第6話
「ギフト」 第6部
とみき ウィズ
「ちひろと裕子」
その夜。
ちひろが浮かない顔をしてテレビを見ている姿を裕子がじっと見ていた。
裕子の視線に気づいたちひろが無理やりの笑顔を裕子に向けた。
裕子がため息をついた。
「まったく、ちひろは判りやすい子だねぇ~」
「え?なに?」
「正直に言いなさい。
何かあったでしょ」
「ぐ…判る?」
「判りやすすぎ…晩御飯の時も今一、ぶすっとしてたし。
まぁ、普段もぶすっとしている子だけど…」
「ぶすぶすって言わないでよぉ…ニコピンの具合が悪いんだ」
「風邪?」
「ううん、なんか疲れたんだって」
「くたびれたって言いなさい」
「くたびれたんだって。
熱とかも無いし、でもすごい疲れ切った感じでずっと寝てたんだ」
「それなら心配無いじゃない。
なんかくたびれる事をしたんでしょ?」
「…そうだね。
わたし、お風呂はいろうっと」
立ち上がって風呂場に向かうちひろを裕子はじっと見つめていた。
「ちゃんと肩までつかるのよ」
「は~い」
ちひろがさっと体を流して湯船につかっていると裕子が裸で風呂に入ってきた。
「なになになに?」
「良いじゃん良いじゃん、親子なんだからぐふぐふぐふ!」
「なんか母親と言うより変態親父みたい」
「2人きりの親子だからね。
たまには親父役もやらねば!」
裕子がさっと体を流し、湯船に無理やり入ってきた。
湯船から豪快にお湯がこぼれた。
ちひろをひざに抱いて裕子はぷふー!とため息をついた。
「うーん、若いおなごとの風呂は格別じゃー!」
裕子は後ろからちひろをぎゅっと抱きしめた。
ちひろは裕子のわざとらしいはしゃぎ方に戸惑いながらも自分を励まそうとする裕子の気持ちを察してその腕に手を添え、頬摺りをした。
「ママ、心配してくれてありがとう。
将来ママが認知症とかになっても面倒見るからね」
裕子が後ろからちひろの後頭部に頬を寄せて目を閉じた。
「うーん、ありがとう。
ちひろは優しいね。
久々に洗いっこしよっか」
「うん!」
2人が立ち上がり、ふと足元を見た。
湯船のお湯は半分ほどになっていた。
裕子とちひろがほぼ同時に叫んだ。
「きゃー!もったいない!」
「ちひろ、またお湯足さないと…」
「…地球がまた温暖化するわ…白熊さんごめん!」
「…2人でお風呂はいるの時々にしようね」
強い風が風呂のガラスをガタガタと揺らした。
「風が強くなってきたねぇ~」
「うん、強いわぁ~、今日はさっさと寝よっか」
「うん」
2人は風呂を済ませると6畳間に並べて布団を敷いて、ちひろの父親に殺された家族の写真が飾ってある仏壇の前に正座して手を合わせた。
「どうか許してください。
天国で安らかにお過ごしください」
2人は声を合わせて小声で言った。
「どうかニコピンが元気になりますように」
ちひろが小声で付け加えた。
一瞬ちひろの横顔を見た裕子がまた仏壇に手を合わせた。
「どうかニコピンが元気になりますように」
ちひろが裕子に笑顔を向けた。
「ママ、ありがとう」
「お安い御用ざんす。さっ寝なさい」
ちひろが布団に入ると裕子が肩まで布団をかけてやった。
「はい、おやすみ。
ママはちっと見たいテレビがあるからね」
「はーい、おやすみなさい」
裕子は照明を消し、音声を小さくして寝転がりながらテレビを見た。
テレビでは今日から明日にかけての天気予報が流れていた。
「…夜半から朝方にかけては北風が強くなり、かなり体感温度が下がっています…」
ちひろは布団の中でテレビの音声を聞き、風で揺れるガラス戸の音を聞いた。
そのうちに裕子はテレビをつけたまま寝入ってしまったが、玄関の鍵を開ける音に気づき体を起こした。
洋服に着替えたちひろがタオルケットを脇に抱えて外に出てゆこうとしていた。
裕子の気配に気付いたちひろは玄関で固まり、じっと裕子を見た。
