みていて
伍月 鹿
贅沢な毛布
気をつけろ、そこは不思議の国じゃない。
唐突にジンが囁いたとき、僕は毛布のぬくもりに瞼をおろしかけていた。
裸で毛布にくるまるのは、真冬のコートのような贅沢さがある。
ウールやカシミア。アルパカにアンゴラ。キュプラのような高級品に触れたことはないけれど、きっと滑らかな手触りがするのだろう。それらが織り交ぜられた裏生地の心地は、寒い季節の特権だ。
首の裏やポケットに入れた手は、ほんの少しだけむず痒い。暖かい素材は肌にちくちくと刺さる。
それは、野生動物が毛を逆立てるような、防衛本能なのかもしれない。僕の肌も逆立って、慣れない素材へ対抗する。しっくりこない。くすぐったい。心地が悪い。でも、我慢できないほどじゃあ、ない。
使いこなすうちに、繊維は次第に丸くなっていく。
和解した肌とぴったりと寄り添い、主人である僕にぬくもりを与えてくれるようになっていく。
そんな年月を重ねていくのが、贅沢なコートを買う醍醐味だった。
僕はたまに、早く冬になってほしいと思うことがある。冬は贅沢なコートを着ることができるからだ。
ジンが僕に用意した毛布は、どこにでもある化学繊維のものだった。
洗濯を繰り返せば、端からぼろぼろと糸がほつれてきてしまうような素材だ。おまけに、趣味の悪い花柄をしている。
おばあちゃんの押し入れに眠っていたような、そんな毛布。夜は寒いだろうからと渡されても、受け取るのに躊躇う匂いがついている。鼻の奥で思い出す香りは、僕をいつも切なくさせる。
裸で味わうなら、そういう毛布がちょうどいい。ジンはそう言って笑っていた。
半信半疑で潜り込んだ僕も、意味はすぐに理解した。
人肌と眠気。それさえあれば、分厚くて趣味の悪い毛布は、高品質のウールを越えるのだ。
ジンが用意した毛布は、嫌な押し入れの匂いがしなかった。彼女のような上品な香りが、なんてことのない毛布を高級品に変えていた。
ビー、ケアフル、ユーアーノットイン、ワンダーランド。
ジンは、カタカナ英語とネイティブな発音の、中間くらいの声で繰り返した。
眠りかけていた僕を起こす、警告のような響きだ。
僕は自分がどこにいるのか思い出して、はっと枕に沈めていた顔を起こす。
「ごめん。寝ていたかも」
「いいの。まだ眠たくなかったから」
薄闇が目の前に広がっていた。
遮光カーテンを閉めた部屋は、外の灯りが届かない。暖房も切って、デジタル時計も光量を抑えている。
それでも、隣に横たわるジンの姿は見えた。
闇に沈んだ髪は乱れて枕に広がっている。顔はこちらを向いているが、瞳は影になっていた。開いているのかどうかはわからなかったが、彼女は僕を見つめている気がした。
「……まだ、眠れない?」
僕の問いかけに、返事をしなかった。
先に眠ってしまうのは契約違反だ。僕は罪悪感を覚えながら、彼女の冷えた身体を引き寄せる。
彼女の静かな呼吸が聞こえた。
僕はそれに合わせて息を吐く。
冷え切った部屋でも、吐く息までは白くない。それに、贅沢な毛布は身体を包み、ぬくぬくとぬくもりを逃さない。
ジンは、長いこと黙っていた。
そのうちに、彼女は眠ってしまったのだろうか。
僕は少しがっかりする。できれば、彼女の声をずっと聞いていたかった。
僕は、ジンの声が好きだ。
朝が得意じゃない僕にとって、目覚ましのアラームは嫌いな音の一つだった。不愉快で頼りにならなくて、朝の訪れを告げる音。
毎朝、彼女の声があればいいのに。
ジンの声なら、不思議と気がつける。もっと聞いていたいと耳が騒ぎ、僕を眠りから遠ざけてくれる。
乾いてしまった目を、ぱちぱちと瞬かせる。
声だけを、家まで持ち帰ることができたらいい。そうすれば僕は、いつだって好きなときに目覚めることができるようになるだろう。
彼女の声は、当たり前だけれど、彼女だけのものだ。
もし彼女の声を録音したとしても、電子機器を通した音はきっと別物になってしまう。僕を起こしてくれる音を聞くためには、僕は彼女の傍にいなければならないのだ。
