第20話 間違えるのが怖くて、動けない

 父の話に、怒るも失望するもなかった。

 私にも、複雑な事情があった。安蘭と私は、複雑な事情を抱えた仲間だ。安蘭は、私にますます、気を許すに違いない。

 喜び勇んで、安蘭の家へ向かう。

「ねえ、死んだって聞かされていた母が、実は、生きていたの! 驚きじゃない? 私、この歳になるまで、まるで疑わなかったのよ。それもさ。単に、母親役を放棄して、男性と遊ぶような、酷い母だったみたい! 笑っちゃう! なーにが命懸けよ!でも、お父さんったら、魅力的な人で、大好きだったなんて、惚気るのよ。私、お父さんに聞いたよ。『お父さんは、実のお父さんなの?』ってさ」

「それで? ねえ、砂羽。どんな言葉を、俺に望んでるの? 砂羽の期待する、俺の反応って、なに?」

 安蘭は、冷ややかな目で私を見る。

 しまった!

 なんて嬉しそうに、嬉しくもない話をしたのだろう。

 途端にしょげる私の腕を、羅伊太が握る。

「砂羽ちゃん、面白いを、やって!」

「面白いを、やる?」

 とっさに思い付いたのが、象の鳴き真似だった。

 のっそり立ち上がり、か細い腕を、顔の真ん中辺りに持って来る。ゆらりゆらりと振る。

 思い切りが悪いは、カッコ悪い。

 どうせ、恥を掻いた後だ。恥を恐れず、思い切り行こう!

 ぱおーん! 

 顔の真ん中からぶら下げた腕を、天井に向け、大きく伸ばし、思い切り叫んだ。

「きゃー、象さん! すっごーい。じょうずー!」

 喜び、手を叩く羅伊太の側で、安蘭が大声で笑う。

「がはは、がはははは。ぎゃはー、ぎゃははは。ねえ、ねえねえ。砂羽って、面白い芸、やれたんじゃん! 俺、笑わせてもらうのを待つばかりかと思ってた。しっかし、細い象だな~。よぼよぼ! だから、ますます笑える」

 なんだか、むかつく!

 だけど、ちょっと嬉しい。

「ちょっと、笑い過ぎなんだけど!」

「ねえねえ、次、猿。猿なら、痩せてんのもいる。砂羽ちゃ~ん、やって! 猿!」

「なして、安蘭のリクエストに応えにゃいかんのさ!」

「砂羽ちゃ~ん、お猿さん、やって~!」

 オー マイ ゴッド!

 羅伊太に強請ねだられたら、やるしかねーだろ!

「猿。猿だね? 解った……」

 きききー きききー もんききー

 まさに、猿真似。中途半端に真似たら、やっぱりいただけない。

 止む無く、思い付くままに、駄洒落を付け加えた。取り繕うとしたんだよ。

 なおさらひどい。

「へ? お猿さん?」

 羅伊太は、あまりに正直だ。呆気に取られ、不思議そうに私を見る。

「ぎゃははー、ぎゃはぎゃは。それ、萎びたゴリラ。いやいや、猿を真似する、萎びたゴリラだな。なに? 最後の。取って付けたような『もんききー』っての。駄洒落? なってねえ! ぎゃはははは。似てねえから、名乗っちゃった? ぎゃははは。砂羽、最高よ! 面白えー。ああ、腹が捩れる」

 安蘭は、お腹に手を当て、転げて笑う。

「ぎゃはは。ぎゃはは。ぎゃはは。ぎゃはは」

 羅伊太が安蘭の真似をする。

(幸せでいようよ、みんなで)

 面白くもない話を、土産話にして蔑まれようが、下手な猿真似で、馬鹿にされようが、笑う安蘭と羅伊太がいれば、幸せだ。

 裏があろうが、闇があろうが、複雑だろうが、私の目には、笑う二人が映る。心の底から幸せだ。

 安蘭と羅伊太のいる空間に、笑いを届けたい。二人が楽しいと思ってくれる瞬間を、何度でも作り出せたら、私は嬉しい。

 誰かに守られるだけの存在なんて、つまらない。

 なんにも知らないなんて、つまらない。

 どうしようもない、苦しい現実を知っても、忘れて笑える時もある。幸せだって思える瞬間も、きっとある。

 安蘭は友人なのに、愛羅は妻なのに、誤解するような兄ならば、安蘭がそのままでもいいと語った意味が、ほんの少し、解った気がした。

(安蘭と羅伊太は、私が支え、守って行く!)