「…てへ」
ちひろは拳をこめかみに当て、飛び切りの笑顔を受かべた。
「てへ…それから?」
裕子が重々しく尋ねた。
「あ、あの、あのね…小屋に宿題を忘れちゃって…ほら、ニコピンに勉強を教えてるって言ったでしょ?」
裕子がため息をついた。
「明日、日曜日じゃない…仕方が無いわねぇ、いつからこんなお人よしになったんだか…」
裕子は苦笑いを浮かべて立ち上がるとパジャマを脱ぎ、洋服を着はじめた。
「そんな薄いタオルケットじゃだめよ。
えーと…」
洋服を着た裕子が押入れを開けて中を覗き込んだが、ため息をついて押入れを閉めると、ちひろの布団を丸めだした。
「ちょちょちょっと、それ、あたしの…」
「人助けをするなら徹底的にやりなさい。
今日あんたはママと寝るの明日安い布団を買ってやるから」
「えー!ママ、寝相が悪いから…」
「だまらっしゃい!」
裕子はビニール紐で布団を縛った。
冷たい風対策に厳重な厚着をした裕子とちひろが布団を抱えてアパートの部屋を出た。
「ちひろ、静かにね、夜逃げと間違えられると嫌だから」
「よに…」
「しー!」
2人は静かに布団を抱えて夜の街を小屋に向かった。
冷たい風がだんだんと強くなって二人の顔をこわばらせた。
ちひろと裕子が小屋の前に立った。
裕子が小屋を見て呟いた。
「本当に小屋って感じねぇ~ねえ、ちひろ…こんな所にニコピンが寝てるの?」
「ママ、ニコピン、ホームレスだよ。
それを考えたら豪邸だと思うけど…」
「…そうか…豪邸だわぁ」
2人は小屋の扉を開けて照明のスイッチを入れた。
「すごいわ!電気通ってるじゃない!」
「尚輝が通したんだよ」
「尚樹…デブのほうの子?」
「デブのほう」
「電気に詳しいデブってすごいわね」
「すごい電気に詳しいデブだよ」
「…デブって言葉、あんまり良くないね」
「そうだねママ」
「そうねぇ~…ふとりびと…ぷっ!」
ちひろと裕子は噴出しそうな顔を見合わせた。
2人は小屋の中に入った。
裕子が呟いた。
「やだ!小屋の中のほうが寒いじゃない!」
「本当だ。
なんだろう隙間風かな?」
部屋の隅に、ニコピンがタオルと勇斗達のセーターに包まって寝ていた。
裕子とちひろが入ってきても気づかずぐっすり寝ていた。
裕子とちひろはニコピンを起こさないように敷布団を敷いてニコピンの体をそっと転がし、敷布団の上に体を移動させると掛け布団をかけてやった。
ニコピンはまったく気づかずに寝ていたが掛け布団にゆっくりと包まった。
裕子とちひろは笑顔を見合わせて静かに小屋を出た。
2人は吹きすさぶ北風の中寄り添って家路についた。
「ニコピン、暖かそうだったね」
ちひろの言葉に裕子が感慨深げにうなずいた。
「ちひろ、変わったね」
「え?」
「前のちひろはいつもどこか構えてたけど、今は素直な女の子になってるよ。
ニコピンや勇斗君や電気に詳しいデブ、ふとりびとのおかげ…あのふとりびと、なんて名前だっけ?」
「尚輝」
「そうそう、尚輝君たちのおかげかもね。
感謝しなくちゃ」
「ママ…」
「今までちひろが辛い思いをしているのを知ってたよ。
肉屋のおばちゃんだとかに厭味言われたりしたんでしょう?」
「何で知ってるの?」
「内緒でママの味方をしてくれている人もいるんだよ。
みんながみんな悪い人じゃないんだよ。」
「…」
「ママ、ずっと心配だったんだ。
ちひろがひねくれちゃうんじゃないかとね。
でも、ちひろが困った人のこと心配する心があるやさしい子になってうれしいよ」
「ママ…」
「きっと、ニコピンはちひろの心を暖かくするために神様が連れてきてくれたんじゃないかな」
「…」
「ちひろがまだ、ちひろよりかわいそうな人を見て何とかしてあげようって心があって、ママうれしいんだ」
「だってニコピンは…」
