第8話 許嫁

 蒼空(そら)は、まもなく齢十六を迎え元服を控えていた頃、父親の蔵之介が突如他界した。

 綾乃は、最愛の夫を亡くした心労に、多額の借金と幼き子供たちを抱え途方に暮れていた。

 そんな中、里の権力者である橘家たちばなけより蒼空との縁談が舞い込んだ。

 相手は、蒼空の幼馴染でもある橘小雪(たちばなこゆき)だっだ。

 それは、蒼空が橘家へ婿入りすれば、父親の借金を橘家がすべて肩代わりするというものだった。

 ふいに沸いて出たまたとない良縁に、綾乃は安堵するとともに心痛めた。

 蒼空の想い人が誰であるかを知っていたからだ。

 今や、親公認の許嫁となった蒼空と美月姫を、借金の肩代わりに引き離すことなどできなかった。

 そこで綾乃は、蒼空に縁談話を告げることなく橘家に断りを申し出た。

 たとえ里の者から愚かだと言われようとも、母親として息子の望む幸せを叶えてあげたかった。

 その決断は、一家が惨めな生活に追いやられることを覚悟したうえでのことだ。

 蒼空と美月姫は、実家が窮地に追いやられていることを知らぬまま仲睦まじい日々を送っていた。

 それから数日経ったある日、美月姫は、里の人々の噂話を偶然耳にする。

「染物屋も大変だな。一家の大黒柱にあれだけの借金を残されて先立たれたら、残された家族は生き地獄だな」

「長男が後を継ぐだろ」

「それがどうやら染物屋の職人たちごと借金の形に取られたって話だぞ」

「それじゃあ、染物屋はどうなる」

「聞いた話だが、橘家から縁談の申し出があって、婿入りと引き換えに借金を肩代わりするって話だが、断ったらしいぞ」

「それは本当か。そんな良縁どうして断った。借金をどうやって返していくつもりだ?」

「それでも、橘家は縁談をすすめているって話だ」

「あそこは婿取りだからな。でもなぜ染物屋の長男なんだ?婿なら選び放題だろうに」

「橘の娘が染物屋の長男に惚れ込んでいるらしいぞ」

「そういうことか。これで借金は帳消しだな」

 美月姫は耳を疑った。

 蒼空と毎日に会っているというのに、そんな話は聞いたこともなかった。もしもそのような話があった場合、蒼空だったら必ず話してくれるはず。

 それに、心の声を聴くことができる美月姫に隠しごとはできない。

 人の不幸は蜜の味というが、繁盛していた染物屋の主人が突如多額の借金を残して亡くなったため、里の者たちが勝手にでっち上げた噂話としか思えなかった。 

 だが、この胸の引っ掛かりはなんだろう・・・・・・?

『橘の娘が染物屋の長男に惚れ込んでいるらしいぞ』

 先程の里の者たちの会話が、頭の中を何度も駆け巡る。

 そうだった・・・・・・。

 小雪も蒼空のことが好きだった・・・・・・。

 幼きあの頃、小雪の心の中は蒼空への思いでいっぱいだった。

 だけど、蒼空はその想いに気づくことはなかった。

 だって、蒼空はいつだって美月姫だけを見ていたから。

 いつの日だったか。あれは、小雪の心の声だったのだろう。小雪の心が泣いている。時を超えて聞こえてくるようだった。

『蒼空が好き。笑顔が好き。転んだ時手を差し伸べてくれた優しい蒼空が好き。もっと構って欲しい。なのにどうして美月姫なの。あの子さえ居なければ、蒼空は私だけを見つめてくれたはず。蒼空は私だけの物。蒼空を独り占めする美月姫が憎い・・・・・・あんなバケモノ居なくなればいいのに・・・・・・』