 安蘭と羅伊太の居場所が、自分の居場所だと思い込んだ。

 足繁く、二人の元へと通った。

 私が行けば、安蘭も羅伊太も、歓迎してくれた。

 安蘭の、私に対する気持ちにも、朧気ながら自信を持った。

 だけど、私はただ、恋する自分に、恋していた。のぼせていた。

「俺、不幸な男じゃん。不幸な男って、もてるのよ」

 大学が始まって、数か月が過ぎた頃だろうか。

 安蘭が、いつもと変わらぬ調子で語り始めた。

「なんかさあ、〝かわいそう〟を、母性愛かなんかとごっちゃにして、『守ってあげたい。ずっと一緒にいるわ』なんて、目をハート型にされるのは、甚だ迷惑だわな」

 疎い私でも、瞬時に悟った。 

 私のことだ!安蘭が、出自の秘密を打ち明けたのは、私だけだから。

「俺さあ、不幸話を餌にして、もてたいわけじゃないのよ。不幸を共通点にして、『解り合えるね』みたいのも、大嫌い。きしょい! なあ、砂羽。エイズを発症した末路、見たことねえだろ? 今みたいな、ハンサムな俺じゃあなくなるんだぞ。それとも、怖いもの見たさで、日々、弱まり、見た目も痛々しくなってく俺に、興味がある? どんな風に崩れて行くのか、知りたい? あのさあ、今まで黙ってたけど……いったい、どういうつもりで、遊びに来てるの?」

 怖かった。

 私を寄せ付けない強さが、安蘭から溢れていた。

 生半可な気持ちで、安蘭と羅伊太を訪ねる私を、非難していた。

「ただ、二人が笑った姿が見たくて……二人といるのが楽しくて……」

 安蘭は、冷ややかな顔を、くしゃっと崩す。

「やだねー、俺。どういうつもりって、ただ、遊びに来てるだけだわなあ。羅伊太は可愛い盛りだし、俺は、カッコいい盛りだし。今が良ければ、今さえ良ければ。砂羽はいいんだもんなあ。嫌になったら、来ない。関りを絶つ。それだけだろ?」

「そんなんじゃない! 大学も、まだ始まったばっかりだし……わりと暇な時間もあって……」

「いいよなあ、苦労のない奴は。大学で適当にお勉強して、適当に遊んで。かわいそうな俺と羅伊太の所にのこのこやって来て、『みんなで笑って、ああ、いい気分! 楽しいねえ、幸せだねえ』って感じ? 俺は、先を考えたら、不安ばっかりよ。口に出してもしかたないけどさ」

(そうだよね。不安だよね。大丈夫、これからは私が、安蘭を支える。助けになる。困難は一緒に乗り越えて行こうね!)

