思議と指輪の存在に頓着しない。
機械が、大きな音を立て始めた。
ぴかぴかに磨かれた銀色の機械が、僕のためにココアを用意してくれているらしい。
コーヒーメーカーから液体が零れる様子は、色気のようなものを感じる。
音を立てながら震え、押されるままにその細い口から蜜を垂らす。はじめは勢いよく、次第にぽたぽたと。魅惑的な香りを放つ姿を堪能したいがために、喫茶店で働くことも考えたこともあった。だが、僕が飲食店でやっていけるイメージがわかなくて、諦めた職業である。
たくさんの人に笑顔と安心を与える仕事だ。責任もあるし、間違いは許されない。僕のちょっとした不注意で相手を危険に晒す可能性がある仕事なんて、ただ毎日をなんとなく過ごせればいい人間ができるものではない。
カウンターの向こうでキビキビと働く店員たちは、すごく立派な人間に見える。
コーヒーなんて複雑なものを学び、それを職に選ぶほどの興味。ありとあらゆる人が訪れる街中の喫茶店で、心からの笑みを浮かべられる健全さ。
裏側を全て見ることができない僕が、無責任に同情するべきではない。だが、嫌になることの方が多そうな仕事をこなしているというだけで、僕とは住む世界が違うのだと思ってしまう。
店員が、液体で満たしたカップを拭いた。
カップが清潔そうな布で包まれた瞬間、まるで、すべてが許されたような安心感を抱く。
汚れを落とした美しいカップ。
僕はそれを差し出されるのに値する人間になった気分にうっとりできる。
「ホットココア、お待たせしました」
ドリンク・ミー。
笑みを浮かべた店員に会釈をする。にっこりと会釈を返した彼女は、次のアリスにも優しい笑みを見せるのだろう。
あたためてもらったクッキーもトレーに乗せて、そろそろと階段をあがる。
この喫茶店は、二階の半分が煙草を吸う人の為のスペースだ。あの女性は、もしかして煙草を吸うのだろうか。そんなことをふと思いついて、僕も憂鬱な気持ちが少し晴れる。
人が煙草を吸うのは気にならない。
僕は吸わないが、煙草を吸う人の横で副流煙を味わうのは好きだ。
祖父が元気だった頃は、かなりのヘビースモーカーだった。家にはカートンで買っている煙草がたくさんあったし、灰皿は一日でいっぱいになっていた。僕は、祖父が吐き出す煙で遊ぶのが好きだった。いまでもあの煙草の香りをかぐと、そこに優しい祖父がいる気持ちになれる。
だが、僕の予想とは裏腹に、彼女は階段のすぐ近くの席で待っていた。
喫煙スペースの前だが、ガラスの向こう側ではない。
自動ドアで遮られた先から微かな匂いが零れていて、あまり人気のない空間だ。彼女は平気な顔でコーヒーに口をつけていて、何故、その一帯が空いているのかも気づいていない様子だった。
彼女の対面は、背もたれのないスツールしかない。
隣に座って二組分の席を占領するか。それとも、従順な犬のように彼女の正面に腰かけるか。
数秒で悩んで、僕は店側に優しい選択をする。席は他にも空いていたが、今日のようないつもと違うことが起きた日に、自分の罪悪感まで抱えたくない。
音を立てて、皿を置く。
彼女は、やっと僕のことを思い出したように顔を上げた。寄りかかっていた背を浮かせると、挟まれていた髪が揺れる。
「移動する?」
その声は、タオルにくるまれたココアよりも優しい音だった。
僕は安心して機嫌を直す。
「ううん。大丈夫」
スツールでも、別に悪くないのだ。
僕は、玩具のような椅子に腰かけて、それが床から浮かなかったことに満足する。案外重みがある椅子は、見た目よりも座り心地がいいらしい。
彼女が僕を待っていたことも確認できた。安心して、楽しみにしていたココアに口をつける。
「久しぶりで、気がつかなかったわ」
少しの沈黙のあと、彼女が言った。
「何が?」
「誰かとこうしてお茶を飲むなんて、随分としていなかったのね。貴方が来るまで、相手のことなんて考えもしなかった」
