第2話

「ギフト」  第2部

                        

                      とみき ウィズ




「ニコピン」



 ホームレスが立ち上がり尚輝の背中の上に片手をついて体を押えると、もう片方の手で矢を掴み、一気に引き抜いた。

 尚輝の口から悲鳴がほとばしり、傷口から1メートルほども血が噴出した。

 勇斗は腰を抜かし、ちひろは自分の顔をかきむしり膝をついた。

 ホームレスは矢を投げ捨てると尚輝の傷に手を当てた。

 出血が瞬時に止まり、ホームレスが手をどけた。

 傷が消えていた。

 

勇斗とちひろが目を見張り尚輝の尻を見つめる。

 尚輝がふーんとため息をついた。

 ホームレスは汗まみれの顔で消耗しきったように腰を下ろした。


「尚輝、痛くない?」


 ちひろが涙声で尚輝に尋ねた。


「…いたくなーい」


 尚輝が気が抜けた声で答えた。

 勇斗がバットを拾い、身構えながらホームレスに近寄った。


「おまえ…尚輝に何をしたんだ?」


 ホームレスはよろよろと立ち上がり、ノートと鉛筆とカッターをバッグに入れると土間を横切った。


 入り口にひざまずいていたちひろが怯えるようにホームレスの体をよけた。

 ホームレスは寂しげに微笑むと小屋を出て行った。

 雨が急に降ってきた。

 勇斗、尚輝、ちひろの3人はあっけに採られてホームレスの後姿を見送った。


「…かわいそうだよ」


 ちひろが、大量の置き傘から一本の傘を取り出すとホームレスのほうに走っていった。

 ホームレスがちひろに気付くと怯えたように両手を小さく挙げて後ずさる。

 ちひろは傘を開くとホームレスにさしかけ、袖を掴むと小屋のほうに引っ張った。

 横殴りの激しい雨がちひろとホームレスをびしょ濡れにした。

 ちひろはホームレスを小屋の入り口まで連れてきた。


「悪い人じゃなさそうだから泊めてあげようよ」


 ちひろの声を聞いた尚輝が勇斗の顔を見た。


「…」

「勇斗!」

「勇斗、僕もちひろに賛成」

 ちひろが勇斗に叫んだ。

「雨が止むまでだけでもいいでしょ!」


 勇斗は無言のまま、ちひろとホームレスを入れるために入り口から後ずさった。

 雨足はますます強くなった。

 勇斗、尚輝、ちひろの3人はちひろが押入れから出した古タオルで体を拭いているホームレスをじっと見つめている。

 古タオルがホームレスの体の汚れで見る見る黒くなってゆく。


「汚いね…」

「…うん、汚いね」

「汚いわぁ」

「それに…臭くない?」

「…うん、臭い」

「臭いわぁ」

「あのノート…」

「喋れないのかな?」

「喋れないでしょう」

「…耳は聞こえてるみたいよ」

「…うん、聞こえてるみたい…」

「頭、悪そう」

「…きっと、悪いね」

「かなり、悪いよ」

「さっきのあれ、なんだったんだろう?」

「もう、私にあんなの持たせないでよ」

「…なにを?」

「吹き矢!もう、死ぬかと思っちゃった」

「それなら僕のほうが死ぬほど痛かったよ」

「ごめん、あんなに凄いと思わなかったんだ」

「…吹き矢って、怖いね」

「怖いわぁ」

「…でも、あれ、何だったんだろう?」

「なんだったんだろうね?」

「魔法使い?」

「でも、頭悪そう…」

「…悪いね、きっと」

「尚輝、本当にお尻痛くないの?」

「うん、痛くない」

「…凄いわぁ…」