「まぁまぁ、人間てね、体の痛みでも心の痛みでも自分の痛みが一番痛いんだよ。
ちひろはその痛みと戦いながら他の人の痛みも気遣ってやれる、なんて言うかな…心の余裕みたいな物があるって判って、ママ安心したんだ」
「言ってることよく判んないや」
「まぁいいさ、でもこれだけは覚えておいてね。
心の余裕を持ち続けるって大切な事だよ。
心に余裕が無いと自殺したくなったり、人を傷つけたくなったり色々と悲しい事をしたくなるからね」
「心の余裕…」
「ママも上手く言えないや。
心の余裕ってだけ覚えておいてね。
それはとっても大事な物だから」
「うん」
「ちひろは実は本当に心が優しい良い子だよ。
ママの育て方、間違って無かったね」
「でもそれってただのお人よしって事じゃない?」
「ばかだねぇ、お人よしでいるのってすごく大変なんだよ。
生きているうちに何度も裏切られてお人よしの所が無くなっていくのが人間なんだよ。
でも、お人よしって、きっと神様にもらった大切な心の部品なんだよ」
「神様っているのかなぁ?」
「ママもよく判らないけど、神様がいなくちゃなんとなく寂しいでしょ?」
「うん」
「じゃ、神様はきっといるよ。
どんな神様だか判らないけど、きっと今日のちひろを見て喜んでいるよ」
「そうなの?」
「そうさ、神様は優しさの大本だからね。
いわゆる愛ってやつよ」
「何か、ママ熱く語ってるね」
「今日は熱く語りたいんだよ。
ちひろの中に神様を見たからね」
「変なの」
「変でも良いんだよ。
寒いから家まで競争しよっか?
よーい!」
どん!と言う前に裕子が走り出した。
「ママ!ずるいし!」
「馬鹿だねぇ!これは神様関係ないよ~!」
裕子とちひろは北風の中を笑い、はしゃぎながら家まで走っていった。
2人の頬は冷たい北風で真っ赤だったが、どんなに冷たい風でもその笑顔を消す事ができなかった。
2人は北風の中、笑いながら駆けていった。
「予兆」
明けて日曜の朝。
昨日までの激しい北風が止み、穏やかな秋晴れになった。
ちひろが出かける用意をしている時、裕子がなべで何やら煮込んでいた。
「ちひろ、これ持って行きなさい」
「何、ママ?」
「残り物で作ったクリームシチューだよ。
ニコピンに食べさせてあげな。
あと、パンが幾つかあるから持って行きな」
裕子は対熱のタッパーにシチューを入れてふたをすると、クロワッサンを幾つか紙袋に入れた。
「ママ、ありがとう」
「車や変な人に気をつけるんだよ」
タッパーとクロワッサンが入った紙袋を持ったちひろが笑顔で裕子に手を振り、部屋を出て行った。
小屋には勇斗が先に来ていて、布団に包まりすやすやと寝ているニコピンの隣に腰掛けていた。
ちひろが小屋に入ると勇斗の表情にただならぬものを感じて、立ち止まった。
「勇斗、どうしたの?」
「まぁ、裏に来てよ」
慌てて紙袋を置いたちひろが小屋を出てゆく勇斗の後を追った。
小屋の裏の墓地はめちゃくちゃに荒らされていた。
十字架は根こそぎ倒されごく新しい墓は乱暴に掘り返されていた。
「…ひどい…ひどいよ!誰がこんな事…」
「たぶん昨日の夜から今日の朝にかけてだな」
「あたしが布団を持ってきたときは暗くて小屋の裏がどうなっていたか判らなかったよ」
「あっやっぱり布団を持ってきたのはちひろか。
俺も昨日風が強かったからニコピンのこと心配してたんだ」
尚樹が電気ストーブを抱えてやって来た。
「おーい!ニコピンにプレゼント持ってきたよ」
「すごいわぁ、尚樹!どうしたの?」
「うちの物置にあったんだ、コタツもあったけど大きすぎて持ってこれなかったんだ」
「あいかわらず、ブルジョワね…」
「いいじゃんこれから寒くなるんだから。
俺たちも助かるよ」
「ところで2人ともなんで裏から…うわ!これはひどいよ!」
荒らされた墓地を一目見るなり尚樹が叫んだ。
「ひどいでしょ!