ソファーを独占したことも、相手を粗末な椅子に座らせることも。
ひょっとしたら、彼女は店に入った瞬間、僕の存在を忘れたのかもしれない。
彼女は、静かな仕草でカップを持ち上げた。コーヒーを音を立てることなく一口飲む。
唇が離れた白いカップに、口紅の跡すらつかなかった。
「友達とは来ない?」
こういう場所。
首を傾げると、彼女も同じ仕草をした。
「それとも、友達がいない?」
重ねて尋ねると、彼女は目を細めた。出来のいい生徒を褒めるような笑みだ。僕はクイズに正解したことを理解して、得意な気持ちに満たされる。
彼女はどんな人なのだろうか。僕は、ココアが入ったカップに口づけながら考える。
見た目は鮮麗されてはいる。コーヒーを飲む仕草も、カフェで静かに振る舞う姿も悪くない。
人は見た目の印象が、そのまま内面に繋がっている。でもごくたまに、口を開くまでそのおかしな内面に気づかないこともある。
例えば、時代錯誤な価値観で身を固めた人。
怒りの沸点がよくわからなくて、初対面の店員を見下すような態度の人。
そういう人はお金を持っていることも多いから、外見はきらびやかで美しいことも多い。そういう人もよく見れば親切な人とは異なるシワや表情を浮かべているから、最終的に見た目は裏切らないことも勿論多い。
僕は判断に迷いながら、彼女をじっくりと観察する。
綺麗な色で彩られているのに、カップに口づけても欠けない唇。
ほっそりとした顔。
長い髪。
ゆるいウェーブはとても自然なのに、自然のままにしているようなものぐささは感じない。
白いブラウスは清潔そうで、胸元が開いていても下品ではない。覗いた鎖骨に乗るのは、Vの形のプレートと、ゴールドのチェーンだ。それが有名ブランドのアクセサリーであることは、僕でも知っている。
彼女が持っているポシェットを盗み見る。
僕が知らないデザインだったが、アクセサリーと同じブランドであることはわかる。いいものを好き勝手に身に纏っている無頓着さは感じなくて、僕はまた彼女に好感を抱く。
やはり、彼女は美しい人だ。
蛍光灯の下で眺めた彼女は、はじめの印象よりも年齢を重ねているように見えた。でも、彼女の魅力を損なう理由にはなっていない。
彼女がカップを傾ける。長く垂らした髪が揺れる。
しばらくの沈黙に、持たせるべき間を感じなかった。
僕らの周りには、いろいろな人間がいた。
喫煙席を出入りする中年もいれば、課題に取り組む学生もいた。僕のように、何をしているのかわかりにくい若い男も多い。ラフな服装でノートパソコンを開く人もいれば、どこからか持ち込んだ新聞をめくっている老人もいる。
決して広くはない空間を共有しているのに、不快ではないのが不思議だ。皆が各々の世界に入り込んで、一緒にいるのに一緒にいない。
僕と彼女の間にも、そんな他人のような距離が横たわっている。
化粧と洋服と、体臭のにおい。僕は、女性らしいといわれるそれらの香りが、あまり好きにはなれない。
でも、彼女はあまりにも無味で無臭だ。
それでいて彼女自身から匂い立つ美しさがあった。多分、気品や艶と呼ばれる類の清潔感で、それが彼女が傍にいることに疑問を感じさせない。
彼女が長いこと何も言わないから、僕は注文したクッキーを囓った。
チョコチップが入った柔らかいクッキーだ。中央は硬く焼かれていて、表面を崩す度に軽やかな音がする。スーパーのお菓子売り場に売っているようなものではなく、こういったカフェで買える大きなクッキーが僕は好きなのだ。
ふと気がつくと、子供のようにクッキーを頬張る様子を、彼女は穏やかな表情で眺めていた。
やがて、ゆったりとした調子で僕に訊ねる。
「あなた、名前は?」
僕、なんていうの。
まるで、小さな子供に聞くような聞き方だ。
食べかけのチョコチップを皿に落として、僕は指先を拭う。
「南音」
「なおと?」
「方角の南に、音楽。でも僕は夏生まれじゃないし、歌うのは得意じゃない」