 時を超えて届いた小雪の心に、思わず耳を塞いだ美月姫は、言いようのない不安にとらわれた。


 そんな噂話を耳にした日、染物屋の職人たちが山神神社に揃ってやってきた。

 職人たちは、美月姫が蒼空の許嫁と知りながら次々と言いたいことを言う。

「これまで大事に育ててくれた綾乃に恩を返すならば今だ」「今こうして暮らしていけるのも奥さんあってのことだ」「これまでの恩を忘れるな」「今恩を返さずにいつ返すのだ」と、蒼空のことを諦めるよう畳み掛けた。

 本来ならば、寄る辺ない美月姫は、女郎屋か見世物小屋に連れて行かれるところだった。そんな美月姫を救ってくれたのは蒼空の母、綾乃だった。

 今こうして何不自由なく暮らして行けるのも綾乃のおかげなのだ。

 蒼空が橘家に婿入りすることで借金はなくなり、家族も職人たちもこれまで通りの生活を送ることができる。皆の言うように、自分の幸せを手放すことで蒼空の家族が幸せになれるのならば、今こそ恩を返す時なのかもしれない。そう思うようになる。 

 だが、それは蒼空との別れを意味している。言いようのない虚しさに襲われ、胸の痛みを覚えた美月姫は、胸に手をあて悲しみを押し殺すように瞑目した。

 美月姫は自分に言い聞かす。やっぱり、自分のような人間が幸せを望むことが間違いだった。蒼空のお嫁さんになることは、夢物語に過ぎなかったのだと。

 この時、美月姫は一度掴んだ幸せを自ら手放すことを決心した。

 久しぶりに蒼空の屋敷を訪れた美月姫は、綾乃に許嫁解消を申し出たがあっけなく断られてしまった。

「あなたは、自分の幸せだけを考えて生きなさい。私がそうであったように、あなたも愛する人と結ばれて欲しいの。あの子もきっとそれを望んでいるわ」

 それは、思いも寄らない言葉だった。

 こんな時まで、他人である美月姫の幸せを願ってくれる綾乃の言葉に背中を押され、今一度己の気持ちに正直に生きてみようと思い直した。 

 一度は諦めかけた蒼空との幸せを、再び夢見る美月姫だった。


 それから数日たったある日、美月姫は、綾乃が倒れたと聞き屋敷を訪れた。

 綾乃は、生活のためにやったこともない畑仕事を始め、慣れない重労働に体を壊したのだ。

 床に伏す母親の傍らで、心配な面持ちで空腹に耐える幼き弟妹たちの姿に胸を痛めた。自分だけが幸せになることはできないと感じた美月姫は、蒼空に申し出た。

「私たち離れて暮らすことになってから、思ったほど寂しくないというか・・・・・・私は今の生活に満足しているの。自立するのが私の望みでもあったから・・・・・・」

「何?急にどうしたの?」

 美月姫は蒼空の顔を見ることができなかった。顔を見たら今にも泣き出してしまいそうだったから。

「ほら、先のことなんか分からないじゃない?また時期が来たら考えるとして・・・・・・あっ、と、とりあえず許嫁を解消してもいいかな・・・・・・なんて思ったりして・・・・・・」

 蒼空は、突如心にもないことを言い出す美月姫にため息交じりに答える。

「嘘が下手だな。誰かに何か言われたのか?」

「蒼空が橘の縁談を受ければ・・・・・・家族が、染物屋の皆が救われるのでしょ・・・・・・」

「やっぱり・・・・・・。その話どこから聞いた?ひょっとして職人たちに何か言われたのか?」

 蒼空も、職人たちや里の者から家が今置かれている状況を知らされていた。

「これまでの恩義を返すのは今だと思ったから。家族の役に立ちたいの」

「馬鹿だな。美月姫は何も心配しなくてもいい」

 蒼空は美月姫の頭を優しく撫でた。

「それでは皆が困るのでは・・・・・・」

「借金は僕が父さんの後を継ぐから大丈夫。母さんと話し合うからそんな顔するな」

 これまで嘘などついたことのない蒼空の言葉に、美月姫は安堵した。


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