「凄いね…」


 3人は小声で無表情にホームレスの感想やさっき起きた出来事の感想を述べた。

 ホームレスが3人に微笑んだ。

 3人はぎこちなくホームレスに笑顔を返した。

 雨は激しく降り続いた。

 勇斗達はホームレスをたたみの間に上げるのに抵抗を感じたが、土間に座らせているのも変なので押入れにあったブルーシートをたたんだものの上に座らせた。

 勇斗がニコニコして座っているホームレスに尋ねた。


「おま、…あなたの名前は何ですか?」


 ホームレスがバッグからノートと鉛筆を取り出し書こうとしてが鉛筆の芯が折れていることに気付いて、カッターを出して、あぶなっかしい手付きで鉛筆を削り始めた。


 勇斗たちがはらはらしながらその手付きを見つめている。

 案の定、ホームレスが指先を少し切って痛そうに顔をしかめた。

 勇斗達も顔をしかめた。

 良く見るとホームレスの手は小さな傷がたくさんついていた。

 それでも、ホームレスは何とか削り上げた鉛筆でノートに字を書き込んで勇斗達に見せた。


  なまえ わからない


 勇斗達はずっこけた。


「なんだよなんだよなんだよ!名前無いの?」


 ちひろが笑顔でうなずくホームレスに尋ねた。


「あなた、どこからきたの?」


 ホームレスがまたノートに書く。


 ずっと とおいところ


 尚輝がホームレスに言った。



「僕のお尻治してくれてありがとう」


 ホームレスが笑顔でうなずいた、が真剣な顔でノートに書いた。


 あれ ないしょ ないしょ


「え?なんで?」


 当惑顔のちひろが尋ねた。


 あれをすると おこられる たたかれる


 勇斗が意外そうに声を上げた。


「何で?凄いじゃない」


 だめだめ あれをすると おば おこる おば こわい とても


「おばって誰?」


 ちひろの問いにホームレスが怯えた表情で外の気配を窺った。

 そしてノートに何やら長い文を書き始めた。

 激しい雨が小屋の屋根や窓を叩く音が聞こえていた。

 勇斗達はホームレスが差し出すノートを覗き込んだ。


 おば たべものくれた じ おしえてくれた

 でも いえ だしてくれなかった

 いつも ぼく たたいた

 おば ぜったい あれしたらだめ いった

 あれすると おこった ぜったい だめ いった

 おば つめたくなって うごかなくなった

 おなかすいても たべものくれなくなった


 でもあれすると おば すごくおこるからしなかった

 ぼく いえ でた


 ちひろが尋ねた。


「その、おばっていう人が冷たくなったのってどのくらい前なの?」


 なつにつめたくなつた それから ふゆ なつ ふゆ なつ ふゆ 


 なつ わからないくらい まえ



「おばはあなたの事を何て呼んでたの?」


 勇斗がたずねるとホームレスが悲しそうな顔でノートに書いた。


 ごみくず


 勇斗達は顔をしかめてため息をついた。


「ひどい…」

「あんまりだよ」

「かわいそう」


 3人は黙り込んだ。

 いつしか雨が止んでかすかな日差しが小屋の窓から差し込んできた。

 勇斗が言った。


「あなたはごみくずなんかじゃないよ。

 俺達で名前をつけてあげる」


 ホームレスが嬉しそうにうなずいた。

 すかさず尚輝が立ち上がるとホームレスを指差しながら高らかに宣言した。


「あなたの名前はニコピン、ニコピンです!