よく尋ねられることをまとめて答えると、彼女は口元だけで笑い声をたてた。そうするのが礼儀だとわかっているような反応だ。僕はマニュアルをなぞるように、彼女に同じものをお返しする。
「あなたの名前は?」
「ジン」
「ジントニックのジン?」
「好きなの?」
「カクテルの中では一番」
「奇遇ね。私もよ」
お酒が出ない喫茶店で、はじめて見つかった共通点だ。
僕の年齢を尋ねた彼女は、自分の歳を言わないままポシェットを探った。尋ねるつもりもなかった僕は、彼女の時間稼ぎに気づかないふりをする。
彼女が僕に渡したのは、小さな紙きれだった。
裏返しにして、名刺だとやっとわかる。ショップカードみたいなデザインのそれは、彼女の名前や肩書をアピールするためのもののようだ。
「社長なの?」
「小さな会社よ。私が辞めるといったら簡単に消えてしまうような、小さな場所」
彼女の謙遜は、言い慣れたように機械的だった。
僕の名前と同じで、名刺を出したときによく聞かれることなのかもしれない。
「これ、もらっていいかな」
「どうぞ。あなたの役には立たないかもしれないわね」
「少なくとも、あなたとコーヒーを飲んだ思い出にはなるよ」
「ありがとう。いい子ね」
僕の歳を聞いたからか、彼女の態度が目に見えて変わる。うんと年下の男の子を可愛がる振る舞いは、強がりというよりも、母性のようなものかもしれない。
平日の、正午をいくらか過ぎたころだったと思う。
外の公園にはオレンジの花が咲いていて、噴水が心地よくきらめいていた。カフェの二階に差し込む陽気は暖かい。どうか、窓際のスクリーンはおろさないままでいてほしいと思う。パソコンや本を睨む人にとっては眩しいかもしれないけれど、人間、たまには日光欲が必要だ。
こんな昼過ぎに見知らぬ男の子とお茶をできる社長が、普通の社会人なわけがない。
理解した僕は、もらった名刺をポケットに忍ばせた。
以来、名刺はどこかに行ってしまった。
多分まだ恋人の家にあるはずだ。僕の荷物や洗濯もの一緒に、ごちゃごちゃとしたどこかに紛れているのだろう。
書いてあった彼女の名前と、彼女の夫の名前は、もらったその瞬間に忘れた。僕にとって大事なのは、この美しい女性をなんて呼べばいいのかの一点である。
ジンは、小さなカップに注がれたコーヒーを飲み終えた。
僕もクッキーを食べ終え、チョコチップが残った指を簡単に払う。
「僕は、何をすればいい?」
彼女に今度の判断を委ねると、ジンは眉を下げた。手持ち無沙汰になった手を自分の肩に添えて、逡巡するように目をそらす。
僕に何かをしてほしがっているのは明白だった。
でなければ、僕のような人間をお茶になんて誘わないだろう。
いきなりホテルに誘わなかったのは、彼女なりの品性なのだろうか。
僕は相手がしたいようにしてくれればいい。ジンならば安いホテルに誘われてもついて行っただろうし、悪い人がたくさんいるような店だって行き慣れているから怖くもない。
「自分を売り慣れている子のような言い方をするのね」
ジンは、躊躇うように溜息をついた。
「僕がそうだとわかって声をかけたのでしょう?」
「あなたを選んだのは、あなたがとてもチャーミングだったからよ。沢山の服に囲まれて、まるでお伽話の住民のようだった」
彼女はきれいにラインがひかれた瞳を細めた。
僕が小さなスツールの上で行儀よくしているのを眺め、僕が身に着けているものに順番に視線を落と始める。
若者らしい髪型。
誰もが持っているような服。
魔除けの上を何気なく通り過ぎた視線は、僕の爪の形を熱心になぞった。
恋人のために切りそろえた爪を気に入ったように微笑んだジンは、躊躇いながらも口を開いた。
上品な口紅で縁どられた唇が告げる。
私をみていてほしいの、と。
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