心の余裕が無い人の仕業よ」
「心の余裕?」
「そう心の余裕」
「ともかく、これは直さないとね。尚樹も手伝ってよ」
「うん」
「ちょっと待って、あたし、ニコピンに食べ物持ってきたんだ」
「じゃぁ、ちひろはニコピンに食べさせてからおいでよ」
「うん」
ちひろが小屋に戻り、勇斗と尚樹が掘り起こされた墓を埋め始めた。
「今までこんな事無かったのに」
「でも、俺はその内にこんなことがあるだろうと思ってたよ」
「勇斗、どうする?」
「ずっと見張るわけにも行かないし…俺たちが学校に行ってる間や夜はニコピンにがんばってもらうしかないなぁ~」
「ニコピン、喧嘩弱そう…」
「喧嘩もしないよ、きっと…」
2人は無言で荒らされた墓を直していった。
ちひろも加わって小屋の裏の墓地の修繕が終わると、3人は、シチューとクロワッサンにかぶりついているニコピンに昨日の夜の事を尋ねた。
案の定、ニコピンはぐっすりと寝ており、異変に気づかなかった。
ニコピンは少し元気を取り戻し、ややおぼつかない足取りながら自力で歩きはじめた。
そして、勇斗達がとめるのも聞かずに一人で散歩に出かけた。
勇斗達は、尚樹が持ってきたコミックを読んだり、ゲームをしたりして時間を過ごした。
ニコピンが川原を歩いていると、草の中から貧弱な体型だが目つきが鋭い陰惨な気配を漂わせた私服姿の男の中学生が出てきた。
中学生はニコピンとすれ違いながら、敵意のこもった目でニコピンを見た。
ニコピンは穏やかな微笑みを顔に浮かべて中学生を見た。
「何がおもしれえんだよ・・・」
中学生がニコピンにつぶやくと川原を歩いていった。
手に血がついていた。
中学生は草をむしりとって手についた血を拭うと乱暴に草を投げ捨てた。
中学生の後姿を見送ったニコピンは中学生が出てきた草むらの中に入っていった。
しばらく歩くと、ネズミが一匹、ナイフで切り刻まれ、靴で散々に踏み潰されて死んでいた。
ニコピンが慌ててしゃがむとネズミの死骸を手にとった。
たちまちネズミは生き返った。
ニコピンの首の痣がまた少し黒ずんだ。
ニコピンは少しふらついたがネズミを草の中に放してやった。
生き返ったネズミはチョコチョコと草の中に消えていった。
首の痣に手を当ててニコピンはネズミを見送った。
痛みを感じたのか、ニコピンが顔をしかめて首の痣をさすった。
ニコピンは散歩に出かけた時よりおぼつかない足取りで小屋に戻った。
真っ青な空の下、そよ風が川原の草を撫でて通り過ぎた。
「秘密」
勇斗達が、ゲームで盛り上がっている時にニコピンが足をふらつかせながら小屋に戻ってきた。
ちひろが立ち上がって、まるで母親のように言った。
「ほら、ニコピンまだ散歩なんて無理だったのよ。
早く布団に入って寝なさい」
ニコピンは手を突いて布団まで這いずって行き、静かに身を横たえた。
勇斗が掛け布団を掛けてやる時、さりげなくニコピンの髪を書き上げて首の痣を見た。
痣は以前よりも黒ずんでいた。
勇斗は痣を見つめながら何がしかの不安を感じた。
ニコピンが不自由なく動けるようになるまで一週間掛かった。
その間に、尚輝の妹の美菜は小児白血病の権威と呼ばれる医師がいる東京の病院に搬送されていった。
冬がはっきりと自己主張を始めたある週末の夜。
「つかさ」は客が立て込んでいて、勇斗も手伝いに借り出されていた。
料理を出したり皿を片付けたり、てんてこ舞いに忙しかった。
早い時間からの客が店を出て一段落したのはもう10時近くであった。