 ニコピンに決まりです!」


 勇斗とちひろが唖然として顔をあわせた、が、ホームレスが嬉しそうにノートに書いた。


 ぼく にこぴん 


 ホームレスが立ち上がって笑い、飛び跳ねた。

 それをニコニコしてみている尚輝に勇斗とちひろが呆れた顔で抗議した。


「ひどいよ。なにそれ?」

「センス無いわぁー!」

「いい名前じゃない!僕のハンドルネームなんだ」


 尚輝が、ニコピンニコピンと叫びながらホームレスと一緒に飛び跳ねた。

 ニコピンが笑いながら、尚輝にノートを見せてにこぴんのところを指差した。

 ニコピンが尚輝の手をとって何度もお辞儀をした。

 尚輝がニコピンの手を握り返すとにこぴんは痛そうに顔をしかめた。


「あっ御免!手の傷に触っちゃった」


 勇斗がニコピンに尋ねた。


「あなた…ニコ…ニコピン自分の怪我は直せないの?」


 ニコピンがノートに書いた。


 あれ にこぴん だめ できない にこぴん だけ できない


「それは不便だねぇ…あっ、あたしいいもの持ってるよ!」


 ちひろが思い出したようにポケットからバンドエイドを取り出した。

 ニコピンの手をとると傷にバンドエイドを巻いた。

 不思議そうに手を見ていたニコピンが嬉しそうに手をかざした。

 宝石を見るようにニコニコしてバンドエイドを見つめている。

 ちひろにお辞儀をしてニコピンはバンドエイドをつけた手を窓からの光にかざして、

 微笑みながら見つめた。

 バンドエイドをうっとりと眺めているニコピンをみて、ちひろがくすくすと笑った。


「これくらいの事が嬉しいのかなぁ…なんか、ニコピンって犬みたい」


 勇斗が苦笑いで答えた。


「ニコピン、ここに居ついちゃうかもよ?」

「いいんじゃないの、別に」

「そうだよ、夜に誰かいれば泥棒とか入らないじゃん」

「あっ!やばい、あたし今日晩御飯当番なんだ!」


 ちひろがミッキーマウスの腕時計を見て立ち上がった。


「よかったぁ!雨、止んでる!あ!夕焼けだよ!」

「今何時?4時過ぎてるじゃん!うぇー!僕も帰らなきゃ!」


 ちひろの腕時計を覗き込んだ尚輝が慌てた声を上げた。

 尚輝が押入れの中からポテトチップの袋をひとつ出すとニコピンに差し出した。


「これ、お尻の怪我のお礼だよ。あげる」


 腹が空いていたのだろうか、微笑んでポテトチップを受け取ったニコピンが早速袋を開けるとポテトチップを口に詰め込んだ。

 ちひろと尚輝が土間で靴をはくと小屋を出た。


「あっ!」


 ちひろが片足を上げて立ち止まり、尚輝がぶつかった。


「どうしたの?」


 尚輝の問いに、ちひろが靴の裏に張り付いた赤とんぼの死骸をつまんで差し出した。


「かわいそう、ふんずけちゃった…」


 勇斗がちひろの手からから赤とんぼの死骸をつまみ上げた。


「俺がお墓を作っておくよ。

 俺はまだ時間は大丈夫だから」

「ごめんね勇斗、じゃ、お願いしちゃおうかな?」


 ニコピンがポテトチップを頬張りながら勇斗の手のひらの赤とんぼを優しくつかむと小屋を出た。

 ニコピンは小屋から歩きながら、手の中の赤とんぼを空に差し出した。

 赤とんぼがふわりと浮かぶと夕焼けの中を飛んでいった。

 その途端、草原のあちこちの赤とんぼが一斉に飛び立ち、生き返った赤とんぼに合流して空を飛び回った。


「うわぁ!凄い!」

「綺麗だわぁ」


 尚輝とちひろが歓声を上げた。

 勇斗だけが複雑な顔をして飛び交う赤とんぼを見つめていた。

 ニコピンは赤とんぼの乱舞の中嬉しそうにくるくると廻った。

 尚輝とちひろが勇斗とニコピンに手を振ると、それぞれの家に走っていった。

 勇斗とニコピンが小屋に二人きりになった。

 勇斗が押入れから古タオルを3枚出して畳に敷いた。


「ニコピン、布団が無いからこれで我慢してね。

 この小屋は電気が無いから真っ暗になるけど火とかつけないでよ。

 あと、食べ物は尚輝のポテトチップが押入れにあと2つくらいあると思う」


 ニコピンがノートに何か書いて勇斗に見せた。


 ありがとう ゆうと やさしい


 勇斗はしばらくノートを見ていたがぷいと横を向いてぶっきらぼうに呟いた。


「俺は優しくなんか無いよ」


 ニコピンはニコニコしながら勇斗の顔を見つめている。

 勇斗はいたたまれなくなったようにランドセルを背負うと小屋から飛び出し、見送るニコピンを振り向きもしないで走り出した。


「あの赤とんぼだって、またいつか死んじゃうんだ!

 またつらい思いをするだけだ!