欲しい場所だけ切り取って、枕元に置くことができたらいいのに。
でも、彼女の唇を介さない音は、僕の好きなジンの音になってくれるのだろうか。
「この前、出張ではじめての街に行ったのだけれど」
唐突に話の続きを始めた彼女は、寝ぼけた甘い声をしていた。
僕は姿勢を変えて、ジンの顔がある辺りに視線を戻した。
「時間があいて、でもコーヒーを飲む気分にもなれなくて、偶然みつけた映画館に入ったの。古くて、まだカウンターに人がいる小さな場所だった。何でもいいからすぐに見れるものと言ったら、上映中の作品を紹介してくれた。劇場に入ったとき、丁度主人公が囁くシーンだった」
裸のままベッドに入る彼女は、体温が高い。
指を伸ばせば、温かなぬくもりが触れた。丸い肩に触れ、彼女の腕、肘、手首と順になぞると、骨と肉の感触が僕をうっとりとさせる。
手を絡めると、彼女が微笑んだ気配がした。
潰れたままだった頬が起き上がって、僕がよく知るジンの顔になる。
「どういう意味の台詞」
「さあ。前後のつながりはよくわからない」
席にもつかずに映画を見ていた彼女は、スクリーンの灯りで台詞を手帳に殴り書いたらしい。以来、何度も思い出しては唱えているうちに、覚えてしまったという。
映画の主人公は若い男だったが、ラブシーンの相手も男だったようだ。彼女は最後まで立ったまま映画を見て、エンドロールを待たずに劇場を出たと語る。
通路の一番後ろで、仁王立ちでスクリーンを睨むジン。
僕は夢うつつに想像して、もう一度台詞の意味を考える。
気をつけろ、そこは不思議の国じゃない。
「なんていう映画なの。僕も今度見てみるよ」
「さあ、わからないわ。だって、本当に何でも良かったのだもの」
唐突に僕の手を振りほどいた彼女は、毛布を首元までぐっと引き寄せた。明らかな拒絶に傷ついた僕は、驚いてまた眠気が遠ざかっていくのを感じる。
暗闇に慣れた視界の中、ジンの瞳はギラギラと僕を観察していた。彼女が僕の反応を見て、面白がっているのは確かだ。
ジンにとって、時々僕を拒絶するのは、甘えのポーズなのだろう。
僕に望む会話をさせない。主導権を渡さない。翻弄して、僕から眠りを遠ざける。それ自体は構わないが、彼女に拒絶されるたびに小さく傷つく僕は、夜のたびに縮んでいる気がする。
不思議の国で大きくなったり小さくなったりするアリス。
ここは摩訶不思議な世界じゃないから、僕は簡単に元の大きさには戻れないのだ。
ジンがしたいように振る舞っているとき、彼女は僕より歳を重ねている女の顔になる。
香水やアクセサリーで武装しているときのジンは、年齢不詳の美しさを備えていた。
いつだって化粧を欠かさない完璧な姿。
長く伸ばした黒いつやつやの髪。
細いヒールで持ち上がった踵は小さく、高級ブランドのワンピースは彼女を清楚にも妖艶にも見せる。
女性の年齢は肘や手に出るというが、正確な年齢を知る女性が母親くらいの僕にとって、判断できる要素は少ない。僕はどちらかというと男性経験の方が豊富だし、ジンが僕にとって唯一といえる歳が離れた知り合いだった。
完璧なジンでも、眠る時は化粧を溶く。
彼女は、眠る前に身につけたものを全て脱ぎ捨てる主義らしい。ピアスのひとつも残さずに裸になる彼女は、服を着ているときよりもぼんやりとした印象になった。
僕はすっかり顔を会わせなくなって久しい母親を思い出しながら、一緒に毛布に絡まり合う。
毛布を掴む指先だけは、いつもの彼女だ。
僕には名前も価値もわからないものでキラキラしたそれを、そっと掴む。覆うように握った指先はやっぱり暖かくて、僕はまた小舟をこぐ。
一晩中話してくれていたらいいのに。
僕は世界一好きなジンの声すら眠る夜を呪う。彼女の彩られた爪が僕を突くまで、しばし短い眠りを楽しむ。
ジンと二人で裸で毛布にくるまるのは、この世で一番贅沢なことのように感じる。
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