第9話 縁談
「母さん、体調はどう?」
「ええ、大分よくなったわ。あなたたちのおかげね。横になってばかりいられないわね」
床から起き上がった母に羽織を着せようと手にした蒼空は、ひとまわり小さくなった母の背に己の力のなさを思い知らされた。
「縁談の話は聞いた。僕が後を継いで借金を返済するから何も心配はいらないよ」
「それが・・・・・・・・・生業を職人ごと取られてしまっ・・・・・・・・・」
職人たちを雇い父親を筆頭に手広く生業を手掛けてきた染物屋は、同業者から羨望されるほど繁盛していた。だから、これまで通りであれば借金も返済できたはずだった。
だが、その店を取られたとなっては、どうすることもできない。
「それじゃあ、これからどうやって生きていくつもり?」
「そうね。皆で母さんの里に帰って、そこで何か仕事を貰って暮らすとか」
綾乃は、とある里の裕福な豪商の娘として育ち染物屋に嫁いできだ。夫蔵之介の意向もあり、家事全般全てのことを使用人に任せ、百姓の真似事すら経験をしたことはなかった。そんな世間知らずな母親には酷な話だった。
「だったら僕が働くよ。百姓だってなんだってして皆を養うから」
実際生きていくのが精一杯で、生業を奪われた今多額の借金を返すことなど不可能だった。
「お母さんのことは心配しないで。あなたは美月姫と幸せになることだけを考えなさい」
だが、それは一家が路頭に迷い貧しい生活を強いられることを意味していた。
父が亡くなる前と比べ、随分とやつれてしまった母綾乃。別人のように弱々しく小さく見えた。
母はこれまで自分たちを愛情いっぱいに育ててくれた。今日明日にも食べることさえ儘ならぬこの状況下であっても、自分たちの幸せを一番に願ってくれる優しい母。
蒼空はやるせない思いに胸が張り裂けそうだった。
縁談を受ければ家族皆が幸せになれる。自分さえ我慢すれば・・・・・・・・・。
蒼空も美月姫と同じように家族の幸せを願った。
「蒼空、あなたの人生は一度きりなのですよ。心のままに正直でありなさい」
蒼空の心にはただ一人、美月姫しかいない。彼女を手放すことなんてできない。
けれど、このままでは母さんも、弟妹たちも生きていけない・・・・・・。
幼き頃からいつも一緒だった美月姫。これまでそうであったように、これからもずっと変わることはないと思っていた。
美月姫の蒼空だけを真っすぐに見つめる美しい蒼穹の瞳が・・・・・・その愛らしい笑顔が・・・・・・心地よい鈴の音が・・・・・・蒼空の胸の中で溢れかえる。
ああ、どうしてこんなことに・・・・・・。
蒼空は、悔しさに唇を噛みしめた。ギュッと拳を握りしめると、断腸の思いで決意した。
「母さん、縁談は受けるから・・・・・・だから、もう心配しないで・・・・・・」
ごめん、美月姫・・・・・・。
「蒼空、あなたばかりが犠牲になることはないのよ」
母の言葉に心が揺れる。できることならそうしたいが、生きるためにはこれしか選択肢がないのだ。
「母さん、決めたんだ。だから、もう何も言わないで!決心が鈍るから・・・・・・」
「ああ・・・・・・どうしたらいいの?許して!こんな母をどうか・・・・・・!」
たおやかでいつも太陽みたいだった母親が、取り乱し泣き崩れる姿を見て自分はなんて哀れなのだと思い知ると、自嘲気味な笑みが零れでた。
蒼空は、沸々と腹の底から込みあげる怒りの感情を、高圧的な口調と態度で母親に浴びせた。
「謝って済むことじゃないだろ!犠牲になるのは僕だ!泣きたいのは僕の方だ!それに、父さんはもういないんだよ!いつまでも夢見がちなことばかり言っていないでしっかりしろよ!」
己の辛辣な物言いにハッと我に返った蒼空は、悔恨の情が急にこみ上げてきた。
母親は悪くない。誰も何も悪くない。
自分の運が悪かった。ただ、それだけだった・・・・・・。
それから数日が経った。
美月姫と蒼空は、離れて暮らすようになってから毎日欠かさず会い、たわいもない話をするのが日課となっていた。互いの知らない時間を埋めるように、その日のあった出来事や感じたことなど報告し合うのだ。
だが、蒼空は美月姫に橘小雪との婚姻を結ぶことになったと伝えられずにいた。
家族のために美月姫との幸せを手放し、別の女性と婚姻を結ぶと決断した蒼空だったが、元服を迎えたばかりの未熟な蒼空には、残酷な現実を受け入れることは容易ではなかった。
美月姫は人の心を読み解くことができる。だから、あえて口に出して言わずとも心悟られるのも時間の問題と考えた。
「あれから、おばさまの具合はどう?」
「ああ、大分よくなったよ」
「そう、よかった。私にできることがあったら何でも言ってね。力になりたいの」
だが、なぜか美月姫に心を読み解かれることはなかった。
蒼空は、美月姫に真実を話し許しを乞い気持ちが楽になりたかった。
それと同じくらい、傷つく美月姫を想像しただけで胸が苦しくなり、伝えることなどできなかった。
その後、蒼空と小雪の婚姻は美月姫に伝わることなく、無情にも時だけが過ぎ去っていった。
蒼空の心は、いつだって美月姫への想いで溢れている。
今日も、美月姫はいつもと変わらない美しい瞳で蒼空を見つめた。自分を信じてやまない美月姫を騙しているようで、罪悪感に駆られとても辛かった。
「蒼空?どうかしたの?最近元気がないようだけど・・・・・・」
いつも何か言いたげな様子の美月姫だったが、確信をついては来なかった。ひょっとして、心読み解き縁談について気づいたが言い出せないだけなのか。
話すべきか思い悩んでいると、美月姫は両の手で蒼空の頬をそっと包み込むように触れた。
「痩せた?」
「美月姫、実は・・・・・・僕は・・・・・・いや、何でもない・・・・・・」
喉が閉まって声が出ない。蒼空はどうしても言葉にして伝えることができなかった。
悲しむ美月姫の顔を想像しただけで辛かった。
蒼空は、無言で美月姫を抱きしめると彼女の肩に顔を埋めた。
美月姫・・・・・・このまま二人でどこかに行ってしまわないか・・・・・・
「蒼空?時々あなたの心が読めないの・・・・・・何があったか知らないけど、無理しないでね」
届くことのない蒼空の心の声。虚しさだけが募っていく。
美月姫は自分をこんなにも信じてくれている。そんな美月姫を傷つけることなどできない。どうしてこんなことになってしまったのだろう。
蒼空は、不運な自分の人生を呪いたくなった。
まもなく、美月姫を傷つけてしまう日が訪れる。
ごめん・・・・・・。本当・・・・・・。離れ離れになろうとも、君だけが好きだ。ああ、ダメだ。手放す・・・・・・。こんなにも愛しているというのに・・・・・・!
美月姫を抱きしめる腕にギュッと力が籠る。
「美月姫・・・・・・」
「なあに?」
迷子になった蒼空の心。
「大好きだよ・・・・・・」
震える声音。
「蒼空・・・・・・?どうしたの?泣いているの・・・・・・?」
美月姫は、震える蒼空の背に手をまわし無言のまま抱きしめた。
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