 俺は優しくなんか無い!」


 勇斗は走りながら叫んだ。

 なぜか勇斗の目から涙が流れた。

 勇斗の目から流れる涙が、夕日が赤く照らす河原の景色を滲ませた。

 勇斗は荒い息をつきながら、家に向かって全速力で走った。




「ちひろ2」



 ちひろが夕日を浴びて住宅街を走っている。

 そして、安普請のアパートの2階の部屋の前に立ち、磨りガラス越しに中の様子を窺う。

 人の気配が無い事を確認したちひろはほっと胸を撫で下ろして鍵を開けた。

 バストイレ付きだが、4畳半の台所と6畳の日本間の簡素な間取りの部屋に入るとちひろは日本間の奥の粗末な仏壇のろうそくに火をつけ、線香をあげた。

 仏壇には、新聞から切り抜いた30代の男女とその子供らしい3歳くらいの男の子が笑っている写真が写真立てに納まっていた。


「どうか、許してください。

 天国で安らかにお暮らしください」


 手を合わせて目をつぶったちひろは小声で何回か同じ文句を唱えた。

 ろうそくの火を消したちひろは台所に戻り、冷蔵庫を開けた。

 ちひろは目を細めて冷蔵室、冷凍室をチェックして扉を閉めると腕を組み台所をぐるぐる歩き始めた。

 気難しげな顔つきで台所を3周ほど歩いたちひろが立ち止まった。

 ちひろはにやりとして呟いた。


「…カレーライス。カレーライスにしよう」


 ちひろは壁に掛かっているカレンダーの裏に貼り付けてある封筒を取ると中身をテーブルに空けた。

 10円玉や50円玉が混ざった小銭で270円ほど入っていた。

 ちひろは小銭を手に取ると情け無さそうに天井を見上げた。


「…ひきにく…鳥ひきにくカレー」


 コメを研いで炊飯器をセットしたちひろは買い物袋を壁から取ると部屋を出た。

 アパートから歩いて2分ほどの所に八百屋と肉屋と魚屋が軒を連ねている。

 ちひろが肉屋のショーケースの前に立った。

 肉屋のかみさんと世間話に興じている3人ほどの主婦がちひろを見ると話を打ち切りそそくさと歩いていった。

 肉屋のかみさんは表情を消した顔をちひろに向けた。

 ちひろはそんな事にも気付かないと言う風を装い、ショーケースに見入った。


「…鳥の胸肉のひきにくを200グラム下さい」


 かみさんが無言でひきにくを測りに置いて少し足し、少し引いて重さを合わせた。

 かみさんは小指を測りにかけて力を加え、ひきにく本来の重さに十数グラムを足している。

 ちひろはそのことに気付いているが、奥歯をかみ締めて無表情を装った。


「はい、200グラム、150円」


 ちひろは黙って肉を受け取り支払いをして背を向けた途端に、背後から肉屋のかみさんが小声で人殺しと呟くのを聞いた。

 ちひろの噛み締めたあごの筋肉がほんの少しだけ動いた。

 ちひろは肉屋同様に愛想が無い八百屋でニンニクを買い、アパートに戻った。

 ちひろは手際よくご飯をとぎ、炊飯器をセットするとカレー作りに取り掛かった。

 馴れた手つきで調理を進め、カレーを弱火で煮込みながら、冷蔵庫から出したセロリとトマトと少ししなびたキュウリでサラダを作っている時に玄関が開き、裕子が帰ってきた。

 昔は腕利きでセンスのある美容師だったが故あって今は派遣で倉庫作業をしている裕子である。

 小柄で、ちひろをもう少しいかつい感じにした顔立ちの女だ。


「ママ、お帰り」

「ただいま、またカレー?」

「文句言わないの」

「はいはい。あ~くたびれたー!」


 裕子は日本間に行き、荷物を置き、上着を脱ぐと仏壇に向かい線香を上げると、ちひろと同じ文句を唱えた。

 裕子が台所に来るとちひろを後ろから抱きかかえた。

 笑顔が妙に愛嬌がある。


「うーん、ちひろたん、お腹空いたわぁ」


 ちひろは塩、コショウ、酢、オリーブオイルをサラダに馴染ませながら肩をゆすった。


「もう少しだから我慢我慢」

「はぁーい…ん?くさい…なんかくさいわぁ」

「え?なに、ママ」

「なんか、どぶみたいな、ホームレスみたいな匂いがする」


 裕子が鼻をひくひくさせ、ちひろは一瞬身をこわばらせた。

 ちひろが自分のセーターの匂いをかいで慌てて取り繕うように言った。


「あっ今日学校でごみ掃除したからよ。

 手はちゃんと洗ったから大丈夫」

「へぇ、ごみそうじかぁ。ちひろ、えらいね」


 裕子がちひろの頭をわしづかみにしてくしゃくしゃと撫でた。


「さぁ、ごはんごはん、ママも手を洗ってよ」

「はぁーい」


 ちひろはセーターを脱いで洗い物のかごに入れた。




「尚輝2」




 尚輝は住宅街の丘の天辺にそびえる豪勢な自宅の前まで来てからはっと気付いて尻に手をやった。

 ちひろが放った吹き矢が見事にズボンの尻のところを引き裂いていたのだ。

 尚輝が身を捩じらせてズボンの尻の布地を引っ張ってみると夥しい出血の跡がズボンを染めている。

 尚輝は無言で地団太を踏んだ。

 覚悟を決めた尚輝は玄関を開け、中の様子を窺う。

 人気がしないので慌てて靴を脱ぎ2階へ通じる階段を上った。


「あら、尚輝坊ちゃま、今お帰りですか?