 全ての言葉を飲み込んだ。あまりにちゃちだ。

 へらへらと笑った。子泣き爺みたいだったろう。

 安蘭の顔を見れなくなった。すごすごと、退散した。

 家に帰って、初めて、後天性免疫不全症候群について調べた。

 目を背けたくなる画像と向き合うのは、苦しかった。

 でも、見た。想像以上に痛々しく、惨い。怖い。

 かわいそう、では済まない。

 辛い最期についても、情報はたくさんあった。

 安蘭が、エイズと言う爆弾を抱えた経緯まで考えると、私と安蘭は、まるで似た境遇ではなかった。

 不幸な生い立ちに、勝手に仲間意識を持ち、喜んだ自分を、大いに恥じた。

 誰だって、深刻な病気なんか、抱えたくない。

 安蘭は強い。日々、さらに強くなろうとしている。涙が流れそうでも、羅伊太を前に、辛さや悲しみを誤魔化し、笑おうとしている。

 じっと手首の傷を見る。

 もう、目立たない。

 でも、私の手首の傷は、私の弱さの象徴だ。

 私は、気持ちのいい場所、気持ちの楽な処、傷付かなくて済む人たち、いつもその中に逃げて来た。

 誤魔化しながら生きるのは、しっかり苦渋を舐めた人の特権だ。

 私には、まだ、早い。

 兄がいつも、私の前に立ち、私を守った。子供の頃からいつも。だから私は、弱いままでいられた。

 七つ年上の兄は、いつだって、私にとっては十分に大人だったけれど、兄だって子供だった。幼かった。同い年の安蘭と、もっと弾けて遊びたかっただろう。私の母に、なれるわけもない。

 兄は、強かったわけじゃない。ただ、私を守りたかったのだと思う。

 兄はきっと、父のことも、守りたかった。母に置き去りにされる父もまた、深い傷を負ったのが、兄には見えたに違いない。

 年端もいかない兄が、目にいっぱい涙を溜めて、きらびやかな母を、玄関口で追い返した姿を思う。

 兄だって、母親が要らないわけではなかっただろうに。振り回される父と兄自身のために、私のそれからの幸せのために、仁王立ちになって、母を追い返した。

 本当は、兄こそ、母親が必要だった。抱き締めて欲しかった。もしかしたら、私よりもずっと……母の愛情が欲しかったのは、なにも知らない私ではなくて、幼いなりに事情を理解していた、兄だったのではないだろうか。

 強い者が、弱い者を守るだけでは、きっとない。

 時に、強いも弱いも、大差ない。

 だったらきっと、私にも、安蘭や羅伊太を守れるだろう。

 父や兄が、私に注いだ愛情を、私は、安蘭や羅伊太に注ぎたい。誰かにもらった見えないけれども大切なものは、誰かに返して行けばいい。

 強くなくてもいい。

 でも、私にはもう少し、己の力が必要だ。

 苦渋を舐める前に、誤魔化して生きてはいけない、気がする。

 だけど、だけどよ! ちょっと、待って!

 私は、安蘭を好きなのね。好きなのよ。

 誰かに恋したら、会いたいって気持ちだけで、会いに行くでしょう? 普通は。

 普通の恋はできないったって、気持ちのままに走るくらい、あってもいいのじゃないかしら?

 病気の爆弾を持っている安蘭には、会いたい気持ちだけで会いに行ったらいけないの?

 もしも安蘭が、病気を発症したらって考えて、対策を練って……会うのは、それから、が、正しいのか? 

 頭を抱えた。

 なんの進展もない。

(お兄ちゃん、どうしているだろう)

 大人びた兄だって、誰にも理解されない苦しみを、抱えているに違いない。

 愛羅に裏切られていたと、私の前で泣いた兄は、それきり、姿を見せない。

 きっと、もう誰にも、弱い自分を晒したくないんだ。だから、私や父を避け、安蘭を避け、羅伊太までをも遠避けて、今も一人、きっと苦悩の中にいる。

 頭に置いた手で、髪の毛をくしゃくしゃにする。

 進展がない。

 私は、なにをしたらいい。なにから始めればいい。

 一番の気掛かりは、兄だ。ペンダントを部屋に置いた日から、何も言っても来ない。

(あの返しかたは、まずかったか……)

 これまでの自分の、一挙一動すべてが、間違いだった気がして来る。

(次は、どの足から歩き始めたら、間違えないで済むだろう)

 間違えが怖い。まだ、なんにもしてないのに、間違えるのが怖い。

 間違えれば、自分が傷つき、相手を傷つける。

 私の時計が止まった。

 でも、周りの時計は、私に構わず進む。

 季節は、夏から秋へと移る。

                                 つづく


 


  

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