それでもまだ、店内の席の半分にまだ客が座っていた。
早苗はカウンターの客の相手を中断して空いたテーブルの皿を下げてきた勇斗に言った。
「勇斗、ありがとう、ご苦労さん。
もう休んで良いよ」
「じゃ、このテーブルだけ片付けるよ」
勇斗が又テーブル上を片付けるのを見た常連客が口々に勇斗を褒めた。
如才なく客と話している勇斗を、早苗は複雑な思いで見ていた。
早苗は勇斗が酔った人間を嫌いなのを知っている。
勇斗の父親を撃ち殺したのは酒乱の気があった暴力団員でその時もかなり酒を飲んでいてろれつが廻らない状態だったと言う事も知っている。
今の勇斗は愛想の良い孝行息子を客の前で演じているに過ぎないのだ。
中年過ぎの貧相な男がそろりと「つかさ」に入ってきた。
男はカウンターに腰掛けるとビールとつまみを2品注文した。
テーブルを片付けて振り返った勇斗の目がカウンターの男の首筋に釘付けとなった。
男の首筋にある痣がニコピンの痣とまったく同じ形だったからだ。
しかし男の痣のほうがニコピンより幾分黒い。
勇斗は重ねた皿を持ってカウンターの後ろを歩いたが男の痣に気を取られて転んでしまった。
「ちょっと!勇斗!大丈夫?」
早苗が心配して声を掛けた。
勇斗は早苗を心配させまいと笑顔で立ち上がったがすぐに痛みで顔を歪めた、左の膝小僧を皿の破片でかなり深く切ってしまった。
常連客の一人で口ひげを蓄えた客が勇斗の膝を見て叫んだ。
「大変だ!勇斗君の膝がかなり切れてる!」
早苗が心配そうにカウンターから身を乗り出し、他の客も騒ぎ出した。
その時、首に痣がある貧相な男が椅子から立ち上がり手にお絞りを持って勇斗に近付いた。
「ああ、心配ない心配ない、これはお醤油がついたんだ」
男は手にお絞りをかぶせて勇斗の膝をお絞りで拭うようなそぶりをしながら、じかに勇斗の傷に触った。
勇斗の膝の痛みは跡形も無く消え、傷は跡さえ残らずに消えていた。
口ひげの客が狐につままれたような表情で言った。
「おかしいな…確かに凄く切ったような…」
他の常連客が口々に口ひげの客を冷やかした。
早苗がほっとしながらも口ひげの客に脅かさないでよ、と文句を言った。
座が治まり、店内では客達が又それぞれのおしゃべりに戻った。
勇斗が首に痣のある男に話しかけようとしたが、男は微笑みながら視線をはずしてやんわりと勇斗をさえぎった。
勇斗はカウンターの中で早苗に自分の膝を拭いた男はよく来るのかと小声で聞いたが早苗はまだこの店に来るのは2回目だと答えた。
勇斗はわざと時間をかけて割れた皿を片付けたり、テーブルを拭いたり、客のおしゃべりの相手をしたりして、早苗が遅いからもう2階に行くようにと言う言葉を無視した。
小一時間が過ぎ、首に痣のある男は勘定を済ませて席を立った。
勇斗が男の立った席を片付けながら何かを拾った振りをした。
「あっあのおじさん、忘れ物をしたよ!僕届けてくる!」
勇斗は手に何か持つようなそぶりで早苗が呼び止めるのも聞かずに素早く店を出た。
勇斗は店を出ると左右を見回し、駅の方に歩いてゆく男の後を走った。
「おじさん!おじさん!」
勇斗は男に追いついて呼び止めた。
男は振り向いて微笑みを浮かべた。
「ああ、さっきの子かぁ」
「おじさん、さっきは怪我を治してくれてありがとうございます」
「良いんだよそんな事、それよりさっきの事、おじさんと君だけの秘密にして欲しいんだ」
「え、何でですか?