 随分遅いお帰りですね」


 台所からばあやが出て来て尚輝を見上げた。


「うん、途中で雨が降ったから雨宿りしてきたの」


 尚輝が慌ててばあやから尻を隠そうと階段で身をよじり答えた。


「ママンはいるの?」

「美菜お嬢様のお見舞いに行ってますよ」

「あ、そう」


 尚輝はばあやの方を向いたまま後ろ向きに階段を上がっていった。

 ばあやが不思議そうに尚輝を見上げていた。


「ばあや、おなかが空いちゃった。

 おやつを用意してよ」

「はいはい」


 ばあやが台所に向かった瞬間に尚輝が慌てて自分の部屋に入った。

 部屋に入ったとたんに尚輝はズボンを脱ぐと尻の辺りを見て顔色を変えた。

 血の跡が尻から膝の裏までべっとりと広がっていた。

 尚輝がズボンを見つめながら押し殺した声で呟いた。


「うわぁー、何これ…本当に本当に、ニコピンが僕の怪我を治したんだ!」


 ノックの音がした。

 ばあやがおやつを持ってきた。

 尚輝は慌ててズボンをベッドの下に隠した。


「今、着替えてるからおやつは居間にもって行って!」


 ドア越しにばあやの返事が聞こえ足音が遠ざかっていった。

 尚輝はほっと胸を撫で下ろし、クローゼットからズボンを取り出してはいた。

 部屋を出た尚輝は廊下を歩きだしたが、妹の美菜の部屋の前で足を止めた。

 尚輝がドアを開け、美菜の部屋の中を眺めた。

 尚輝はピンクに統一した美菜の部屋のインテリアに顔をしかめつつ、机の上の美菜の写真に見入った。


 病院のベッドの上で巨大なミッキーマウスのぬいぐるみを抱いて笑っている美菜の髪の毛は治療の副作用でほとんど抜け落ちていた。

 美菜は2年前に小児白血病を発病して入院しているのだ。

 今は症状が悪化して無菌室の中で骨髄が適合するドナーが現れるのを待っている。

 尚輝は美菜の写真をしばらく見つめていたが、やがて部屋を出た。

 尚輝が居間でテレビを見ながらおやつのケーキを食べていると尚輝の母親の慶子が運転するベンツの音がかすかに聞こえてきた。

 慶子が美菜の洗濯物をばあやに渡すと居間に入ってきた。


「おかえりなさい、ママン」

「ただいま、尚輝。学校どうだった?」

「別に、いつもと変わんないよ」

「そう」

「…ママン?」

「なあに」

「美菜の様子はどうだった?」

「…変わんないわよ」

「ドナー、見つかった?」


 慶子はテーブルにすわり頬杖をついた。


「まだ、見つからないわ」

「…見つかると良いね」

「きっと見つかるわ」


 尚輝がケーキを食べ終わると慶子がパーラメントを取り出し、火をつけた。


「ママンが煙草吸ってるのパパンには内緒よ」

「うん」


 慶子が煙草を吸う時の決まり文句である。


「…美菜、本当に治るかなぁ…」


 尚輝の何気ない言葉に慶子が声を荒げた。


「治るに決まってるでしょ!

 尚輝はそんな心配しないで勉強しなさい!

 もうすぐ家庭教師が来るからさっさと部屋で準備して!」


 尚輝が弾ける様に部屋に走っていった。

 その後姿を見送った慶子が煙草の煙を吐き出しながら、がっくりと首を垂れた。




「勇斗2」




 俯いた勇斗が、夕方の買い物客のピークが過ぎた、まばらな人影の商店街を歩いている。

 手持ち無沙汰に店頭に立っていた八百屋の親父が勇斗を見つけて声を掛けた。


「勇ちゃん、おかえり!」

「ただいま」

「何だ、今日は元気ないなぁ」

「今日は色々あって…ちょっとくたびれただけ」


 勇斗はそれだけ言うとまた俯いて歩いてゆく。

 八百屋の親父は勇斗の後姿を見て呟いた。


「よくわかんないけど、今日びの小学生も、たいへんなんだなぁ…」


 勇斗が「つかさ」と言う名の小さな居酒屋の前で足を止めた。

 一階が10坪程の小さな居酒屋で2階3階が住居になっている。


 勇斗の家である。

 勇斗の母親は父が生きていた時からここで居酒屋をやっていた。

 勇斗の父親は元々この居酒屋の常連でこの店を一人で切り盛りしていた母を見初めて結婚したのだった。

 まだ看板は出していないが、店の中では勇斗の母である早苗が和服姿で忙しく仕込みをしていた。

 扉を開けて勇斗が入って来た。

 早苗がモツを煮込みながら勇斗に声を掛けた。


「勇斗お帰り、今日も図書館?」

「うん、ちょっと面白い本があって遅くなっちゃった」

「そう、晩御飯できてるよ。手を洗って食べなさい」

「はーい」

 早苗が手を休めて勇斗の顔を見た。

「勇斗、今日は元気ないねぇ?熱でもある?」

「…ううん、少しくたびれただけだよ」

「そう…」


 早苗は納得しないながらも、視線を手元に戻して仕込みの続きを進めた。

 勇斗は店の奥の階段を上って行った。

 2階はユニットバスと4畳半の台所と6畳の和室、3階は6畳2間で勇斗の部屋は3階の6畳間である。

 勇斗は3階の自分の部屋にランドセルを置いて2階に戻ると6畳間の仏壇に線香を上げて手を合わせた。

 仏壇には警官の制服姿の父の遺影が飾ってあった。

 台所で手を洗った勇斗はテレビをつけると、テーブルの夕食を食べ始めた。

 食事を終える頃、階下から有線の演歌が流れてきた。


「勇斗!看板出してくれる?」


 早苗の声がした。

 勇斗は食器を流しにおいて階段を下りていった。

 看板を出して店の中に戻った勇斗がカウンターを拭いている早苗のそばを通ったとき、早苗が勇斗の肩を掴んだ。


「勇斗?…なんか臭うわねぇ」

「え?何が?」

「なんだろう?…生ごみっぽいような…」

「あっ、図書館で隣にホームレスの人が座ってたんだよ。

 きっとその人の匂いが移ったんだ」

「あ、そう…じゃ、早いところお風呂に入りなさい」

「はぁい」

「あんまり変な人に近づいちゃ駄目よぉ」


 早苗にお尻を軽くはたかれた勇斗はそそくさと2階に上がっていった。

 勇斗は階段を上がりながら苦笑を浮かべた。

 変な人…ニコピンはある意味においてはものすごく変な人だろう。

 ただ今日起こったことを話しても誰もそれを信じないだろうけどな、と勇斗は思った。

 風呂に入り湯舟に浸かっている勇斗の耳に、数人の客が来たらしく階下から賑やかな話し声が途切れ途切れに聞こえてきた。

 客の笑い声とともに早苗の笑い声も聞こえてきた。

 勇斗は早苗の笑い声を聞く度に、早苗が父の死から立ち直ってゆくのにほっとしながらも、父を忘れ去ってゆくようで寂しく感じるのだ。

 勇斗はその点ではまだ、父の死を引きずっている。

 勇斗の父が殉職するまでは、勇斗は明るい、どっちかと言うと落ち着きの無い子供だったが、父が殉職してからの勇斗は無口なふさぎこみがちな少年になってしまった。

 それまで、仲良く行き来していた勇斗の友人たちも勇斗の変化に戸惑い次第に離れていった。


 勇斗は湯舟の中で腕の臭いをかいで見た。

 体からは特に臭いはしない。

 風呂を上がりパジャマを着た勇斗は洗い物籠の服の臭いをかいだ。

 ニコピンの臭いが微かにする。

(やっぱり、あの臭いはまずいよ)

 勇斗は3階の洋服ダンスを開けた。

 中には勇斗の父が着ていた服が入っていた。

 勇斗は父親のスウェットと上着、ズボンなどを出して自分の部屋に持って行った。

 しばらくそれらの服を眺めていた勇斗は服をベッドの下に押し込むと、テレビを見に2階に降りて行った。




続く


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