もったいないじゃないですか。
あんな素晴らしい事ができるのに。
いろんな病気とかで困ってる人たちを助けてあげてください」
男は微笑みながらも、困った表情を浮かべて勇斗を見つめた。
「実はおじさんは『分けて』『与える』事が出来るだけなんだよ。
皆がこれを知ったら、たちまちおじさんに押し寄せてきて、『分けて』『与える』物がすぐに無くなっちゃうんだよ」
「え?」
男は自分の首筋の痣を指差した。
「ほら、おじさんのここに痣があるだろう?」
「はい」
「何色に見える?」
「…くろ…かな」
男は寂しげな笑顔になった。
「もう、そろそろなんだよ」
「えっ、そろそろって」
「おじさんの一族も、もうすっかり少なくなった」
「おじさん、一族って、僕…おじさんみたいな痣の人…」
その時、少し先の交差点で凄まじい衝突音が響いた。
信号無視した軽乗用車が、ミニバイクを跳ね飛ばしたのだ。
たちまちあちこちから人が集まり大騒ぎになった。
ミニバイクに乗っていた若い女がガードレールまで飛ばされて真っ青な顔をして横向きに倒れていた。
女の顔の下の血溜まりが見る見る道路に広がっていった。
首に痣のある男が勇斗の肩を軽く叩いた。
「おじさん、『分けて』『与え』に行かないと…」
男は倒れた女を囲んでいる人垣を押し分けて、女の頭のそばに膝をついた。
男の後を追った勇斗の目の前で男は両手を女の頭に当てた。
女の顔は蝋細工のように色が抜けて、精気がまったく感じられなくなっていた。
男は勇斗にウインクした。
「こらぁ、子供が見る様な物じゃないぞ。
おそらく、俺はこれで打ち止めだ。
…坊や、バイバイ」
男が手に力をこめたと思ったら急に体の力が抜けて女の横に崩れ落ちるように倒れて動かなくなった。
男と入れ違いに、女は顔に血色が戻り、目を開けた。
女は体を起こしてすぐ横に倒れている男の体から気味悪そうに離れた。
そして自分の顔にべっとりとついた血に気付き悲鳴を上げ、近所の中華料理店の主人が差し出したお絞りで狂ったように顔を拭った。
傷は無くなったようで女はまったく痛みを感じるそぶりを見せなかった。
見物人の中から若い女が歩み出て、男のそばにしゃがんで脈を取った。
勇斗は男の首の痣をじっと見つめた。
痣は底無しの穴の様に真っ黒になっていた。
若い女が周りの見物人に向かって叫んだ。
「私は看護師です!
この人は呼吸と心臓が止まっています!
誰か人工呼吸か心臓マッサージが出来る方、いませんか!」
若いがっちりした体型の男が進み出て、看護師と協力して倒れた男に心臓マッサージと人口呼吸を施した。
やがて、パトカーと救急車のサイレンが聞こえてきた。
勇斗は後ずさりをして身を翻すと「つかさ」に向けて歩き出した。
勇斗は、あの首筋に痣にある男は何をしても絶対に息を吹き返す事は無いと悟った。
あの男は『分けて』『与える』物を使い切ってしまったことを。
あの痣はその事を表す徴だということを。
『分けて』『与える』物が残り少なくなるとどんどん黒くなってゆく事を。
勇斗は、はっきりと悟った。
勇斗はその場から逃げるようにいつのまにか走り出していた。
走りながら勇斗は顔をこわばらせて呟いた。
「他の人や動物に『分けて』『与える』物って…自分の命なんだ…ニコピンは自分の命を分けて与えてるんだ…ニコピン…ニコピン!」
「つかさ」に戻って3階の自分の部屋にあがった勇斗は服をそそくさと着替えて布団にもぐりこんだが、なかなか寝付けなかった。
続く
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